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働き人は知る
2017/10/15(Sun)

ヨハネによる福音書2章1~12節

澤田直子師

 イエス様の最初の奇跡が「カナの婚礼」で行われたことには、深い意味が隠されています。まず、結婚は神の特別な祝福であり、新しい家庭の始まりですから、イエス様の公生涯が始まるにふさわしい舞台であったこと。また、聖書では、神と人間とを花婿と花嫁にたとえ、偶像崇拝を姦淫にたとえています。神と人間との完全な和解の時がここから始まるにふさわしい場所として、カナの婚礼が選ばれたのではないかと思います。

 イエス様は召使いに、6つの水がめを一杯にするように命じます。ひとつが78~117リットル、すべて人力で汲むのはけっこうな重労働です。聖書では7を完全数と捉えますから、そのひとつ手前の6を、これから救いが完全になるしるしと解釈する研究者もいます。

 しかしもっとも重要な事は、水がぶどう酒に変わったことと、水を汲んだ召し使いはそれを知っていた、この2つです。パレスチナの地においては、水は豊かさの象徴でした。しかしその豊かさは現実の世の豊かさです。イエス様は最後の晩餐において弟子たちにぶどう酒の杯を渡しながら「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました。イエス様を知る者の心は、この世の目に見える豊かさに囚われず、まことの豊かさに導かれていくのです。

 「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていた」福音は真理であり、誰にでも開かれます。ちょうど、カナの婚礼に招かれていた人々皆に、ぶどう酒がふるまわれたように。しかし、自らの体を使って働きを捧げた召し使いたちは、奇跡の業に参与しました。働き人こそが、神様の御業を、福音を見るのです。

 わたしたちは、教会に集う兄弟姉妹のために、また、まだ教会に来ない人々のためにも祈ります。トラクトやチラシを配り、手紙を出したり訪問したりもします。これは召し使いが水がめに水を汲むのと同じです。イエス様は、いつでも、ご自分の奇跡の業に、わたしたちの働きを用いようとしておられます。いつの世も変わらない主の御業を信じて、その業に加えていただきましょう。
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わたしは、あなたを見た
2017/10/08(Sun)

ヨハネによる福音書1章43~51節

澤田 武師

主題聖句 「するとナタナエルが、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言ったので、フィリポは、『来て、見なさい』と言った。」 1章46節

 「来て、見なさい」、フィリポの率直な言葉は、メシアへの執着をもっていたナタナエルに、イエス様へと向かう一歩踏み出す勇気を与えました。その彼にイエス様は「見なさい。まことイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と、語られます。

 もし、私たちがイエス様にお会いして「見なさい」と、言われて褒められたら…。嬉しいですが、一抹の不安はあります、怖くなってしまいます。それは自分の信仰の貧しさを一番知っているのは自分自身であるからです。

 ナタナエルは「どうしてわたしを知っておられるのですか」と、問います。イエス様はナタナエルの“過去と未来”について「わたしは、あなたを見た」と、その歩みを示されました。

 ナタナエルも自分の信仰を守っていました。聖書を学んでいました。求めていました。本当のメシアに出会うことを祈っていました。その心の中をイエス様は見ていてくださいました。彼は、自分の過去を知り、自分の今の生活を見ていてくださったイエス様こそ、神の子である、と信仰を言い表します。

 イエス様はナタナエルに、「あなたは、見ることになる」と、これからナタナエルがしっかり見なければならない未来、再臨の時が来ることを示します。

 「天が開く」とは、人間の限界が突き破られる時が来る、神様の力によって人間は死をも克服し、復活の命を与えられる時が来ることを意味しています。彼は知りました。自分の名前の意味「神は与える」。神様は既に多くのものを備えてくださった。イエス様と出会い、生涯従う道を与えられていた。彼はイエス様の中に、その全てを認めました。

 十字架、罪の贖い、復活、永遠の命、私たちもイエス様の中に、神様の全てを見ることになります。全てをしっかりと見て行きましょう。「わたしは、あなたを見た」イエス様は片時も私たちから目をそらされません。この方を見つめて行きましょう。
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来なさい。そうすれば分かる
2017/10/01(Sun)

ヨハネによる福音書1章35~42節

澤田 武師

主題聖句 「そして、シモンをイエスのところへ連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ―『岩』と言う意味―と呼ぶことにする』と言われた。 1章42節

 洗礼者ヨハネは、イエス様を見つけると指さし、「見よ、神の小羊だ」と自分の弟子たちに「語り」、「聞かせ」、イエス様に「従わせ」ました。彼は「後から来られる方」が本当のメシアであることを確信し、弟子でさえもイエス様に委ねました。それは、彼が自分の働きが終わったことを自覚しての行動です。

 この流れは、洗礼を受けようと思う者が歩む道順と同じではないでしょうか。受洗を決める。そこには信仰的に信頼できる人の言葉があります。聞く耳が備えられました。そして一歩進む勇気が与えられました。この方々が教会を形成します。神様との新しい関係に入られます。

 イエス様は振り返られ、先に「何を求めているのか」と声をかけてくださいました。神様はいつも先に「何を」と声をかけてくださる。神様は私たちとの新しい関係を求めておられます。

 「泊まる」と訳されている言葉は、元々「留まる」という意味の言葉です。「わたしにつながっていなさい」(ヨハネ15:4)告別説教で語られた「つながる」と同じ意味の言葉です。この言葉は決してひと時の状態を表わしている言葉ではありません。弟子たちはイエス様のところへ行き、そしてこの方に「留まろう」と決心しました。

 イエス様は「来なさい。」ただ従えば全ては分かると語られます。イエス様は私たちをも弟子として、近くに留めようと招いてくださいます。

 イエス様との出会いはその後の生き方を変えます。アンデレはまず、兄弟シモンの所へ行きました。その時初めて、他人にイエス様を語らずにはいられない自分を発見することになります。ここにもイエス様との新しい関係に生きる者が生まれました。「主なる神はこう言われる。『見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。』」(エゼキエル34:11)。イエス様と共に歩む者たちが、新しい歩みを始めました。新しい関係が始まりました。
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見よ、神の小羊だ
2017/09/24(Sun)

ヨハネによる福音書1章29~34節

澤田直子師

 ヨハネによる福音書には、イエス様が洗礼を受ける場面が記されていません。バプテスマのヨハネは「わたしはそれを見た」と、こちらに向かって歩いてくるイエス様を見て、「見よ、神の小羊だ」 と言います。ユダヤ人にとって「神の小羊」から連想することはただ一つ、過ぎ越しの夜、屠られた子羊の血を、家の柱と鴨居に塗って信仰の証とした、あの小羊です。

 しかし、そこに 「世の罪を贖う」 とつくと、これはもう彼らの理解を超えてしまいます。ユダヤ人は神の選びの民であり、それ以外の民族は汚れていると考えていました。この言葉は、ユダヤ人にではなく、後世の、イエス様の十字架を信じる者たち、つまりわたしたちに向かって教える言葉ではないかと思います。

 このバプテスマのヨハネの言動に、今のわたしたちの教会のなすべき業が示されています。わたしたちは、十字架の贖いを信じて救われたことに感謝しています。けれども、日常の生活の中で、どれくらい信仰を表しているでしょうか。ヨハネがイエス様を指さして 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」 と高らかに言ったように、十字架の贖いを高らかにさけんでいるでしょうか。

 わたしたちは人間にすぎません。できることには限りがあります。病に苦しむ人に、できることなら代わってあげたいと思っても代わることはできません。重い心を抱えている方のお話を聞くことはできても、イエス様のように「安心して行きなさい。あなたの罪は赦された。」と解放してあげることはできないのです。隣人どころか、自分自身のことさえも思うようにならないのがわたしたち人間の姿です。ローマ7:19 「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」 キリスト者とは、善を行えない自分をよく知っている人たちです。

 わたしたちに委ねられたのは、十字架を指さして「神の小羊の血によって、わたしの罪は贖われ、わたしは救われました」という事です。
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生涯、満ち足りて
2017/09/17(Sun)

詩編91編

澤田直子師

 詩編91編はタイトルがない「みなしご詩編」と呼ばれるものですが、ある研究者は自分なら「神はわがふるさと」というタイトルにしたいと言います。自分には帰るところがあるという感覚を「帰属意識」と言います。具体的な場所にも使う言葉ですが、仲間同士の心の絆に対してよく使われます。信仰者が帰属するのは、天国ではなくそこにおられる神様です。

 91編の背後には物語を感じます。長い間、忠実な信仰者として歩んできた人に、何か試練があった。今まで何度もそうしてきたように、彼は神殿に詣でて、心を注ぎ出して祈ったでしょう。その姿を見かけた誰かが声をかけてくれ、話を聞いて慰め励まし、一緒に祈ってくれたのではないか。祈りのうちに、神様のお応えが示されたのではないか。

 1~13節は、信仰者は神を隠れ場として平安を得、神はあらゆる手段をもって、信じ依り頼む者を守ることが証されています。ここまでは、人が人を力づける言葉ですが、14節からは、祈る者の姿を見ていた神様ご自身がかけてくださるお言葉ですから、ここからは、神様がわたしにこう話しかけてくださっている、と思って読んでいただきたいところです。

 「彼」となっていますが、もちろん男性限定ではありません。女性も神様の目に映っています。14節 「わたしの名を知る者だから」 聖書では「名を知る」ことは、その人の全体像を知ることを意味しています。また「名」は「足跡」とも訳せる言葉を使っています。神様の存在と自分の存在には深い関係性があり、共に歩んできたと信じていることを示します。15節は未来のことではなく、今までも 「彼と共にいて助け」 て来たことをこれからもずっと続けようというのです。

 その行きつくところは16節 「生涯、彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう」 わたしに満ち足りるものは何か、これを間違えてはいけません。聖歌473番の歌詞をご味読ください。敬老感謝の対象となった兄姉が、神様と共に歩み満ち足りている姿を証明してくださっています。
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