2017 / 04
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ヨハネによる福音書20章11~18節

澤田 武師

主題聖句「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」       20章16節

 マグダラのマリアは、イエス様のお体がお墓の中にみつからないので、泣いていました。その場を立ち去ることも出来ないほどの悲しみの中にいます。

 イエス様の十字架の死は、マリアにとっては突然でした。さらに安息日が始まるため、十分な葬りの準備も出来ないまま、安息日が開けた朝を迎えました。確かに収めたはずのイエス様のご遺体が見当たらない。もうマリアには何が起こっているのか分かりません。何もかもが失われた絶望の中では、泣くことしか出来ませんでした。

 泣きながらお墓の中を見ると、そこにいた天使が「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問います。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているか、わたしには分りません。」マリアの視線は、イエス様が葬られた墓に向けられています。それは、生きている者を探す視線ではありません。イエス様の死を探す視線です。しかしそれすらも見失ってしまったマリア。

 その悲しみの言葉を神様は“祈り”に変えてくださいました。マリアが答えた言葉は、神様への訴えであり、抗議であるとも聞こえます。しかしそれはマリアの本心です。神様はこの言葉を受け取って祈りへと変えられます。

 16節、「マリア」と呼びかけたその声は、聴きなれていたイエス様のお声でした。イエス様はいつもと同じように名前を呼んで、マリアを、死を見つめる者から、復活のイエス様に振り向く者に変えてくださいました。イエス様はマリアが見ていた死の領域から振り向かせ、永遠の命を約束する、神の領域を見る者へと、その視線を変えてくださいました。

 いかなる悲しみや不安絶望の中にいても、イエス様は「わたし」を覚えていてくださり、その名前を呼んで永遠の命を見せてくだり、イエス様との関係をはっきりと示してくださいます。それが復活のイエス様と出会うことです。

 復活のイエス様は、私たちの生活の中で、名前を呼んでくださいます。そして、イエス様はマリアに新しいことを頼みます。この現実の中に生きることを命じます。イエス様が復活した出来事を弟子たちに知らせることです。マリアは弟子たちの所へ行き、「わたしは主を見ました」と大きな喜びの告白をします。イースターは、わたしたちを、イエス様が復活された事実を語る者として新たに生まれ変わらせてくださる時です。
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ルカによる福音書23章32~43節

澤田 武師

主題聖句 「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。
        しかし、この方は何も悪いことをしていない。』」    23章41節


 実際の十字架刑は、見上げるような高いところにはありません。地上から約80センチのところに、十字架につけられた者の足はありました。それは見つめられるところに、手の届くところにあります。十字架につけられた者の姿、息遣い、体温を感じられるほど近くに十字架はあります。

 34節、イエス様の言葉 『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』 その視線の先はイエス様の十字架の意味を分からないローマ兵に、そして父なる神様に罪の赦しを得るために注がれています。
もし私が目の前のイエス様の十字架の意味が分からなかったら、ローマ兵や群衆と同じように十字架につけられた罪人としてイエス様をののしっていたかもしれません。

 43節 『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。』 一緒に十字架につけられた犯罪人の片方にその視線は向けられています。「わたしを思い出してください」それは、切なる、ささやかなるイエス様への願いでした。イエス様は 『はっきり言っておく』 と力強く救いの事実を告げます。

 犯罪人は嬉しかったと思います。確実に訪れる死であっても、そこでイエス様に出会い、視線を向けられて、共にいてくださる約束を聞きました。「義人は一人もいない」と聖書には記されています。罪を悔い、その中で苦しむ者にイエス様は一緒にいると約束してくださいます。

 41節 『我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』 十字架の前で唯一自分の罪を見つめた者の言葉です。罪を犯したことの無いイエス様から、彼は平安を得ることが出来ました。彼は救われました。

 イエス様は見ていてくださる。あなたがどんな困難の中にあるか、罪ある者としてもがき苦しんでいるか。そして「わたしと一緒に楽園にいる」と約束してくださる。私たちの救いは、この地上80センチのところにあるイエス様の十字架にあります。

マルコによる福音書15章6~15節

澤田 武師

主題聖句 「ピラトは言った。『いったいどんな悪事を働いたというのか。』」 15章14節

イエス様が背負われた十字架、そこには3つの意味があります。

 一つ目は「祭司長たちの十字架」です。祭司長たちは、誰の心の内にもある「人をねたむ」思いを扇動し、人々の間に敵意を生み出し広がって行く罪の深さ、重大性を無視していました。本来なら、彼らが罪人として、十字架に打ち付けられはずなのですが、イエス様がその十字架を背負われました。人の「心の闇」を背負われました。

 二つ目は「ピラトの十字架」です。「あの者は、どうしてほしいのか。」裁判が始まった時点では、唯一の裁きを告げる者としてピラトの存在は揺るぎません。しかし今ピラトを捕らえているのは弱さです。この弱さは、ピラトが仕えるローマ皇帝の権力、人間の「作られた権威の下にある者」の弱さです。いつの間にかピラトは自分自身を裁いています。わが身を守るその思いが、誰の心の中にもある、真理を貫くことのできない「弱さ」として現されました。

 三つ目は「群衆の十字架」です。これは「神の十字架」とも言えます。実際にイエス様が背負われたのは木の柱です。バラバ・イエスだけは、イエス様が背負われている十字架の意味を知っていたと思います。唯ひとり、目に見える、十字架で救われた者。イエス様の十字架の証人としての存在。イエス様の十字架の罪の贖いを経験した者でした。本来なら自分が背負う十字架を、歩むはずの道をイエス様が歩まれている。身代わりになってくださった。

 「神の十字架」本来なら私たちが担うはずの十字架です。しかし、全ての罪を背負い、担ってイエス様は歩まれます。イエス様しか、神の計画を実現する者はいません。

 ピラトは問います。「いったいどんな悪事を働いたというのか」どんな悪事をも担ってくださるイエス様。悪事から全ての者を救い出すために、罪から解き放つために十字架に向かわれます。

ルカによる福音書21章7~19節

澤田直子師

 ルカの福音書21章のほとんどは「終わりの日」について語られています。弟子たちも民衆もエルサレム神殿が崩れるのは世の終わりの時だと信じ込んでいました。しかし、エルサレム神殿はソロモン、ゼルバベル、ヘロデと3回建てられたものです。イエス様と弟子たちが今語らっている神殿も、紀元66~67年にはローマ軍に徹底的に破壊されました。

 イエス様が言われた「世の終わりの徴」を読むと、現代に生きる私たちも、これは世の終わりは近いのではないかという気持ちになります。しかしイエス様ははっきりと「すぐには来ない」と言われます。イエス様が弟子たちに教えておきたかったのは、これから「世の終わりではないか」と思うような苦難が来るが、備えは十分になされているのだから大丈夫、ということだったのではないでしょうか。

 天変地異や戦争は恐ろしいものですが、それが必ず世界を、人を破壊して滅亡させるかというと、そうではない。世の終わりの話を、息を詰めて聞いていた弟子たちは、イエス様が捕らえられた時我先に逃げてしまいました。この事実が教えてくれるのは、本物の試練は外側からは来ないという事です。これに対して、私たちの内側、意志や心を揺さぶるのが、真に恐れなければならない試練なのです。イエス様は迫害を 『あなたがたにとって証しをする機会となる』 チャンスである、と言われました。弟子たちはチャンスを捨てて逃げますが、復活のイエス様は再び弟子たちの真ん中に立って、チャンスは一度きりではないことを教えてくださいました。

 『あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない』 とは、文字通りの意味ではなく、霊的に滅びるものは何一つないという事でしょう。イエス様は、捕らえられ、裁判にかけられ、叩かれ嘲られながら、何も言わず静かに立っておられました。それは戦いでした。十字架に死んで全ての人の罪を贖うために、イエス様はご自分のためには一切の力を使わず、意志の力を振り絞って忍耐して、ついには命を勝ち取られました。私たちも忍耐によって命を勝ち取りましょう。

ルカによる福音書20章9~19節

澤田直子師

 イザヤ書以降、「ぶどう園」はイスラエル民族を表す言葉とされています。
ぶどう園の主人が送り込んだ僕とは旧約聖書の預言者たちを、最後に送った愛する息子はイエス様を表します。

 パレスチナでは不在地主の存在は珍しくはなく、実際の労働者に手厚い律法が定められていました。地主は土地の賃貸料ではなく、収穫物の3割程度を取り分としましたから、豊作でも不作でも、収穫を農夫と分け合いました。しかし、収穫物の全てを得たいと願う農夫たちは、主人から送られてくる僕や息子を拒絶します。神の御声を聴かず、聴いても従わないのは創世記以来の人間の姿です。

 ここでもまだ民衆はイエス様に期待し、喜んで話を聞いていますが、数十時間後には「十字架につけろ」と叫びだすのです。『家を建てる者の捨てた石これが隅の親石となった』 とは詩編118編22節の引用です。隅の親石については主に①アーチ門の一番上の石、②大きな建造物の角に使う石、の2説あります。どちらにしても、二方向からの力に耐えうる、傷や割れのない固い石が選ばれます。この世の富、権威を求める者たちが捨てた石がまことの隅の親石となったのです。ダニエル書2章にある、巨大な像の夢を思い起こさせます。

 ぶどう園を預けられた農夫が見ていたのは、自分たちの働きだけでした。律法学者たちが見ていたのは、この世の権威でした。民衆は、自分たちは何もせずに、強大な力でローマから解放してくれる指導者を見ていました。イエス様は何を見ておられたでしょうか。福音書を読めば誰にでもわかることです。イエス様は、いつも、どこでも、弱い者、虐げられた者、貧しい者に目を留められました。そういう人たちこそ、神の国に招き入れられる、と教えてくださいました。

 第一コリント6:19 『知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。』 私たちは神の宮です。その隅の親石から決して目を離さずに歩みましょう。

小松川教会HP委員会

Author:小松川教会HP委員会

小松川教会は、「聖書は神の言葉、全人類にとっての救いの言葉」と信じる健全な聖書信仰に立つプロテスタント教会であり、全国に約1700余教会ある日本基督教団に属しています。
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澤田武主任牧師

澤田武主任牧師


澤田武主任牧師


澤田直子牧師