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小松川教会 礼拝メッセージ

東京都江戸川区北葛西にある日本基督教団小松川教会の礼拝で語られたメッセージです。  ホームページ委員会が更新していきます。

復活であり、命である

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小松川教会HP委員会

ヨハネによる福音書11章17~27節

澤田直子師

主題聖句 「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』」
        ヨハネによる福音書11章25節


 イエス様がベタニアに着いた時、ラザロは墓に収められて既に4日が経っていました。マルタの言葉には、イエス様に対する恨みの気持ちが見て取れます。神の愛のあらわれは「願いがすぐにかなえられる」という形をとるとは限りません。わたしたちは、愛の神様ならわたしの願いをすぐに聞いてくれるはず、と勘違いすることがあります。

 しかし、わたしたちには「時」が必要なのです。神様、なぜですか、どうすれば良いのですか、と祈りつつ、神様の「時」を信じて待つことが求められます。この時、これからエルサレムでどのような事が起こるのかを知っているのは、ただイエス様だけでした。イエス様は、ラザロの死を通して、死が終わりではないことを人々に教えておきたかったのではないでしょうか。

 マルタの信仰にも「死者の復活」という概念がありました。ユダヤ教徒として幼い時から教えられ、信じていたそれは、最後の審判の日には全ての被造物は神の前に立ち、裁きを受けるというものでした。その日にはラザロも自分も神の御前でもう一度出会うということでした。しかしイエス様の言われる「わたしは復活であり命である。」は全く意味が違います。

 イエス様は続けて「わたしを信じる者は死んでも生きる」と言われます。もちろんこれは肉体の命ではなく聖書的な死と命です。イエス様はこの後、十字架の上で神との断絶を受け止め、そして復活されました。「死んでも生きる」ことを、身をもって見せてくださいました。

 この時点で、マルタにはイエス様の言われたことは理解できなかったでしょう。しかしマルタは、そのゆえに、イエス様を信じると決意します。それが27節のマルタの信仰告白です。神はわたしたちに、神の無償の愛を理解してほしいとは思っておられません。ただ信じてほしいと願っておられるのです。

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神の栄光のためである

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小松川教会HP委員会

ヨハネによる福音書11章1~16節

澤田 武師

主題聖句 『わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。』
         ヨハネによる福音書11章11b節


 11章には「無名のキリスト者の死と復活の奇跡」が記されています。イエス様が友ラザロを生き返らせた奇跡は、イエス様が私たちの罪の贖いとしての十字架へと向かわれる、確かな第一歩であったということです。

 「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエス様のお言葉は不思議です。愛するラザロのもとへ急ぐこともなく、また、マルタ、マリア姉妹への慰めのお言葉もありません。イエス様の御心を知ろうとする時に、戸惑いを覚えることがあります。私たちにも、苦難を選ばなければならない、担いきれない困難を神様は備えられたと、思う時があります。しかし神様の御心に不安を覚える時こそが、私たちの信仰が成長し、忍耐力が強められる時です。イエス様が私たちに求めておられる「時」なのです。

 二日の後「わたしは彼を起こしに行く」と、神様の栄光を現すためにイエス様は弟子たちとラザロの元に向かいます。病の知らせを聞いてから二日間待たれたこと、そして、今になって出かけようとされるイエス様の思いは、私たちには理解できません。強いて言えば「神様の時」であると言えます。

 被造物全ての最後は「死」です。決して免れない時です。イエス様の思いはラザロの死が完全になった時、誰もがラザロの死を受け止めた時、「死では終わらない」神様が介入される事実があることを示めされるために、イエス様が選ばれた最善の時であったと思われます。

 突然のラザロの死は、マルタ、マリア、彼らと共に生きる人々には、深い悲しみや嘆きを与えました。しかし、イエス様はこの死の悲しみ、嘆きを超えたところに、復活があることを知らされます。弟子たちに、絶望を感じる者たちに、この事実を見届けさせるために出かけます。

 私たちも、神様の試練の意味を知りたいと思います。祈りがかなえられない、苦難からの救いが遅いと嘆く時にこそ、深い神様の御心「神様の栄光」が現わされるためであることを覚えたいと思います。

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その業を信じなさい

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小松川教会HP委員会

ヨハネによる福音書10章31~42節

澤田 武師

主題聖句 『そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。』
         ヨハネによる福音書10章38b節


 再び石を取り上げたユダヤ人に、「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」とイエス様は問います。

 ユダヤ人は「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」と答えます。

 この論争は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」と、受肉されたイエス様の本質を証しするために記されたものです。

 神様によって創られた被造物には、神様のすべてを知る事はできません。イエス様は「父なる神様から遣わされた方」であり、「神様の独り子として神様のすべてを知っておられる方」です。神様への冒涜を指摘出来るお方はイエス様の他にはおられません。

 ユダヤ人には律法の教えは絶対です。しかし、自分たちに都合の良いように、自己の正当を示すために用いているのも律法です。ここにユダヤ人の間違いがあります。ユダヤ人は生まれながら目が見えなかった人の癒しを、最後まで神様の業としてイエス様が行った奇跡と認めることはできませんでした。

 「その業を信じなさい」ある人物を本当に分かるのは「言葉と業」とによってです。それゆえに、イエス様の業だけでなく、イエス様のお言葉の内に神様の創造的、贖罪的な力が働いていることを信じる者たちは、イエス様が父なる神様と一体であることを知ります。

 この世を創られた神様は、全てを支配されてもおられます。それ故にこの世で起こることは全て神様の業であると言えます。私たちが感謝する心をもってこの世を見た時に、日常の出来事の中に神様のお働きがあることに気付かされます。イエス様は、再びユダヤ人の元から逃れます。「民は受け入れなかった。」ここに事実があります。

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永遠の命を与える

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小松川教会HP委員会

ヨハネによる福音書10章22~30節

澤田直子師

主題聖句 『わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。』
         ヨハネによる福音書10章28節


 22節の「神殿奉献記念祭」(別名「宮きよめの祭り」)とは、紀元前2世紀半ばに、アレキサンダー大王の影響で世界にヘレニズム文化が広がり、エルサレム神殿にギリシャのゼウス像が運び込まれ、ユダヤ人が偶像崇拝を強いられた事が始まりです。マカベア家のユダがこれを打ち破り、神殿を清めてユダヤ人の手に取り戻しました。

 このような、勝利の記念祭でしたから、気分が高ぶったユダヤ人はイエス様に詰め寄ります。「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエス様は、既に何度もご自分がメシアであることを言い表しています。しかしユダヤ人は、自分が聞きたいことしか聞いていなかった。イエス様との関係を自分から断ち切っていたからです。彼らほど真理を求め、懸命に律法を学び守った人々はいませんでした。しかし、彼らは自分が正しい、と思い込んでしまいました。だから、真の羊飼いであるイエス様の声を聞くことができなかったのです。

 わたしたち羊が、イエス様という羊飼いの声を聞き分けられるのはなぜでしょうか。それはおそらく、自信がないからです。自分は愚かで頑なな羊だ、正しいことを見分けられない羊だとわかっていれば、生きるためには羊飼いを頼るしかありません。羊は、羊飼いの庇護の元にさえいれば安全です。昨日のことを悩まなくてもいいし、明日のことを心配しなくても大丈夫です。しかし、そうとわかっていても、羊飼いの声だけを聞き、ただ羊飼いについて行くのが、何と難しいことでしょう。

 その愚かな羊に、イエス様は「彼らに永遠の命を与える」と言われます。「わたしは羊のために命を捨てる」と言われます。わたしたちの常識で考えたら意味がわかりません。永遠の命とは、決して途切れることのない神様の愛、深い絆です。わたしたちはどのようにお応えできるでしょうか。

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主は羊飼い

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小松川教会HP委員会

ヨハネによる福音書10章7~21節

澤田直子師

主題聖句 『わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。』  ヨハネによる福音書10章11節

 羊飼いは、羊を高地へ連れて行き、何週間も留まって栄養のある草を食べさせます。夜には低い石垣の囲いの中に羊を入れ、入り口に自分が横になって番をします。これが「羊の門」です。イエス様は、ご自分のことを羊の導き手(羊飼い)であり、守り手(門)であると言われます。10節『羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである』の「豊か」は、必要以上に、ありあまってあふれるほどに、という意味の言葉です。

 イエス様に飼われる羊である私たちが、豊かになるために、イエス様は命を捨てる、と言われます。この「捨てる」は、本来持っていなければならないものを、誰かのために自分の意志で手放す行為を表します。

 良い羊飼いであるイエス様は、ご自分の羊を知っておられるし、羊の方でも誰が羊飼いかを知っています。聖書で言うところの「知る」は、単に知識として知っているだけではなく、離れがたく結びつく深い関係を意味します。ですから、天の父なる神と独り子イエス様が深くつながっているように、イエス様と私たちも、離れがたく深い結びつきの中にあるのです。

 かつては囲いの中にいない他の羊であったパウロは、ガラテヤ2:20『生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。』と書いています。羊が羊飼いを見失って荒れ野に迷い出たら、生きていけません。イエス様の十字架を見失ってしまったら、命からどんどん離れて行ってしまいます。

 しかし、9節には『その人は、門を出入りして牧草を見つける』とあります。私たち羊は、イエス様につながる一方で、世にも出て行かなければなりません。ですから私たちは、礼拝に集い、祈りと賛美と御言葉に養われて、世に出て行き、そしてまたイエス様という門をくぐるのです。

 囲いに入っていない他の羊にも、私の羊飼いはこういうお方です、と証して歩む信仰者でありたい、と願います。

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