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2018_03
25
(Sun)10:30

十字架に何を見る

イザヤ書53章1~12節

澤田直子師


受難週は、神のご計画が粛々と進んで行き、しかしイエス様の他には誰もその意味が分からない、そういう一週間です。それは聖書の時代に限らず、今この現代でも、聖書もイエス・キリストも十字架も知っている、でも自分には関係ないと考える人はたくさんいるのです。

 イエス様は、ここまでに3度も十字架の予告をされました。しかし弟子たちはそれを自分たちに関わることとして受け止めていません。これは4節にある「彼が担ったのはわたしたちの病」そのものです。心を、思いを、神様ではなく自分に向けてしまう病です。

 そういう無理解の中でも、イエス様はご自分の周りにいる全ての人に愛の眼差しを注ぎました。何もわからない弟子たちに、付き添ってきた婦人たちに、果ては、ご自分を十字架に釘づけたローマ兵にまで、最後の最後まで、ただ愛することに全力を尽くされました。

 ゲツセマネの園では眠りこける弟子を赦し、傷を負わされた大祭司の手下を癒し、ユダの裏切りの接吻を黙って受けられました。イエス様を知らないと言い張ったペトロをじっと見つめ、大祭司の傲慢やピラトの無知にも何も言われず、隣の十字架で死にかけている強盗の信仰告白に、あなたは今日天国に入る、と救いの宣言をされました。

 6節にあるように、わたしたちはしばしば道を誤り、過ちを認められないがゆえに、正しい道に戻ることができません。それら全てを背負ってイエス様は死なれました。7節「彼は口を開かなかった」ご自分のためには、言葉一つさえも使わなかったイエス様。そのゆえに罪はイエス様のものとされ、イエス様の死と共に罪も死にました。

 それほどの愛を、弟子たちは容易に信じられなかったでしょう。しかしイザヤ書53章11~12節には、それが神の僕の強い意志であり、その結果に満足していることが記されています。罪から最も遠いところにおられた方が、自ら望んで、多くの人の過ちを担ってくださった。それはわたしたちに対する大いなる愛のゆえでした。

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2018_03
18
(Sun)10:30

これはわたしの体である

マタイによる福音書26章26~30節
澤田 武師


主題聖句 「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、
        弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』」 26節


 イエス様は過越しの食事の作法に従い、「パンを取って食べよ」と命じます。そして「これはわたしの体である」とのお言葉を付け加えられました。ここに新たな解放の宣言があります。イエス様は過越しのパンが、エジプトでの苦難からの解放を意味していることをさらに深め、人々の罪からの解放を示されました。それこそが、あなたの罪のために十字架で裂かれるわたしの体であると。この体をあなたに与えると言われます。それ以外に罪からの解放はあり得ない。ここに罪の赦し、真実の救いがあります。

 過越しの食事ではぶどう酒の入った4杯の杯を飲みます。これは奴隷時代、「重労働からの解放、贖い、救い、あなたたちの神となる」との、神様の4つの約束を意味します。「杯を取り、感謝の祈りを唱え」、これは3杯目の杯です。

 「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」イエス様が付け加えてくださった約束です。過越しの夜、イスラエル人の家の鴨居と柱に塗られた小羊の血が、民を守りました。神様とイスラエルの民との間の約束です。しかし、イエス様は十字架で流されるわたしの血こそが、神様と人々の新しい契約であると宣言されました。イエス様が生き、そして死ぬことによってあなた方と神様の間に新しい関係が生まれ、契約が結ばれることを宣言されました。新しい契約、ここに福音があります。

 「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」このお言葉は、イエス様が今どこを見ておられるかを示しています。イエス様は目の前に迫った十字架を見つめながら、最初の聖餐を行いました。罪からの解放、救いの新しい契約、それは十字架に架けられたイエス様のお体と血によって備えられるものである。そして、十字架の先にある神の国、父の国で弟子たちと共に歩むことを見ておられました。

 イエス様は過越しの食事を、新しい契約に変えてくださいました。聖餐はパンとぶどう液を、イエス様のお体と血を象徴するものとしていただきます。罪赦された者の幸いと、新しい契約を与えてくださった神様への感謝の時です。

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2018_03
11
(Sun)10:30

まさか私のことでは

マタイによる福音書26章17~25節
澤田 武師


主題聖句 「イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、『先生、まさかわたしのことでは』と言うと、
        イエスは言われた。『それはあなたの言ったことだ』」 25節


 「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。」イエス様のお言葉は、過越しの食事を楽しみしていた弟子たちに、衝撃を与えました。

 過越しの食事では、エジプトでの苦難を思い起こすために、塩水を入れた鉢にレタスやパセリを浸して、それを前菜として食べます。既に弟子たちは食べ終えていました。イエス様を主として、共に弟子として歩んで来た者たちには、なぜイエス様がこのようなことを「今」言われたのかは理解できません。「わたしの時が近づいた」イエス様だけが、十字架が確かに近づいて来ていることを知っています。

 「主よ、まさかわたしのことでは。」弟子たちは代わる代わる言います。マタイによる福音書では「主よ」との呼びかけは、イエス様を信じる者が呼びかける時に用いられています。お言葉は弟子たち自身の信仰、イエス様への信頼を激しく揺さぶります。弟子たちは不安、弱さを改めて見せられました。それでも、イエス様と共に生きることを願った者たちの、弟子としての精一杯の応答です。

 ユダも「先生、まさかわたしのことでは。」と応答しますが、ユダには分かっていました。既に裏切りを決めていた自分自身の言葉には真実は無い。マタイによる福音書では、「先生」との呼びかけは、イエス様を信じない者、敵対する者が使う言葉です。ここに、他人には見えない、ユダの心の事実が現されています。

 ユダはイエス様を裏切った者です。しかし、その動機から、またユダが最後に選んだことから見て、イエス様の命までも奪うつもりは無かったとも考えられます。

 「人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者ためにはよかった。」このお言葉は、イエス様を否定する者、神様を否定する者すべてに向けられた言葉です。このお言葉が自分に向けて語られたと知っていたのはユダでした。最後の晩餐にユダが招かれたことは、神様のご計画として十字架への道が確かに開かれたこと、罪の赦しの御心が、ここでも現されたことを意味しています。イエス様はユダを支配している「この世」から、「先生」と呼びかける者から、もう一度「主よ」と呼びかけ、まことの主に立ち帰る機会を与えたのではないでしょうか。

 私たちもユダと同じ罪人です。私たちの中のユダを見ましょう。そして、主よ、と告白して十字架を見上げる者として、生かされて行きましょう。

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2018_03
04
(Sun)10:30

知る力と見抜く力

出エジプト記2章1~10節  フィリピの信徒への手紙1章9~11節
ケルン・ボン日本語キリスト教会牧師  佐々木良子師


 出エジプト記1章~2章には、モーセの誕生にまつわることが記されています。イスラエルの民にとって、その時代は暗黒で最悪な時でした。

 本日の聖書箇所はそれぞれの独自性をもった多くの人々が登場しています。残虐なエジプト王・ファラオ、神を畏れる尊い信仰をもったヘブライ人の助産婦、憐れみの情をもったファラオの王女、信仰と賢さをもったモーセの母と姉のミリアム・・・等。これらの人物が誰一人欠けても、のちの指導者モーセという人物はあり得なかったことでした。

 イスラエルの民の人口はエジプトに移住して400年ほど経った頃には驚異的に膨れ上がったのでエジプト人は恐れ、苛酷な労働を課して人口増加を食い止めようとしましたが益々増え続けました。そこでファラオは「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうりこめ・・・」(1:22)と、男児殺害の恐ろしい命令を出したのです。しかし、そこで神は先ほど挙げた人物を豊かに用いてモーセは王女の子としてエジプトの教育を受け、成人した時はあくまでも神に仕えるヘブライ人の指導者へと成長していきました。

 このようにモーセが指導者となっていく過程に、神は敢えて最悪の時代を用い、その壮大なご計画の実現と共に神ご自身がどのような方であるかということを示されました。そのことはモーセがイスラエルの民を率いる指導者になってから知ることとなります。エジプトの王女のもとで育てられること自体が奇跡ですが、更にモーセ自身が信仰を受け継いだヘブライ人として成人したことは常識的に考えられないことです。しかし、そのあり得ないことをされるのが神です。

 聖書に記されている出来事は常に時間差で後になって「なるほど!」と驚きと感動をもって神の御業を仰ぎ見ることになります。私たちが考えることができない程に味わい深く豊かですから神なのです。ですから私たちはそのような神にお委ねしてワクワクしがら次のステップへと踏み出していけるのです。そこに私たちの希望があります。

 モーセ誕生にまつわる出来事に思いを馳せる時、私たちは神に焦点を合わせていくならば、本当に大切なことを知る力と見抜く力が与えられて、神の御業に目覚めていくことを悟ります。このような仕方で神の深い神秘を知っていき信仰生活が前進していくものです。

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2018_02
25
(Sun)10:30

わたしたちは信じる

ヨハネによる福音書4章39~42節
澤田直子師


 ヨハネ4章の大部分を占める「サマリアの女」の話は、単に出来事を記したのではなく、神様のご計画として神学的な意味を表そうとしています。

 井戸の傍で女を待つイエス様の姿は「キリスト論」です。救い主とはどのようなお方か。また、イエス様と女の会話は「救済論」、救われるということは、内に枯れることのない泉が開かれるようなものであるという事です。

 女が礼拝について問う「礼拝論」イエス様は、まことの礼拝は「霊と真理」によって奉げられると教えます。霊とは神からの聖霊、真理はイエス様そのものです。最後は「宣教論」神の働きが現れる時には、種蒔きと刈り入れが同時に行なわれるような、わたしたちの常識とかけはなれたことが起こり得ます。

 使徒言行録8章にもう一度サマリアの町が出て来ます。ここではイエス様の弟子フィリポが福音を告げ知らせますが、この時にはシモンという魔術師がサマリアの町で人気を得て「神の力だ」などと言われています。どうも、サマリアの人々は信じるのも早かったけれども長続きしなかったようです。ペトロとヨハネが加わって、「聖霊を受けるようにとその人々のために祈った」信じたらそれで終わりではなく、聖霊のお働きを祈って、信仰がより深くより新しくされるよう努めなければなりません。

 サマリアの出来事は、わたしたちが信仰を持つ道筋を教えると同時に、それで、その後はどうしますか?ということを問うているのではないでしょうか。信仰の告白、洗礼を受けることは、ゴールではなくスタートです。イエス様の十字架と復活を信じ、罪赦されて新しい命をいただいてからが、信仰者の勝負どころなのです。

 ローマ 12:2「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」また、 14:8「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」信仰を告白した後の歩みが全て、主に栄光をお返しするものとなりますように。

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