2009_03
01
(Sun)18:57

2月22日 礼拝説教概要 東海林主任牧師

「原石は静寂なり」 ヨハネによる福音書15章1節~17節 

(1)実を結ぶ事は主よりの命令ではなく約束です。ですから歯を食いしばって、一生懸命努力して実を結べ、とは主イエスは言われませんでした。この約束を信仰をもって受け入れるならば、あなたは実を結ぶことができる、と言われるのです。その場合の問題点は、主イエスと結び付いているかどうかとの点にあります。
 主イエスに繋がるならば三つの根本的な問題が解決します。第一は過去の問題に対する救いが与えられる、ということです。「御子イエスの血によってあらゆる悪から清められる」(ヨハネ-1:7)とあるように、罪は赦され、きよめていただく恵みが与えられます。故に過去の問題を引 きずり苦しむことはありません。
 第二は将来にある最大の問題である「死」に関して救いが与えられているということです。なぜならば主イエスは復活の御業をもって、救いを与えてくださったからです。
 第三は過去の問題と将来の問題が解決されているとい うことは、現在の問題をも解決されていることをも意味します。なぜならば、現在はキリストに在る未来の希望に問題は問題でなくなってしまうからです。
 主イエス・キリストの「十字架」、「復活」こそ、過去、現在、未来に至る全ての問題の解決、救いです。

(2)実を結ぶ秘訣が7節にありますが、三つのポイントがあります。①「わたしにつながっていれば」、②「わたしの言葉があなたがたの内にいつもある」、③「望むものはなんでも願いなさい」ということです。「そうすればかなえられる」と主イエスは約束されました。信仰生活の中で祈りが応えられた体験や神に取り扱っていただいた体験をすると信仰生活が実に楽しいものになります。どんなに困難な問題が起ころうとも、信仰に生きる者は必ず乗り越える道が主より備えられていることを体験的に知っていますから、ハードルが低く見えて来るものです。

(3)16節において、神の選びが語られていますが、愛なる主イエスにつながることが実を結ぶことの秘訣です。問題は原石に戻ることです。キリストの愛に応えてゆける者は、無色透明な原石のような存在です。その中には「主を信頼する思い」以外のよけいなものが入っていませんから、そこから生まれてくるのは豊かな実です。原石から生じる静寂な心、すなわち主を待望する心をもって、主がなしてくださるみ業を期待しつつ、信仰をもって歩みを続けてまいりましょう。
2009_02
21
(Sat)16:59

2月15日 礼拝説教概要 佐々木副牧師

「行き着く場所」 ローマ信徒への手紙12章1節~8節

 イエス・キリストは私達の罪から救い出す為に苦痛の中、十字架にお架かりになり、その命を献げてくださいました。その犠牲に応える為に自分の身体を献げ(1節)、神から託された使命を全うするように、と記されています(6~8節)。キリストに結ばれている私達は神に対して特別の働きがあり、その為に全ての人に賜物が与えられています(4~6節)。ですから賜物を自分の楽しみや名誉の為に用いるのは目的が違います。

 奉仕等の働きは神に向かって成されるものですから、人の様子を見てするものではなく、他人がどうであれ、神の恵みに対して感謝と喜びを持ってお献げする事が、神の御心です。隠れた事を見ておられる神が報いてくださり、答えてくださいますから、右の手にする事を左の手に知らせる必要はありません。旧約聖書のネヘミヤ記に神殿建築の際に携わった人々とその働きが忠実に残っています。私達の奉仕もこのように天国に記されていますから、何という感謝な事でしょう。

 信仰の喜びは十字架に結び付く献身を通してのみです。私は信徒の方々から多くの事を日々教えて頂いておりますが、我が振りを教えられのは、無言の内に陰で一生懸命、神にお仕えしておられる信徒の方々の後ろ姿です。その背中を見せて頂く度に、いつも神から「あなたは本当に神に教会に仕えているか?」と強烈に問われます。そうして、今一度新たな思いで神と人の前に立たせて頂いております。そのような後姿に牧師は支えられ、教えられて成長させて頂くのです。このようにして関係を結びながら、信徒の方も牧師も共に自分の限界を超える働きをさせて頂いて、教会は祝福され前進していくのだと思います。共に献身の中で喜び、感動を頂きながら成熟させて頂き、行きつく場所は更なる神の恵みの元に置かれます。

 このように賜物を持って、犠牲をもいとわず積極的に信仰生活を目指すには、慎み深さが必要であると記されています(3~5節)。どのように大きな働きに見えようが、他の人と共に自分も用いられているに過ぎず、キリストの体の一部としての働きでしかない、という事を弁えていないとならないとあります。多くの肢体の一つの働きに担わせて頂いている、という認識が慎むという事です。お互いが他の支えとなって、この身を献げながら人をも生かしていくのが教会です。共にその使命を全うしていきましょう。
2009_02
07
(Sat)10:00

2月1日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師

「惑わされることなく」 マタイによる福音書24:1~14 

⑴主イエスは「この世の終わりがある」ことを明言されました。そしてそのことに伴い様々な徴が現れることを語られました。しかし大切な心掛けは、「惑わされないこと」いうことです。また主イエスは殊更に不安を与えようとして語られたのではなく、「世の終わり」は、「救いの完成の時」であることを語っておられます。この神が定められた最後の到達点を見ずに、社会的環境を通して現れる世の終わりの徴だけを見るならば、人は絶望せざるを得ません。

⑵人は不安を抱くどの時代においても確固たる寄り所を求めているものです。ガリラヤという田舎から出て来た主イエスの弟子達の目には、エルサレムの神殿は実に荘厳で、頼りがいのある存在でした。ところが主イエスは、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と語られました。弟子達には不動な存在に見える神殿が崩壊するなどということは、想像すらすることのできないことでした。そのような彼らに対して主イエスは「これらすべての物を見ないのか」(2)と語られました。
すなわち「あなた方は本当のものが見えていない、本当に寄り頼むものは何か」と問われたのです。

⑶主イエスは終末に伴う6つの徴について触れられました。①「わたしがメシアだ」と、惑わす偽者の出現。②戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くこと。③民同士の敵対や飢饉、地震。④信仰故に殉教者が起こること。⑤つまずき、裏切り、憎しみ合いが起こること。⑥不法がはびこり、愛が冷えること。いずれも私達の置かれている現実です。真面目に生きようとする者が馬鹿を見るような現実、人を愛そうと思っても、必ずしも愛をもって応えられるわけでもありません。むしろ善をもってした業が、悪意をもって応えられることすらあります。結局これらの徴が現れる先には何があるかと言うと、刹那的な生き方と破滅でしかありません。この先世の中はどうなってしまうのか、誰もが不安を抱いております。

⑷結論は全世界に福音が宣べ伝えられてから、終わりが来る、ということです。預言者エゼキエルは神殿と神の都エルサレムから主の栄光が去っていくことを霊の眼をもって見ていた人物でした。しかしその彼は‶この都の名は、その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。″と最後のエゼキエル書48:35に記しています。すなわち失望するような中にあっても、信仰の眼が開かれている人は、臨在の主を見、その回復を夢見、真に寄り頼むべきお方はどなたであるかを悟らされ、そして魂の救いのために、御国の福音を宣べ伝える使命に生きることができるのです。
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(Tue)20:34

1月18日 礼拝説教概要 佐々木副牧師

「問うことのできるお方」
ローマ信徒への手紙13章11~14節

 「夜は更け、日は近づいた。」(12節)と記されています。近づくとは、将来の事態を先取りして生きる姿勢を示します。暗闇の只中で朝を待つような歩みをせよ、という事です。人生暗闇、と思ったらそのような歩みしかできず、その結果が「酒宴・酩酊、淫乱・好色、争い・ねたみ」(13節)です。朝を待ち望む事ができない故に、現実逃避や欲望に走ったり、争いの中、人の足を引っ張り、果ては一緒に落ちていきます。そこには自分の存在や生きる価値を見出す事はできず、意味のないつまらない生き方をせざるを得ません。その誘惑に巻き込まれない為に「闇の行いを捨て、光の武具を身につけましょう」(12節)とありますように、朝に向かう生き方、つまり神の光によって整えられて歩んでいかなくてはなりません。私達が光の中で生きる事ができるように、イエス・キリストが十字架に架かってくださり、既に勝利を勝ち取ってくださっています。
 しかしあまりにも闇が長いと、この暗さに呑み込まれるのでは、と不安になりますが、私達には「本当に朝が来るのか?」と問う事ができる神がすぐ傍らにおります。「今は夜の何どきか?」「夜明けは近づいている。しかしまだ夜なのだ。どうしても尋ねたいならば、尋ねよ。もう一度来るがよい」(イザヤ21:11~12)と、その度ごとに神の前に出て何度でも尋ねなさい、とおっしゃっています。漁師ペトロ達が何度網を下ろしても魚が取れなかった時、主イエスは彼らに沖に漕ぎ出して網を下ろしなさいと指示されました。彼らはそのお言葉に従った時、想像できない程の魚を収穫しました。一度で駄目なら更にもう一度、何度も何度も、これでもかという程、神に向き合った時、初めて私達は不安の中から確信を頂く事ができます。諦めずに神に尋ねながら光を求めていく生き方が信仰の歩みで、それは必ず朝に繋がっていきます。
 私達の誘惑は暗闇の中にどっぷり浸かってしまう事です。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:5)と記されています。勝利は決定的ですが、私達は絶えずキリストと共に、闇からの誘惑と闘わなければなりません。その力も失せてしまった時「朝は本当に来るのですか?」と神に問いつつ、諦めず歩んで参りましょう。「主の慈しみは決して絶えない、憐れみは尽きない。それは朝ごとに新しくされる」(哀歌3:11~23)
2009_01
17
(Sat)22:17

苦難の中の慰め コリント2 1:3~10


「わたしたちは神に希望をかけています」(10)を2009年の教会標語とさせていただきました。この言葉は様々な苦難を通して体験的に習得したパウロ自身の確信であると共に、キリストに在る私たちの確信でもあります。パウロは苦難が何故与えられるかとの疑問に答えております。その理由は苦難を通して神からの慰めを得た私達は、その慰めをもって同じ苦難にある人に慰めを与える者とさせていただくために、神は敢えて苦難を私たちにお与えになられるお方であるということです。


パウロは神よりの慰めをキリストの関連において述べようとします。(5)私たちが神よりの慰めが与えられ、失望せざるを得ない状況に陥りつつも、何故希望をもって生きることができるかと言うと、キリストが私たち罪人のために十字架上に命をささげ、苦しんでくださったからに他なりません。どのような苦難であれ、どのような深刻な問題を抱えていようとも、それに優るところの神の慰めがキリストを通して与えられるというのが、パウロ自身経験を通して与えられた確信でした。


教会とは慰めの共同体です。精神科医で牧師であられる山中正雄先生は、ストレスに打ち勝つ方法として、第一に「休養」、第二に「静かな心で神に対すること」、第三に「同じ使命を持つ仲間を発見すること」を挙げておられました。世の中には孤独な人が沢山おられますが、しかし教会には仲間がいる、共に信仰生活を続けている人々がいる、それを確認することによって、新しい状況に対応する力が与えられるのだと言うのです。


パウロにとっての希望は死者さえを復活させてくださる神にありました。ある聖書研究者によると達磨の原型は、主イエスの復活を信じることの弟子トマスであると言うことでした。あの達磨から引き出すメッセージは「七転び八起き」です。それが事実ならば実に信仰的な意味合いが込められています。トマスは信仰的に躓き、絶望を経験しました。そして主イエスを三度も「知らない」と否定したペトロに復活の主イエスが現われ、三度、「あなたはわたしを愛するか」と問われました。傷を抱いていたペトロに対する赦しの招きであったと共に、主よりの慰めを頂いた出来事でもありました。トマスやペトロがそうであったように、キリスト者は七度転ぼうとも、立ち上がることができます。なぜならば「わたしたちは神に希望をかけているからです」