2018_07
15
(Sun)10:30

本当に必要なもの

ヨハネによる福音書6章22~33節

澤田直子師

主題聖句 『朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。』

 イエス様を追いかける群衆は、イエス様を自分たちの理想の王にしたいと願っています。ローマ帝国の支配を打ち砕き、ユダヤ人の王国を打ち立てるダビデ王の再来を夢見ているのです。ですから、イエス様がここで永遠の命について教えようとしても、聞き入れる耳はありません。昨日わずかな食物で5000人を養ったように、今日も、明日も、ただでパンが食べたいという極めて世的な欲の前に、イエス様が真理を説いてもかみあうことがありません。

 「永遠の命」とは何か、イエス様が『あなた(神)と、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。』(ヨハネ17:3)と言っておられます。この「知る」は、知識としてではなく、関係性を持ち、保ち、体験的に継続的に知っているということです。

 では「永遠の命に至る食べ物」とは、何でしょうか。聖書にははっきりと答えが記されています。申命記8:3『人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる』27節のイエス様のお言葉に3つの真理が表されます。1、永遠の命に至る食べ物、主の御言葉を求めなさい。2、イエス様が与える食べ物は神の御言葉である。3、それらは全て神の御心によって定められている。

 キリスト教では、信仰を持つ心のありようを「回心」心が回る、と言い表します。改心ではありません。わたしたちは自分で自分の心を改めることはできないのです。しかし、世を向いている心をぐるりと回し、神様の方を向くことはできます。人間の愚かさは、一番必要なものが何かを知らない、ということではなく、知っているのに求めることができないところにあります。申命記30:14『御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる』わたしたちの内にある永遠の命に思いを至らせ、朽ちない食べ物を求めましょう。

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2018_07
08
(Sun)10:30

恐れなく近よれ

ヨハネによる福音書6章16~21節

澤田 武師

主題聖句 「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』」 20節

 「五千人の給食の奇跡」は、人々の空腹を満たし、不足は喜びへと変えられました。しかし、次の瞬間喜びは新たな不足へと変わって行きます。ローマからの解放、そのために人々はイエス様を求めます。

 もし、人の思いが全て叶えられるとしたら、人は平安になれるでしょうか。一つのことが満たされても、人は次々と新しい不足を探し出して、また、不安になります。願いが叶っても人が不安から解放されることはありません。

 私たちの信仰は、神様の御心を求めて行くことです。神様は愛をもって私たちの不足を満たしてくださいます。何が神様の本質なのかをしっかりと知らなければ、信仰は自分中心で、神様に利益を求める自己中心の心へと変わってしまいます。イエス様は人々が際限なく自分本位に求めてくるのは「恐れ」からであり、それは「神様の本質を見ない恐れ」であることを見抜いて、「恐れ」から退かれました。

 弟子たちは、自分たちだけでガリラヤ湖の対岸へと漕ぎ出します。ガリラヤ湖の漁師だった弟子にとって、湖の横断は、何度も経験してきたことです。しかし、今はイエス様が一緒ではない、ここにも不足があります。舟は目的地の対岸まであと一歩のところまで来ますが、突然の嵐が弟子たちの乗った舟をその場に留めます。

 17節「イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」このお言葉は弟子たちの不足をよく表しています。イエス様を待ち続けている弟子たちの思い、それでも、見切り発車のように、暗闇に漕ぎ出して行った弟子たちに、嵐は「暗闇の中の恐れ」を与えます。恐れに覆われている弟子たちに、イエス様は見えません。

 私たちも、その場に立ち往生してしまうような嵐を、世で経験します。「恐れ」は日々の生活の中にも、これから決めて行かなければならないことの中にもあります。神様は今、ここにはおられない、もしそう思ったら、私たちの信仰はもとより、私たちの存在の意味をも失ってしまうことになります。

 弟子たちにも、そんな私たちにも「わたしだ。恐れることはない」イエス様は直接声をかけてくださいます。これほど力強い励ましのお言葉はありません。

 今、路の途上で苦しんでおられる方、イエス様は全てを見ておられます。あなたの恐れの全てを知っておられます。目的地まであと少しです。イエス様は必ず来られます。それぞれの目的地に向って、恐れを捨てて、一歩前進しましょう。

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2018_07
01
(Sun)10:30

感謝の祈りを唱えてから

ヨハネによる福音書6章1~15節

澤田 武師

主題聖句 「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人に分け与えられた。」11節a

 目の前に在るのは、空腹の5,000人以上の人々とイエス様の問いに答えを持たない弟子たち。それでも、自分一人分の食糧を献げようとした少年。私たちの常識から見れば、到底何も解決しない、皆が途方に暮れている光景です。しかしそこにはすべての結末を知っておられる方がいます。イエス様は少年の持っていたパンを取って、「感謝の祈りを唱えてから」人々に分け始められました。

 「感謝の祈り」とは、共観福音書での最後の晩餐の時、イエス様の祈りに使われた言葉と同じです。それは、家族で食事をするように、お腹を空かした多くの者を食事に招いた家の主人として、目の前にいる者全てを「満たす」ための祈りです。

 イエス様なら、石をパンに変える奇跡も、天からもう一度マナを降らす奇跡もおできになります。しかし、今イエス様が手に持っておられるのは、少年が差し出した小さな献げものです。一人の少年が持っていたイエス様への信頼をイエス様は喜ばれ、皆が理解できる、形のある豊かな祝福へと増やされました。

 「どこでパンを買えばいいだろうか」少年は自分の献げものがイエス様の問いの答えになるとは思っていなかったでしょう。それでも献げました。何かの役に立つかもしれないとの思いが、途方に暮れている者たちを豊かな食卓へと招きました。

 イエス様の祈りは「弟子たち」への祈りでもありました。皆が満腹した後に、イエス様は弟子たちに残り物を「集める」よう言われました。集めるために使われたのは、当時ユダヤ人なら誰でも身に着けていた荷物を入れるための小さな籠です。イエス様は、一人一人の籠の中にも祝福を満たされました。弟子たちにも祝福が与えられ、喜びで満たされたのです。自分たちのための奇跡でもあったと知らされた出来事です。

 イエス様はこの奇跡の中に、全ての者の罪を贖う献げ物としてのご自分のお姿を、見ておられたのではないでしょうか。人々の罪を贖うために、自らのお体を裂いて、分けてくださったイエス様。私たちはこの方から、生きる糧をいただきます。

 私の籠は、既にイエス様の祝福で満たされています。感謝いたしましょう。それは、感謝の祈りから始まりました。私たちも祈り求めて歩き始めましょう。

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2018_06
24
(Sun)10:30

主を待ち望め

ヨハネの黙示録21章22節~22章5節

澤田直子師


6月第4週は、わたしたちホーリネス系の教会にとっては特別な礼拝になります。1942年6月26日早朝、ホーリネス系教会の牧師が一斉に検挙され、その後、教会は解散を命じられました。この弾圧には、四重の福音の「再臨」が大きく関係しました。イエス・キリストが再び世に来た時、天皇はキリストより上か下か、と問われたのです。

 再臨は神の御手にある事であり、世の事どもと一緒に考えるものではありません。しかし、聖書を読んでいくと、再臨の全貌ではなくとも、一部分を幻として見せられた預言者がいることがわかります。(エゼキエル書、ダニエル書)パウロも手紙の中で、天に上げられた体験のことを書き、コリントの信徒への手紙一の13章では『今は一部しか知らなくとも、そのときには・・・・はっきり知るようになる』と希望を持っています。

 聖書に書かれた新しい天と地の幻では、黙示録でもそうですが、神殿の大きさを測ります。それは、幻ではなく本当にあることを理解させるためです。今はここにないけれども、神様のところにはちゃんと準備されてある、あればいいなという願望ではなくて本当にある、ということをはっきりさせるために、人間の物差しで測るのです。

 その美しさはとても想像できるようなものではありません。美しさもさることながら、そこには命の木があり、毎月実を実らせている。これは創世記のエデンの園にあった命の木でしょう。アダムとエヴァは罪を犯したために、この命の木の実を食べることはできませんでしたが、イエス様の十字架の贖いを信じる者はこれを食することができるのです。

 聖書の重要なメッセージの一つは、信仰者は、創世記1章31節にある『見よ、それは極めて良かった』と言われる世界に帰る、ということです。それはわたしたちの努力でできることではありませんが、イエス様の十字架を見上げ、復活の命をいただく時、不可能が可能になるのです。

 新しい天と新しい地には神殿がありません。必要ないのです。いつでも神様のお顔を見上げられるよう、玉座だけがある、何という希望でしょう!

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2018_06
17
(Sun)10:30

真理が魂を癒す

ヤコブの手紙5章13~20節

澤田直子師


ホーリネスの群の強調教理である四重の福音「新生・聖化・神癒・再臨」
の三つ目「神癒」です。およそ、古今東西のあらゆるキリスト教信徒が、これほど求めたものはないでしょう。初代教会の時代、健康保険も病院もなかった時に、貧しい人々は病に襲われた時、まず教会に行ったのです。使徒言行録には、ペトロの影がかかっただけで癒されたとか、パウロの服や手ぬぐいに触れた人は皆癒された、という記事があります。

 神の癒しとは何でしょうか。とても大切な事ですが、人間の常として、今の痛み苦しみに集中してしまい、癒されたい思いが先に立って、あまり深く考えないように思います。病気が治った人がもう病院に行かないように、神様に癒していただいたら、「ありがたい、不思議な事だ」と喜んでそれっきりになってしまう。神の愛は無条件ですが、神の癒しもまた無条件無制限に与えられるのでしょうか。

 神様がわたしたちの病を癒そうとされる時、まず、神様はわたしたちと共に痛み苦しんでくださって、そして神様がまず立ち上がり、「ほら大丈夫だよ」とわたしたちを引き上げてくださるのではないか。痛みも苦しみも辛い事ですが、それを誰もわかってくれない事のほうが辛いのではないでしょうか。だからこそ「長老にオリーブ油を塗って祈ってもらいなさい」と、見えない信仰を見える形にすることが勧められるのでしょう。

 イエス様の十字架の御苦しみは、わたしたちがそのような苦しみに遭わないためでした。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」との嘆きは、わたしたちが神に見捨てられて嘆かないためでした。イエス様はわたしに代わって苦しみ嘆いてくださったのです。それを知るキリスト者は、孤独に痛むのではないことを知って癒され、力を得ます。

 「聖化」は魂と体が神に向かって、神の力によって成長することですが、無傷で育つことはできないのです。しかしそこに痛み苦しみがあっても、それをはるかに上回る喜びがあります。イエス様の元にのみ、「新生」「聖化」「神癒」があります。十字架を見上げましょう。

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