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7月5日 礼拝説教概要 
2009/07/17(Fri)
「どうしてと何故思うのか」 創世記4章1~16節

 神によって創造された同じ人間でも、生まれながらに不公平や不条理を覚える私達です。農夫であるカインは神に彼の土地の産物を献げ、牧羊者アベルは羊の群れの中から肥えた初子を神に献げました。しかし、理由は何も記されていませんが、神はアベルとその献げ物に目を留められました(2~5節)。その事でカインは激しく怒ったので、神は「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか・・・」と問い正しました(6~7節)。これは示唆を含んだ問いです。
 献げ物は神の恵みの大きさに対して精一杯献げるものですから、自分に対する神の祝福が分かる人は、喜んで最善の物をお献げします。カインは果たして精一杯感謝と喜びを持ってお献げしたでしょうか?もしそうであれば顔を上げて神に「どうして目を留めてくださらないのですか?」と、問う事ができた筈です。後ろめたさがある故、神に問う事なくその怒りをアベルにぶつけたのでは、と神の言葉から推察されます。
 自分自身にも神にも心を堅く閉ざして、ついにアベルを抹消してしまいました(8節)。罪を犯す時は心を閉ざす時です。悔しさも怒りも神に向っている内は必ず解決はあります。

 ヨブという人物はこれでもか、という程の不条理を味わった人ですが、困り抜く経験を通して涙を流しながら徹底的に神に問い続けた結果、全ての解決が神から与えられました。主イエスも十字架にお架かりなる前に「なぜ私をお見捨てになるのか?」(詩編22篇)と神に問いました。徹底的に「どうして?」と神に訴え続けた所に、答えと勝利があります。そして同時に神の深い御旨に触れて、感謝して人は生かされていくのです。

 カインは罪を犯した後「私の罪は重くて負い切れない」と、やっと心を神に開きました。神は罪人の印をつけられましたが、神のものでもあるという印でもあります。神から捨てられながら同時に神から目を留められているカインの姿は私達の姿でもあります。罪を犯しつつも尚、生かされて神に保護され、赦されながら変えられていく事に感謝しながら歩んでいる私達です。
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6月28日 礼拝説教概要
2009/07/09(Thu)
再臨 「イエス様がおいでになる時」 ペトロ第二3章1~14節

 毎週の礼拝毎に「教会は公の礼拝を守り…主の再び来りたまうを待ち望む」と日本基督教団信仰告白をしています。教会は主イエスが再びこの世においでになる事を待ち望む群れであると言えますが、心から待ち望んでいるでしょうか。
 この世の事に時を費やし今の生活が全てになり、キリストがおいでになる事を待ち望まなくなっている現状のようです。しかし主の再臨は「盗人のようにやって来る」(10節)とあるように、いつ起きるかわからない再臨の時に裁かれないように準備が必要です。

 旧約の時代、ノア一族以外は不信仰により、洪水によって滅ぼされ.た事実を忘れてはなりません。今度は水ではなく火によって減ぼされる、と警告しています(7節)。しかし神は減ぴを目的としておられるのではなく、全ての人がキリストを信じて救われる事を願い忍耐して、世の終わりを伸ぱしておられます(9節)。神の救いが完成され、人の罪による混乱が全く克服される事を待ち望んでおられます(13節)。これが本来あるぺきこの世の姿です。

 当時の伝道者パウロも再臨は近い、と信じていましたが現代も成就されていません。神のもとには一日は千年のようで、千年は一日のようですから(8節)、時も思いも生活も神の標準に合わせなければならず、具体的にきよい生活を送る事が求められています。(11節)。主イエスを信じて救いに与ったら、きよめられてそれに相応しく励む事ができるように整えられています。「神が前もって準傭してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その良い業を行って歩むのです」(エフェソ2:10)。
 善い業ができる為に私達は救われています。ですから罪の贖い主である主イエスと結ばれた人は、まっすぐにこの世の雑事を突き抜けて、再臨の準備をして行く事ができます。

 信仰に生きるとは、悔い改めた時に神がきよめてくださり、それによって主イエスの前に立つ事ができるという確信を持つ事です。弱い私達を強めてくださる神の業によって、再臨をお迎えする事を喜びとしたいものです
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6月21日 礼拝説教概要
2009/06/27(Sat)
神癒 究極の癒し マルコ2章1~12節 

 中風の病で患っている人を4人の人達が主イエスに癒して頂こうと運んできましたが、家の中は人だかりで入る事ができませんでした。彼らは「主イエスなら癒してくださる」という絶対的な信頼から屋根に穴をあけて、部屋の中につり下ろすという非常手段をとりました。
 信仰とは何が何でも、人をかき分けてでも、主イエスの元に身を置く事です。主イエスはこのような揺るぎない信仰をご覧になって応えてくださいました。しかし直ちに病を癒されたのではなく「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)でした。これは大変貴い究極の癒しのお言葉です。
 私達は病を患う前に、悲しい事ですが、誰もが罪を負った人間です。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)とパウロが語っている通り、健康そうに見えますが人間は根本的に罪という完治しない病にかかっています。例え目の前の病が癒されたとしても、誰もがいつかは死を迎えなくてはなりません。罪の赦しのない所に本当の命と祝福はありません。

 主イエスの十字架が我が罪の為と信じる事ができない人は滅びの死に至りますが、信仰によって救われた人は誰でも、恩恵によって、肉体の死を超えて天国での永遠の命を頂く事ができます。「あなたの罪は赦される」と、主イエスの権限によって保証されています。「あなたの人生は底なし沼ではなく永遠の命の地盤があるから、死も病も何事も恐れずにこの私を信じて歩みなさい」といつも語りかけてくださいます。
 
 病が癒されたいと思いながらも残念ながら天国に召される方も多くおられます。しかし、主イエスを信じる人はその信仰において相応しい死を遂げられます。永遠の祝福の命に確信を持っておりますから、希望を胸に凱旋されるのです。
 私達はいつか人生の終止符を打ちますが、「滅び去るものと滅び去らないもの、一時的なものと永遠のもの」を区別する事ができます。私達は滅びるこの世を土台にせず、決して滅び去らない永遠の命を土台として生かされている事に毎日、毎日感謝しましょう。滅び去らない永遠の命を頂く事が究極の癒しです。これは全ての人に与えられます。
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6月14日 礼拝説教概要
2009/06/27(Sat)
聖化 ガラテヤの信徒への手紙 2:15~21 

 ⑴パウロが手紙を送ったガラテヤの教会は、「福音とは何か」ということが問われておりました。何故ならば、キリストを信じるだけでは駄目で、割礼を受け、律法を守らなければならないとする、律法的な偽教師たちに惑わされて、再び空しい律法的な生活に戻ってしまった人々がいたからです。

 本日はホーリネス信仰の中の四重の福音の中の「聖化」について語らさせていただきますが、「聖化」を語るとき、どうしても「新生」についても触れなければなりません。なぜならば、どちらも自分自身を神に明け渡すことなくして語る事ができないからです。
 旧約時代、羊や牛などの動物が罪の贖いの犠牲として献げられていたことは、私たちは十分理解しております。しかしそのことを具体的に我が身のこととして、受け止めたらどうでしょうか。犠牲の動物たちが、あなたの罪のために首を切られ、血を流し苦しみ、悲しみの眼差しをもって殺されていく、その苦しみと悲しみの眼差しをもって身代わりとなって殺されていく贖いの動物をじっと見つめ、自分の罪はこれほど深刻なものであることを覚えつつ献げるのが贖いです。
 仮にその犠牲が我が子であったとするならば、どうでしょうか。その苦悩を説明するまでもありません。「福音」とは十字架の贖いの福音です。

 ⑵信仰に生きる者とは、過去と決別し、前に向かって前進する者のことを言います。ある牧師は「信仰は四つの言葉で言い表す事が出来る」と語りました。Jesus died for me「イエスが、私の、ために、死んだ」これに尽きると言うのです。この信仰に立つとき、「きよめ」の信仰に立つということは、如何なることであるか、と説明する必要はないはずです。

 罪人である私のために十字架上に命を献げてくださったお方に応えていく、そして来るべき再臨の主イエス・キリストをお迎えする、そこにおのずときよめに生きる者の道が見えてきます。
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6月7日 礼拝説教概要
2009/06/16(Tue)
新生 「灰の代わりに頭の飾りを」 ローマの信徒への手紙6:15~23 イザヤ書61:3・10~11 

 人は罪に仕える奴隷か、神に仕える奴隷かどちらかであると言います。
私達の内には様々な欲望があり、生まれながらの人間は皆その思いに引きずられている罪の奴隷であるといいます。目の前の楽しみ、一瞬の喜びは知っていますがそこからは何も見出す事もなく実りもなく、人には言えないような恥ずかしい事ばかりです(ロマ6:21)。
 このような人間を神は放っておくわけがありません。神の一方的な憐みと愛によって、罪人を救う為に愛する御子イエス・キリストを十字架にまでつけてくださいました。イエス・キリストを救い主と信じる者は誰でも罪から救われて神の者とされ、罪の奴隷から解放されて神の奴隷とされます。暗闇の中から神の光の世界へと移されて、全く新しく生まれ変わった者とされるという事です。
 神の奴隷とはこのようにマイナスイメージではなく、この世にはない恵みを指します。しかし、つまずく事もあり、罪に転ぶ事もありますが、光の中に照らされているから誰でも起き上がる事ができます。

 ルターという人はキリスト者の生涯は悔い改めの世界である、と述べています。光の中にいるから例え罪を犯したとしても、罪に振り回されて終わりではなく、神の元で悔い改めをしながら人は整えられていくという事です。
 神の奴隷へと移された者とは、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテヤ3:27)との如く、キリストの正しさの衣を着せて頂いています。罪から救われた者はキリストの輝かしい恵みの衣で覆われています。その姿は世界で一番貴く注目を浴びるべき存在で「花婿のよう輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。」と記されています(イザヤ6:10)。かつては灰をかぶるっているような姿でしたが、今や輝く者とされているから樹齢を重ねる樫の木のように胸を張って歩んで良いのです(イザヤ6:3)。人生の嵐にもまれ、季節をめぐり、年を重ね、それでも私達は救いの衣を着せて頂いていますから、神の栄光を現していきたいものです。
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