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初めから終わりまで
2018/09/16(Sun)

イザヤ書46章1~4節

澤田直子師

『同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負っていこう。
 わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。』  イザヤ書46章4節


 イザヤは、バビロン捕囚となったイスラエルの民に向かって、今バビロンが拝む偶像は、やがてバビロンの重荷となる、と預言します。イザヤ書は長く複雑な書物ですが、そのテーマは「神が神である」ということです。ここでは、偶像と真の神が、運ばれる神と運ぶ神、というように対比して語られています。

 旧約聖書には「残りの者」という考え方が出てきます。これは、望みがついえたように見えても、誰も神に従う者がいないように見えても、神様はご自分の僕を残しておかれる、ということです。

 神様は、そのありようとして、真実しか言えないし、真理しか行えません。そこには嘘も偽りもありません。しかし、わたしたち人間は人間の秤で神様を知ろうとしますので、神様を信じぬく、頼りぬく、ということが時に難しいのです。旧約聖書に出て来る人々も、皆、失敗しています。

 ここでは、ヘブライ語の「アニー」という言葉が5回も繰り返されます。日本語では「わたしが」と訳されていますが、もう少し強い「わたしこそが」「わたしだけが」というくらいの意味になります。なぜ、そんなにも人間に対して責任を負われるかといえば、それは『わたしはあなたたちを造った』からです。神様は天地創造の最後に『見よ、それは極めて良かった』と満足されてからずっと、人間に、恐れによってでも利益のためでもなく、神の愛に応えるために従う者になってほしいと願っておられるのです。

 誰でも、一年一年と年を重ねます。年齢によっては誕生日が嬉しくないと感じる方がおられるかもしれません。しかしそれは、神様に背負われる年月がまた一年増えた、そしてこれからも神様に背負っていただく喜びと平安を更新するということです。創造の主が、始めから終わりまで担ってくださいます。喜びを新たにいたしましょう。

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どこに行かれるか
2018/09/09(Sun)

ヨハネによる福音書7章32~36節

澤田 武師

主題聖句 「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。
        わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」  ヨハネによる福音書7章34節


 群衆の「ささやき」からは、イエス様をメシアとして求める声も多く聞こえてきます。祭司長、ファリサイ派の人々はイエス様の人気を妬みつつも聞いています。やがてその声は、自分たちの権威が脅かされるとの不安を生みました。そして、不安は群衆を恐れる心にと変わりました。この事態の唯一の解決策として、イエス様を捕らえる行動へと彼らを駆り立てます。

 「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」。イエス様は、地上での歩みには限りがあり、救いを受け入れるのにも限界があると言われています。十字架の時が迫っていると言われます。しかし、イエス様のお言葉の意味を、誰も理解できませんでした。

 後にイエス様の告別説教を聴いていた弟子たちでさえ、「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」16:18とつぶやきます。十字架の死と復活を経験しなければ、イエス様がお話されていた言葉の意味をはっきりと知ることはできなかったのです。

 「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」ファリサイ派や祭司長たちの聖書の理解や律法の解釈からでは、イエス様をメシアであると知ることはできません。それは、彼らの目の前にイエス様がおられても、彼らは決して真のメシアとしてのイエス様に出会えないということです。

 十字架の死と復活を信じるということは、神様は永遠の存在であると信じることです。神様はイエス様を死に打ち勝たせ、復活させられ、私たちに死をも乗り越えて行く永遠の命があることを示されました。ユダヤ人が「ギリシア人に教えるとでもいうのか」と嘲笑した言葉ですら、神様の御手の中では真理に変えられます。イエス様のお言葉は、この数年後には、ユダヤの地に限らず、異邦人に伝えられ、世界に広められました。この事実を歴史は証しています。イエス様を見失うことは、神様を見失うことです。イエス様がどこに行かれるか、決して見失わないよう、目と心を開いて従って行きましょう。

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どこから来られるか
2018/09/02(Sun)

ヨハネによる福音書7章25~31節

澤田 武師

主題聖句 「わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、
        その方がわたしをお遣わしになったのである。」  ヨハネによる福音書7章29節


 ヨハネによる福音書ではイエス様が「大声で言われた」という記述が28節以外にも2か所記されています。「祭りの終りの日(7:37)」、「ラザロを生き返らせる時(11:43)」です。これらに共通しているものは、神様を信じない者、疑いを持っている者、また、現実にある死に打ちのめされた者たちの心の叫びに答えられて、イエス様自らが先にお語りくださったお言葉であるということです。

 「大声」とは、元々のギリシャ語では「霊感に溢れて叫ぶ」という意味があります。ここで「大声で言われた」のは、イエス様が「メシアとは誰のことか」、大切な事実を「叫ばれた」お言葉であることが示されます。

 「どこの誰なのか。」自分自身を証明する時に必要となることです。教会でも初めて来られた方には、受付でお名前、連絡先を書いてくださいとお願いします。それは、受け入れる側からすれば、初めて来られた「あなた」をかけがえのない一人として歓迎します、という気持ちのあらわれです。

 エルサレムの人々はイエス様を「知っている」と言います。しかし、それは地上でのイエス様のお姿です。イエス様は、ご自分が天の父なる神様の独り子であることを、そして父なる神様が遣わしてくださったことを、あなた方は「知らない」と人々に向かって言われます。

 私たちの信仰にも同じことが言えます。信仰は決してこの地上だけで終わるものではありません。聖書は、私たちの国籍は天にあると記しています。私たちには地上の出身地だけでなく、もっと大きな「故郷」があります。それは天の国に帰る希望をもつ信仰、本来私たちが帰るべき所を知っている信仰です。

 「オープンチャーチ」アンケートに、「あなたは神がいると思いますか。いないと…。その理由を教えてください。」との問いがありました。この回答として「イエス様はどなたなのか」そして「霊感に溢れて叫ぶ」信仰に生かされている者の証しの言葉が多数記されていました。「時々分からなくなる」とお一人の方が書かれていました。正直な言葉です。聖霊に導かれて、ご自分の弱さを見つめた言葉です。イエス様は、弱い者と共に歩んでくださるために私たちの間に来られたお方です。

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その教えはどこから
2018/08/26(Sun)

ヨハネによる福音書7章10~24節

澤田直子師

主題聖句 『この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、
        わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。』  ヨハネによる福音書7章17節


 イエス様は行かないと言っておられた仮庵祭の半ばに姿を現します。
15節に出てくる律法学者たちは、人が集まる場所に集まっては議論をして、知識と学閥をひけらかしました。イエス様に対しての「学問をしたわけでもないのに・・」という驚きは、同時に蔑みの言葉でもあります。

 イエス様は、御自分が教えておられることは、御自分の知識ではなく、父なる神から与えられたもので、父の御心を行おうとする人にはそれがわかる、と言われます。キリスト者が主の御心に沿って何かを行おうとする時、まず祈るでしょう。イザヤ書11:2『知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊』が送られ、わたしたちは自分の力ではできないことでも、主の導きによって歩む力が与えられます。

 「自分勝手に話す者は自分の栄光を求める」わたしたちは、つい、自分の経験から、知識から、人に教えようとします。しかし近年の世の中の変化するスピードは加速しています。長い歴史がある、ずっとそうしてきた、との理由で変化を拒んでは、誰にでも開かれる教会にはなり得ません。

 神様のご計画は、わたしが、あなたが、救われて終わりではありません。救われた者は、次に救われる者のために、祈り献げることが求められます。その方法論が問われているのです。あなたが人に教えようとするその教えは、どこから来たものか。神からか、人からか。

 律法学者たちがイエス様を殺そうとしたのは、もともとは安息日に病の人を癒した奇跡からでした。律法学者の頭の中は、人に自分の言う事をきかせることで一杯でした。イエス様の頭の中には、神様がこの病む人をどんなに愛し憐れんでおられるか、ということしかありませんでした。
第一コリント10:31『だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。』

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神の時、人の時
2018/08/19(Sun)

ヨハネによる福音書7章1~9節

澤田直子師

主題聖句 「そこで、イエスは言われた。『わたしの時はまだ来ていない。
        しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。』」  ヨハネによる福音書7章6節


 仮庵祭はユダヤの三大祭の一つです。出エジプトで、荒れ野を40年さまよったことを記念して仮小屋を作るためこの名で呼ばれますが、その内容は、ぶどう酒・オリーブなどの収穫感謝のお祭りで、大変豊かで賑やかなお祭りでした。

 イエス様の肉の兄弟は、この祭りに上って行って自分の姿を示すようイエス様に勧めます。それに対してイエス様は「わたしの時はまだ来ていない。」と答えられます。イエス様にとっての「時」は十字架と復活でした。憐みのゆえに多くの病人を癒し、わずかな食物で大勢を養い、迷子の羊のような群衆に根気よく教えながらも、イエス様は、その一点を見据えて歩んでおられました。

 世に属する者たちは、何の心配もなくエルサレムに上り、祭りを楽しむことができます。しかしイエス様の世に属さない目をもって祭りを見たら、信仰の伴わない捧げもの、私腹を肥やす祭司、偉ぶる律法学者と、でたらめな、神に背を向けた浮かれ騒ぎであることが明らかです。そして、イエス様がなすべき仕事は、その世に属する者たちを救うということなのです。

 しかし聖書を読む者は知っています。イエス様の兄弟たちは、十字架と復活の後で、真にイエス様を信じ、伝える者に変えられています。そのおかげでエルサレムには多くの指導者が集い、伝道者が送り出されました。それはイエス様が御自分の時を正しく知り、待ち、用いられたからです。

 わたしたちにも、それぞれ「時」があります。しかしわたしたちは自分の「時」を正しく知ることができないし、待つことも苦手です。早く、今すぐ、お手軽に、という方向に流れがちですし、「最善がなされますように」と祈りつつ「どうせなら今すぐに」と願ったりします。委ねることの難しさを思います。神の時を待ち望むなら、神様に全てをお任せしましょう。

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