2018_06
10
(Sun)10:30

なすべき礼拝

ローマの信徒への手紙12章1~8節

澤田 武師

主題聖句 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる
        聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
  1節

 聖書は、神様は「聖なる方」であると記しています。「聖」とは、私たちとは全く異なる方、区別された方である、神様の絶対性、超越性を表す言葉です。その神様は私たちにも「聖なる者」となることを求めておられます。

 私たちは教団信仰告白の中で「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の実を結ばしめ、その御業を成就したもう。」と告白します。この告白は「義認」「新生」から「聖化」へと進む信仰者の姿を現しています。

 ホーリネス信仰はその名前が示すように、「聖化」を特に重んじる信仰です。実践的であり、個人個人の生活の場において、神様の「聖」を求める信仰と言えます。「聖化」は、「主と同じ姿に造り変えられて行く」とうことです。

 パウロは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」と、「自分の体」を聖なる生けるいけにえとして、自分の肉体だけではなく、あるがままの自分を献げることを求めます。

 「なすべき礼拝」とは、「ただ一度、この世から区別されたものが、喜びをもって、痛みを知って捧げる礼拝」です。すなわち、「主イエス・キリストが私たちのために十字架に掛かってくださったこと、復活して私たちに永遠の命を示してくださったこと」をあらわします。私たちは、イエス様が自らの体をもって、福音をあらわしてくださったことに深い感謝をもって礼拝に集います。全身全霊の感謝の礼拝を献げることが勧められているのです。

 私たちはイエス様を信じることによって「義」とされた者です。「信仰義認」を体験し、「新生」の恵みを知りました。今や罪から救われた者であると確信しています。そして、神様は私たちに何の見返りも求めません。

 「聖化」の恵みは、私たちにはどうすることも出来ない原罪、表に現れない、人間がその根底に持っている罪に対して、神様がその御手を添えて潔めてくださるということです。礼拝者は、礼拝によって、御言葉と聖礼典を通して、そして、聖霊の導きによって、「罪潔められた」と確信を得ることがきるのです。

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2018_06
03
(Sun)10:30

イエスを信じる者

ローマの信徒への手紙3章21~31節

 澤田 武師

主題聖句 「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。
        そこには何の差別もありません。」 22節


 小松川教会は、ホーリネス信仰を継承し、ホーリネス信仰をもって日本基督教団の中に留まった、ホーリネスの群の教会の一員です。

 ホーリネスの群規約第3条には「ホ群は聖書的福音主義信仰に立ち、新生、聖化神癒、再臨の特色教理を強調し、特にウェスレアン・アルミニアンの神学的伝統を受け、体験的ホーリネスをもって公同教会の形成に寄与することを目的とする」とホーリネスの群の教会は、神様の救いを「四重の福音」として、その特色教理を受け継ぐ信仰の共同体として存在すると宣言しています。

 しかし、これはホ群教会が特別な事を信じているということではありません。福音には統一性と、福音のどこを強調して受け取るかによっての多様性があります。

 パウロが罪を言い表すのに用いた言葉は、「ハマルティア」的外れと言う意味の言葉です。パウロは罪を、神様と人間との関係の破れであり、神様の祝福から漏れさせる力であると語ります。そして、神様のとの回復は人間の行いでは得られないと語っています。

 21~22節「ところが今や、律法とは関係なく…神の義が示されました。‥‥イエス・キリストを信じることにより…信じる者全てに与えられる神の義です。」新しい時代の到来、預言されて来た救いの約束の成就である。「信仰義認」イエス・キリストを信じることによって、はっきりと示される救いの完成であるとパウロは宣言をします。

 ホーリネス信仰が伝えます「新生」とは、「信仰義認」をより私の信仰体験、それは日常の中で起こる私の「救いの恵み」として得ることです。「新生」の恵みは必ず与えられます。

 「つまり自分が救われて新しく変えられた、新しく生まれ変わったという現実の変化を伴う救いの経験が強調されます。」(引用)

 また、「新生」の恵みによって呼び集められた者たちが、礼拝をまもり、兄弟姉妹の交わり、一人一人の信仰が組み合わさって見えない教会として立ち上がっています。それは「何の差別もなく」すべての人に与えられる、新たに生まれ変わった恵み、生かされている喜びです。

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2018_05
27
(Sun)10:30

何に命を求めるか

ヨハネによる福音書5章31~47節

澤田直子師

イエス・キリストを証するものが4つあります。天の父は、イエス様の洗礼の際「これはわたしの愛する子」と、聖霊を鳩のように降されました。バプテスマのヨハネはイエス様を指して「見よ、神の子羊だ」と宣言しました。また、イエス様は数々の奇跡を行い、それらは自分の思いではなく神のご意志の現れである、と言われました。そして「聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われます。

 「人からの誉れは受けない」誉れはギリシャ語でドクサです。栄誉の他に、輝きという意味も持ちます。ドクサは本来神のみを形容する言葉で、人間に使う際には、神の御業がその人に現わされた、というような時に使われます。また、神に聖別されることにも使われます。

 人からの誉れ、これは褒め言葉、高い評価や地位でしょう。神からの誉れとは聖別の意味を持ちますから、いらないものはそぎ落とされ、種が芽生えるためには耕されます。そこには痛みが伴います。神様に聖別されるというのは、わたしたちの中に霊的な戦いを引き起こすのです。イエス様でさえ、ゲツセマネの園で「御心の通りになりますように」と祈るまでには、血のように汗が滴り落ちる祈りをされました。そしてその時弟子たちは皆眠っていました。霊的な戦いは孤独になされるものです。

 人間誰しも心の奥底では、神様の御前に立つ時があることを知っているのではないでしょうか。だから、人間は必ず死ぬと承知していても、その時を恐れるのではないでしょうか。その恐れを克服しようと、良い人間であろうとしたり、人に尊敬される高い地位を目指したり、財産を貯えようとする。でも実は誰しも、目に見えるものが自分を永遠に生かすことはない、と知っているのではないでしょうか。

 イエス・キリストの十字架の贖いを信じるなら、私たちには神の赦しが与えられます。その赦しこそが「神からの誉れ」です。それは信じる者の顔を輝かせ、その生活を聖別します。命を得るために、イエス様のみもとに行きましょう。

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2018_05
20
(Sun)10:30

風の中で始まる

使徒言行録2章1~13節

澤田直子師

ペンテコステとはギリシャ語で「50日目」という意味です。ユダヤ教では小麦の収穫の初穂を祝う「七週祭」また、モーセがシナイ山で十戒を授与された日とも言われます。盛大で賑やかなお祭りで、故郷を離れて異郷の地で暮らすユダヤ人がエルサレム神殿に大勢集まりました。

 この年の過越しの祭りから五旬祭まで、使徒たちはどんな気持ちで過ごしたでしょうか。イエス様が「ホザナ」の歓声に包まれてエルサレムに入城し、最後の晩餐、十字架、復活、昇天とまるでジェットコースターのような浮き沈みを味わったのではないかと思います。その中で、イエス様が約束された聖霊を待って、エルサレムに留まっていたのです。

 激しい風のような音、炎のような舌、想像しがたい光景の後で、使徒たちがそれぞれ違う言葉で福音を語る、という奇跡が起こります。同じような多言奇跡は、創世記のバベルの塔の時にも起こりました。この時には人々は一致を失って散らされましたが、ペンテコステの時には、まっすぐに心に届く言葉を聞いた人々が、その日のうちに3000人もイエス・キリストを信じたのです。起こった現象は同じでも結果は正反対でした。

 聖書の特徴の一つに、多様性と統一性が同時に存在する、という事があります。著者も時代も違う書物の集合体でありながら、その言わんとするところは、イエス・キリストの十字架と復活、わたしたちの罪に対する贖いと赦しです。様々な角度から同じことを伝えるのは、神様がわたしたち人間を十把一絡げにせず、一人一人に相対してくださるしるしです。

  「霊」をヘブライ語で「ルーアッハ」と言いますが、他に、「息」また「風」も同じ言葉で表します。創世記2:7『・・・その鼻に命の息を吹き入れられた』また、ヨハネ3:8『風は思いのままに吹く。・・・霊から生まれた者も皆その通りである。』天地創造の6日目から、わたしたちには神様の命の息が与えられ、その時からずっと、聖霊の風の中に世を歩んでいるのです。心の内に神様の息を感じ、日々の歩みの中で聖霊の風を受けて、喜びと感謝を持つことができますよう祈りましょう。

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2018_05
13
(Sun)10:30

死から命へ移って

ヨハネによる福音書5章19~30節

澤田 武師

主題聖句 「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」  24節

 「わたしの父は今もなお働いておられる」、イエス様と父なる神様が等しい者であることをユダヤ人は受け入れません。ヨハネはイエス様の存在を神学的にはっきりと示します。イエス様のお働きは、この世界を創造され、そして今もこの世界のために働いておられる神様と一体です。地に遣わされた「子」としてのイエス様に、父なる神様は全てを示されます。イエス様の奇跡は、父なる神様の再創造の業を、地上で現わしているのです。奇跡は神様の御心が示される出来事であり、それを行うイエス様が、神様と一体であられるという証です。

 24節「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」と言われます。イエス様は、罪に苦しむ者の救いのために来られました。それは永遠の命を信じることです。そのためならイエス様はご自身が十字架に架かられても、一人でも多くの者を救いたいと、神様のみ旨に従い続けられました。お言葉が人を生かし、人を裁きます。それは私たちを、イエス様と共に歩む者に変えていきます。聞く耳の有る者は聞きなさい。この時もイエス様はユダヤ人の聞く耳を求めておられます。

 27節「裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである」と言われます。「善を行った者、悪を行った者」、イエス様が再び来られる再臨の時、すべての者はイエス様によって「裁かれ」ます。イエス様は、人としてこの地上の苦難、悲しみを経験してくださった上で、罪に囚われ、苦しみもだえる民に救いの道を示され、今も全ての者が救われる時を待ち望んでおられます。ホーリネス信仰は「四重の福音」の「再臨」を強く意識しています。最終的な救いが完成する時を、私たちは待ち望みます。ヨハネによる福音書が、神学的な表現を用いるのは、イエス様のお姿を、しっかりと神様として伝えるためです。これは大変重要なことです。イエス様のお言葉、奇跡は何を表しているのか、何を意味しているのかをしっかりと知ることは、イエス様を信じる信仰にブレが起こらないことにつながります。どうぞ自問自答してください。私にとってイエス様はどんなお方なのか。それは、私の信仰の神学を確立することにつながります。

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