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この花の一つほどにも
2018/11/04(Sun)
h4 style="text-align: right">マタイによる福音書6章27~30節
澤田 武師

主題聖句 「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、
        この花の一つほどにも着飾っていなかった。」   マタイによる福音書6章29節


 弟子たちにとっては特別に意識せず、見過ごしてしまうような空の鳥、足もとに咲く野の花の存在に、イエス様は視線を注いでおられます。イエス様は、そこに咲いている一つの小さな花を指さされて弟子たちに「注意して見なさい」と言われました。鳥も花も神様が創造された世の始めから何も変わらず、繰り返し同じ生き方を続けています。

 イエス様が指さされた花は、パレスチナの丘陵地帯にたった一日だけ咲くアネモネの花だったと考えらえます。朝に咲いて夕方には枯れてしまう、その後は、かまどの焚き付けとなって燃やされてしまいます。神様はこの花の一日に、永遠の命を咲かせます。花は神様の命を美しく輝かせて、精一杯咲くのです。

 イエス様は「言っておく」と前置きして、最も富と知恵とを兼ね備えた人物、ユダヤのソロモン王が生涯をかけて作り上げたものであっても、それは所詮人間が作り上げた美しさであり、神様の永遠の命の美しさには勝ることができないと言われます。イエス様はこの花の姿から、「永遠の命に生きる」とは、何かを示されました。

 一日限りを生きる花でさえ、神様は惜しみなく祝福を与えてくださる。イエス様は弟子たちに向かって「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる花でさえ…装ってくださる。…あなたたちはなおさらではないか」と言われました。今わたしたちが聞いているこのお言葉は、かつて地上で神様の命を輝かせ、信仰者の生涯を歩まれ、そして今は主のみもとで永遠の命に生かされている「聖徒」の兄弟姉妹も聞いたお言葉です。

 神様は大切な独り子イエス様を十字架に架けて、その命によって私たちを贖ってくださいました。「聖徒」の兄弟姉妹はイエス・キリストを主と受け入れて、十字架で示された「復活」による永遠の命を希望と信じて、それぞれの信仰の生涯を歩まれました。

 イエス様が指さされる一つの花を見る時、そこには神様の永遠の命があります。永遠の命に生きる希望は、私たちの目にも輝いているのです。

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真理は自由にする
2018/10/28(Sun)

ヨハネによる福音書8章31~38節

澤田直子師

主題聖句 『あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』
        ヨハネによる福音書8章32節


 イエス様のお言葉を聞いてメシアと信じた者の中には、律法学者や祭司もいました。しかし、イエス様はそれが一時の感情的な信仰であることを見抜いて「わたしの言葉に留まるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」と言われます。イエス様のお言葉に留まる、というのは、放蕩息子のたとえのごとく、自分の貧しさ・愚かさを受け止め、我にかえってへりくだり、父の家に帰るということです。

 本当にイエス様の弟子であるなら、真理を知ることができます。真理とは何か。聖書では明確に答えが記されています。「わたしは道であり、真理であり、命である」真理とはイエス様です。真理を知るための道もイエス様です。その道の行きつく先の永遠の命もまたイエス様です。

 ユダヤ人は「自由」という言葉に引っ掛かり、自分たちは奴隷ではない、奴隷になったこともない、と憤ります。都合良く勘違いをしているのです。「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」奴隷とは、自分で考えることも判断することもできず、支配するものの意のままに動かされることを表しています。罪の奴隷となっている者は、父なる神の家にいることはできません。しかし独り子イエス様なら、父のものを全て受け継ぐのですから、全ての者をご自分のものにできるのです。ところが、イエス様は、わたしたちをご自分の奴隷にはしたくない。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われます。

 真理を知る。知る、とは、聖書では単に知識として知っていることではなく、生活や思いと深く結びついていることを表します。体験として知っているということです。「キリストがわたしの内に生きておられるのです。」という状態です。もう罪の囁きは聞こえません。神の前に善いことを知り、選び取り、実行できる。これが真理によって与えられる本当の自由です。主イエス様の御言葉に留まりましょう。

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どこに属するか
2018/10/21(Sun)

ヨハネによる福音書8章21~30節

澤田直子師

主題聖句 『わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしては
        おかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。』
        ヨハネによる福音書8章29節


 「信徒伝道週間」です。この主日のテーマは、キリスト者がどのように主の御業に加わって行くか、ということです。イエス様が「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」と言われると、ユダヤ人たちは、自分を高い所に置いて、それではイエス様が陰府に下るのか、と考えます。

 人の心を知るイエス様のお答は、「あなたたちは下のものに属している」というものでした。聖書によく見られる上下の逆転です。神様は高ぶる者を低くされ、へりくだる者を高く上げるお方です。しかし、イエス様が世に来られたのは、「下のものに属する」人々を救うためでした。ですから、イエス様は『わたしはある』ということを信じないならば、と条件をつけます。「わたしはある」とは、出エジプト記3章で、モーセが燃える芝の中から神の声を聞いた時、神にその名を尋ねて得た答えです。

 イエス様は、ご自分が何一つ自分の意志でするのではなく、天の父の御心でするのだから、父とご自分とは同じだ、と言われるのです。ユダヤ人には理解できないであろうことは了解済みです。「あなたたちは人の子を上げた時に初めて、『わたしはある』ということがわかるだろう」人の子を上げるとは、十字架の死を意味しています。ユダヤ人の中にも、十字架のイエス様を見上げた時に、心を揺さぶられた人がいたに違いありません。見方を変えれば、それくらいの大きな衝撃でなければ、人の頑なさは砕かれないのです。

 わたしたちは、聖書を読み礼拝で説教を聴き、イエス様の十字架の死がどのようであったかを知っています。さらに、御言葉によって、祈りと賛美によって、自分の心でイエス様に出会い、自分の耳でイエス様のお言葉を聞いてください。その時わたしたちは、地上を歩みながら、上に属する者に変えられるのです。

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世の闇に射す光
2018/10/14(Sun)

ヨハネによる福音書8章12~20節

澤田 武師

主題聖句 「イエスは再び言われた。『わたしは、世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、
        命の光を持つ。』」   ヨハネによる福音書8章12節


 イエス様は、「わたしは、世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と、再び言われました。今、イエス様を照らし出しているのは、仮庵祭で灯された光、それは限りある輝きです。祭りが終われば輝きは消えます。そして再びこの世の暗闇が見えてきます。イエス様は、祭りの最後の夜にこの世の暗闇に向かって、ご自身を証しされました。

 ファリサイ派にとって「世の光」とは、世の闇を照らし出す神様の律法そのものです。律法は何が正義で、何が罪なのかを明らかにします。律法を信じる彼らにとっては「わたしは、世の光である」とのイエス様のお言葉は「真実」ではありえません。律法では、一人の証言では何も証明することはできないと決められているので、自分以外の証人が必要になります。彼らは自分自身を証言して律法を軽んじたとして、イエス様に対して激しい反感を抱きました。

 彼らにはイエス様がどこへ向かわれているか分かりませんでした。イエス様を遣わした方が誰なのかも分かりませんでした。それでもイエス様は、罪の暗闇にいる目の前の彼らの救いのためにも、十字架へと歩まれて行きます。

 世は変わらずに、暗闇の中にあります。毎日心が痛むニュースが溢れています。いつの時代にも戦争が、飢饉が、自然災害が、重篤な病があります。大災害のたびに世のつぶやきが聞こえます。神様はいつまで私たちを苦しめるのか。神様は居るのか。いるならなぜこのような事が起こるのか。

 イエス様の光は福音の光です。今は暗闇であっても、何も輝く物が無いところでも、「わたしは、世の光である」とのイエス様のお言葉がある。それを信じた者によって、その場所に、地域に、人間関係に、光が輝きだすことではないでしょうか。それは、かすかな輝きかも知れません。遠くまで届かない輝きかもしれません。しかし、そこには確かに光があります。暗闇を射す光が輝いています。

 私たちの使命は、イエス様こそ世の光であると信じること。暗闇に留まって光り出すまで待つことです。私たちが福音の光を宿して、輝き出しましょう。

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罪と向き合う
2018/10/07(Sun)

ヨハネによる福音書8章1~11節

澤田 武師

主題聖句 「イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。
        だれもあなたを罪に定めなかったのか。』」  ヨハネによる福音書8章10節


 律法学者、ファリサイ派にとっては、「姦淫の現場で捕らえられた女」は、「イエス様を試して、訴える口実を得るため」には最適でした。現行犯で捕えられた罪の「事実」は、誰にも否定はできません。女性は彼らによって見も知らない人々の真ん中に立たせられて、罪を暴かれます。しかし彼らは、イエス様への妬みによって偽善の罪に囚われている自分たちの姿には気付きません。彼らは自分の罪と向き合うことができませんでした。

 「罪を犯したことのない者から」、イエス様のお言葉を聞いていた者たちは、目の前にいる女性と自分たちとは、同じ「罪を犯した者」であると気づきます。改めて,自分の罪と向き合う者とされました。わたしも同じ罪人であると知った者たちは、罪なきイエス様の前に、留まることはできません。一人また一人と立ち去る他はありませんでした。

 「わたしも罪に定めない」。イエス様のお言葉に、違和感をもつ方がおられるでしょうか。イエス様こそ、唯一この女性の罪を定めることがおできになる方です。罪を犯したことのない方です。現行犯で捕まった女性に、姦淫の事実は確かにありました。それを罪に定めない。では、イエス様が考えておられる、罪を犯すとはどんなことでしょうか。

 招詞、申命記19章15節には「いかなる犯罪であれ、…二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」イエス様は律法の規定によって、女性を罪に定めることをしませんでした。しかし赦されたわけではありません。イエス様の元から離れること、新しい土地に、今までの自分と別れて、新しい生き方に生きることを命じます。これも一つの裁きの形です。女性の素性も、その後どのような生活をおくったのかもわかりませんが、変えられたことは確かです。

 「罪を犯してはならない。」罪と向き合う生き方を教えたお言葉です。イエス様はこの女性の罪を、御自分の十字架によって贖ってくださったという事も確かです。イエス様の罪の裁きは、罪の中に留まらず、新しい生活を送ることを命じています。罪に定められず、罪を赦された私たちが目指すべき姿があります。

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