2010_01
03
(Sun)17:58

1月1日 元旦礼拝説教概要

「この年をどう生きるか」 申命記8章1~10節

 モーセの指導によってエジプトを脱出したイスラエルの人々は40年に亘ってシナイの砂漠を放浪しなくてはなりませんでした。彼らは長い道のりの中、様々な不満は募るばかりで度々モーセや彼の兄弟に向かってつぶやきましたが、彼らの困窮は彼ら自身の問題でした。これでは奴隷状態の方がよっぽど良かったという言い分でした。エジプトにはパンがある、しかし自由はない。ここには自由があるがパンはない・・・どちらかを選ばなくてはなりません。パンもあり自由もとはいきません。そのような時に神は飢えに苦しむ彼らを憐れみ、空からウズラを落とし、砂漠にはマナを降らせました。

 聖書の奇跡物語は手の指のようなものだといいます。突然砂漠にウズラが落ちてきたりマナが生じたり不思議な事です。常識的にいえば考えられない、どうしてそのような事が起こったかを知りたいと私達は思います。それを問う事は指の長さや太さを問題とする事ではないか、とある神学者は言います。大切な事はその指先はどの方向を指しているかという事です。その事を問う事の方がよっぽど大切であると言います。その重要な方向の一つは「人はパンのみで生きるのではなく、神の口から出るすべてのことば」です。人間はただパンだけでは物足りない、だからパン+アルファが必要という事ではありません。もっと深く突っ込んで神の言葉を本気で信ずればパンになる、信仰が本物である場合、生活は立派に成り立っていくというのです。

 「神の国とその義を求めよ」(マタイ6:33)と記されていますが、新しい年、私達はどのような問いを問い続けるでしょうか。この年、かつてのイスラエルの人々のように疑いながら、つぶやきながら歩むのではなく「人はパンのみで生きるのではない」との御言葉を心から信じ、喜びをもって多くのマナ(奇跡)を見せて頂き、1年間大きく成長させて頂きましょう。この年がどのような年になるかは私達次第です。
2009_12
27
(Sun)19:34

12月20日 礼拝説教概要

「飼い葉桶のイエス様」 ルカによる福音書2章1~7節

 イエス・キリストがお生まれになった時代、ローマ帝国では支配している広範囲の地域で抜かりなく税を徴収し、果ては徴兵の為に人口調査が行われました。神の御子にも係らず主イエスは、地上の人間と同じく私達が持っている悲しみを担う者として、数えられた存在の一人としてお生まれになりました。更に住民登録する人々で宿屋は溢れて泊まる場所はなく、誰にも目に留められないような惨めな飼い葉桶でお生まれになりましたが、排除された場所を神が敢えて選ばれました。それは主イエスの生涯を現し、常に外側から内側にいる私達を守り抜く為でした。

 イエスとは「神は救い」という意味ですが、アダムとエバが罪を犯して以来、人は神の支えが見えなくなり、自分の力で生き始め罪の世界へ落ちて行った為、罪の暗闇から救い出す為にイエス・キリストをこの世へ送ってくださいました。にも拘わらず人々は、主イエスの事を最後迄受け入れずに十字架に架けてしまいましたが、裏切られながら排除された所で「彼らは何をしているのか分からない」と、御自身の血を流し犠牲を払い、私達の命が失われないように守り抜かれました。

 私達はこの世では十把一絡げの一人に数えられているに過ぎませんが、人が忘れようともどんな境遇にあったとしても神は見ていてくださり「あなたは高価で尊い、愛している」と、底辺から支えられている事は私達の大きな喜びです。「我らは神の中に生き、動き、存在する」(使徒17:28、ヨブ12:10、ダニエル5:23)とあるように赤ちゃんがお母さんのお腹の中で大切に育てられる如く、私達の命は主イエスに包まれなければ育つ事はできません。外側からこの命を包んでくださる為に惨めな飼い葉桶に生まれてくださったイエス・キリストの誕生を迎えている私達は既に捉えられており、その御手の中でかけがえのない命に生き、力づけられて祝福されています。自分の手元に何があり何が残っているのかを心配するのではなく、この喜びを見出すのが最高のクリスマスです。
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20
(Sun)20:14

12月13日 礼拝説教概要

「冷たき世に」 ルカによる福音書2章1~7節

(1)私達に御自身の尊き命の犠牲をもって、救いを与えるために御降誕された主イエスに対してこの世が取った態度は、救い主を冷たく拒絶することでした。愛する故に、最大の犠牲である命をもって罪人である私達を救わんとした主イエスは、この世にお生まれになられた当初から、無視され、拒絶され、最後は十字架へと追いやられたお方でした。この言い難き的外れさ、冷たさは、私達自身の的外れさであり、冷たさです。

(2)人の業と神の業が並行して記されております。「アウグストゥス」は、ローマ皇帝の称号でもありますが、「威厳者」、「尊厳者」という意味があります。彼は皇帝としての尊厳をもって、住民登録の勅令をだ
しましたが、背後に神の御業が働いていることに気付いておりませんでした。結果、エレミヤやミカの預言が成就しました。またアウグストゥスやキリニウスも歴史上の人物ですので、神の御業は正に私達の歴史においてなされたのです。

(3)ヨセフという人物の守りがなければ、主イエスはお生まれになることができなかったかもしれません。夫ヨセフは婚約者が身ごもったことに苦悩したことと思います。けれども彼はこの現実を受け入れました。何故ならば、彼は、「正しい人」(マタイ1:19)であったからです。「正しい人」とは、「正しい人は、信仰に生きる」(ローマ1:17)とある「正しさ」です。すなわち、「正しい人」とは、「信仰に生きる人」です。私達は危機に立たされたとき、信仰を働かせることができるかどうかが問われることがあります。ヨセフのように振興を働かせることが果たして、その時、出来るでしょうか。

(4)「ところが」、マリアとヨセフには泊まる宿が与えられませんでした。結果、主イエスは飼い葉桶に寝かせられました。しかし、私達は心から感謝をもって、宿として救い主をお迎えしたいものです。
2009_12
12
(Sat)12:41

12月6日 礼拝説教概要

「灯をもって待つ」マタイによる福音書25章1~13節

 おとめが夜の暗闇の中で灯をもってひたすら花婿を待っている譬え話しです。この祝宴は天国の宴に招かれている事を示しており、賢い5人のおとめと愚かな5人のおとめの姿から主イエスがいつ来られるかわからないという事と同時に、個人にとっても決定的な事、例えば死が突然やってくるという事をも意味しており、決定的な時にいかに私達は備えるべきか、という事を示しています。

 愚かなおとめ達は既に神から祝宴に招かれている、という現状に安住し、やがての時の備えをしていませんでした(3節)。「油の用意をしていなかった」とありますがこれは信仰を意味しています。信仰は常に求め続けないとやがては後退していくもので、いざという時残酷に見えますが、愚かなおとめ達のように準備していなかった為に賢いおとめに油を貸してほしいと願っても断られ、祝宴の席に入る事が出来ずに戸を閉められてしまいます(10~13節)。ダビデが巨人ゴリアトと戦う時、サウルの装束を借りましたが、結局役に立たず自分の杖で敵を倒した事に象徴されているように、信仰とは人から借りるものでも与えられるものでもありません。神対自分との関係でいつも「目をさまして」求めていなければなりません(13節)。「あなたたちが待望している主は突如、その聖所にこられる」と旧約聖書最後のマラキ書に記されていますが、その後400年間神は沈黙されていました。イスラエルの民は様々な帝国の植民地となり2度と立ち上がれない程痛めつけられ暗黒の中にありましたが、神はその民を決して忘れる事はありませんでした。ザカリアとエリサベトの元に現れ「昔から聖なる預言者達の口を通して語られた通りに・・・覚えていてくださる。」と闇の中に至る希望の命の道が開かれた事をザカリヤは賛美しています(ルカ1章)。それは私達をも覚えていてくださるという事です。キリストにある私達は諦めずに暗闇から光を待つ限り、やがてくる備えられた救いの喜び・恵みの力で守られ輝けるのです。
2009_12
08
(Tue)20:11

11月29日 礼拝説教概要

「イエス・キリストはあなたを待っておられる」 ヨハネの黙示録3章10~22節       
 
 主イエスは神の御子にも関わらず、人里離れたベツレヘムの田舎の町はずれに誕生され、生涯の終わりは人間に裏切られエルサレムの門の外で十字架に架けられました。神の御子主イエスは常に人間の外側、この世から疎外され追いやられる一生でした。 

 十字架とは人が神を拒絶する事ですが、それにも拘わらず私達の現実に共に生きようとされ、道を開く為に常に外側から私達の心の戸を叩いておられます(20節)。しかし、人は神に心を閉ざし拒絶し自分の中に閉じこもってしまうのです。この事を宗教改革者ルターは「自分の中に折れ曲がる姿」と表現し、人は何をしても最後は結局自分の為にと全てが自分に向かって折れ曲がっていると述べています。この自己中的な罪を背負って暗闇の中にいる人間を救い出す為に、イエス・キリストを送ってくださったのがクリスマスの出来事です。

 廻りの人々から嫌われ誰にも目に留められない取税人のザアカイに主は、「この人もアブラハムの子=神の民、愛されている神の子」と宣言されました。十字架の主の元で見捨てられる人は誰一人いません(ルカ19章)。戸の向こうには救いの道、天国への道が既に用意され開かれており、今も神は諦めずに全人類の為に外で戸を叩き続けておられます。
 
 救いの道は自分で切り開くものではなく、この戸を開けなくては何も始まりません。別の言い方をすれば救いの道は難しい事はではなく単純で、この戸を開けるだけで良いと言えます。18節に「見えるようになるために」とありますが「見える」とは、この世の有様を見る目ではなく、戸の向こうで成されている神の御業が見えるようになる為です。
 
 戸を開けつつ人は目が開かれて天の国・永遠の命の道に生き始め、平安と喜びを見出す事ができるようになります。19~21節には「私」と8回もイエス・キリストは御自身を主張されています。
 今年のクリスマスもイエス・キリストは私達が心の戸を開いてお招きする事を待っておられます。