2017 / 05
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使徒言行録26章24~32節

澤田 武師

主題聖句 「今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。」  26章29節

 フェストゥスは、パウロの弁明を中断させます。偶像の神で心が満たされているローマ人には、「福音」「良き知らせ」は届きませんでした。

 アグリッパ王は、パウロの話が充分でないと答えをごまかしますが、実は自分の信仰の矛盾に「つまずき」を覚えてようにも思われます。このつまずきが「福音」を「聞く者」となることを退けました。

 信仰生活の中には「つまずき」を覚える時もあります。信仰につまずくのではなく、正確に言うならそこで行われる「人間の現実」につまずくのです。私たちに与えられた「福音」は決して私たちをつまずかせない。「福音」は決して裏切らない。パウロの問いは、今私たちは本当に「福音」を信じているのか「福音」に土台を置いているのかとの迫りに聞こえます。

 29節「今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。」このパウロの言葉は聞き方によってはとても傲慢であると思えます。事実、パウロに対して「頭がおかしい」「説き伏せるつもりか」と決めつけている彼らにとっては、「福音」から離れる決定的な言葉となってしまいました。

 「今日この…神に祈っています。」この言葉はパウロの生涯を貫く信仰者としての姿勢を表した証詞です。復活のイエス様に出会い、神様の愛によって罪赦された者として生まれ変わり、どこでも誰にでもイエス様の福音を述べ伝える者として生かされて来た。自分ほど神様の愛に生かされている者はいない。自分の存在の意義を知っている者はいない。パウロは神様を知ることは、自分自身の存在をはっきりさせることであると確信しています。

 イエス様は、種を蒔く人の例えを話された後、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われました。「聞く耳のある者」とは、復活のイエス様に捕らえらえて、その生涯をかける者のことです。すなわち今証詞をしているパウロの存在を受け入れることができる者です。パウロを受け入れることは、パウロの生き方を受け入れることです。パウロが生きた同じ道を選ぶことです。

 私たちにも福音を伝える者、福音の恵みの中に歩んでいる信仰者として、存在自体が証詞となれるように祈りましょう。
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使徒言行録26章12節~23節

澤田 武師

主題聖句 「つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」               26章23節

 パウロはダマスコへ向かうキリスト者迫害の旅の途上で、復活のイエス様に出会います。その時からパウロは、イエス様の福音を宣べ伝える者として生涯を捧げます。生き方が180度変えられました。

 使徒言行録には3度パウロの回心の出来事が記されています。繰り返し語られるのは、復活のイエス様との出会いがパウロの信仰の原点となった厳粛な事実であるからです。12節以降では、パウロは、かつては「人からの権威」で生きてきたが、今は「天からの権威」に生かされていることを、驚きと喜びを込めて語っています。

 イエス様に出会う前、パウロが自分の生涯の業として「選んだ」のが「イエス様を信じる者を捕らえる」ことでした。それこそ神様に喜ばれる行いであり、律法を守り救われるための働きであると信じていました。しかし、声が聞こえます。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」この声はイエス様がパウロだけに聞かせた、わたしがここに居るという御声です。

 パウロは、復活のイエス様に出会い、新たに「奉仕者」「証人」「使徒」という、「天からの権威」を与えられた者へと変えられました。「自分の足で立て」神様が預言者として用いようとする時の「選び」の言葉です。パウロは新たな使命に「遣わされた者」として、ここから立って歩みはじめることになります。これはイエス様に託された使命です。

 キリスト教信仰は「選び」が重要です。私たちの信仰の原点、信仰に導かれた時など「選びたくなかった」が選ばざるを得なかった場合があります。「選ぶ」ことは「神様の御言葉に従う」ことです。イエス様の十字架の苦難、復活の喜び、福音を世界中に述べ伝えることを、パウロは「選び」、生涯をかけて証詞していきます。パウロの信仰の原点がここにあります。「天からの光を見た者」として、こう生きる以外なかったのです。

使徒言行録26章1節~11節

澤田直子師

第三次伝道旅行からエルサレムに帰ったパウロは、神殿に詣でたところをユダヤ人たちに見とがめられ、危うく殺されそうになりますが、ローマ軍に救われます。続く裁判はパウロを陥れようとするためのものでした。

パウロがカイサリアで留置されている時、ヘロデの血統であるアグリッパ王がパウロに興味を持ったので、何とかしてローマ
に行きたいという思いがあるパウロは、この機会を利用して、懸命に演説します。

 マルコ13:11 『実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ』 聖霊に導かれたパウロの言葉は、へりくだった真摯なものでした。パウロは、ユダヤ人を気の毒に思いこそすれ、悪く言ったり断罪したりはしません。パウロがローマに行きたいのも神のご計画のためです。パウロ自身は、フィリピ1:21『生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。』 生きるのでも死ぬのでも良い。けれども、どちらにしても神の栄光を表すものでなくては。そこだけは譲れない、という決意でいます。

 主の十字架の死によって、パウロの罪も死にました。罪の行きつく先の死は、神との断絶です。イエス様が十字架につけられた日、昼の12時から3時ごろまで暗黒におおわれ、イエス様の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉に応答はなかった、この暗闇。しかし三日目の復活の朝には、墓の中にさえ、もう暗闇はありませんでした。そこには輝く光と共に神の使いがおられました。主の復活によって、罪に死んだパウロに新しい命が吹き込まれました。パウロはこの事実に望みをかけています。

 ローマ総督フェストゥスは、ローマの強大な軍事力・経済力に望みをかけて、その力に頼って正しく誠実であろうとします。パウロを告発したユダヤ人たちは、裁判でパウロを死に至らしめ、自分たちが正しいことを証明することに望みをかけています。

 さて、わたしたちは、何に望みをかけてこの世を歩むのでしょうか。ヨハネ15:16『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしが、あなたがたを選んだ。』 主の選びに望みをかけて、実を結ぶ歩みを!

ヨハネによる福音書21章20~25節

澤田直子師

ヨハネ21章では、弟子たちは既に復活のイエス様に出会っています。しかし、この先のヴィジョンが明確に与えられたわけではありません。ペトロ、ヨハネなど7人の弟子が漁に出ます。一晩働いても何も獲れなかったその朝、岸に立つ人の『舟の右側に網をおろしなさい』との言葉に従うと、網が上がらないほどの魚が獲れました。これは、かつてペトロがイエス様に従うことを決意した朝と同じ光景です。

 朝食の後の、イエス様の3度の問いと『わたしの羊の世話をしなさい』というお言葉は、ペトロに対する再召命でした。十字架の贖いの真の意味を厳粛な思いで理解するペトロは、ふと、近づいてきたヨハネのことが気になります。この二人は、年齢は離れていましたが、いつもイエス様の一番近くにいて、お互いの信頼感も強かったと思います。空の墓にも一緒に駆けつけました。しかし、イエス様は 『あなたに何の関係があるのか』 と問われます。

 わたしたちは、何と他人の言動が気になることでしょう。現在だけでは足りず、過去にさかのぼり、未来を心配して、「他人を気にする」ことに大きなエネルギーを費やします。自分の事は見えない割に、他人のことは細かいところまで見えるし、見えたら言いたくてたまらない。これは高ぶりを呼ぶ誘惑です。聖書では、高ぶる者は引き下ろされ、へりくだる者は上げられる、という法則があります。イエス様は 『あなたに何の関係があるのか。あなたはわたしに従いなさい。』 簡単に言えば、よそ見をするな、ということだと思います。

 わたしたちそれぞれに、神様は歩むべき道を備えてくださっています。それは、並行して神の元に向かっています。時には近くなり、時には遠ざかり、平坦さも困難さも人それぞれです。その人の道はその人だけのもので、インマヌエルの主の他、誰も一緒に歩くことはできません。(讃美歌第二編165番「さびしい谷の道」参照)

 25節にヨハネが書いていることは、今日も、この先もずっと続いきます。与えられた神の御業をしっかりと見つめつつ歩んでいきましょう。

ヨハネによる福音書20章11~18節

澤田 武師

主題聖句「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」       20章16節

 マグダラのマリアは、イエス様のお体がお墓の中にみつからないので、泣いていました。その場を立ち去ることも出来ないほどの悲しみの中にいます。

 イエス様の十字架の死は、マリアにとっては突然でした。さらに安息日が始まるため、十分な葬りの準備も出来ないまま、安息日が開けた朝を迎えました。確かに収めたはずのイエス様のご遺体が見当たらない。もうマリアには何が起こっているのか分かりません。何もかもが失われた絶望の中では、泣くことしか出来ませんでした。

 泣きながらお墓の中を見ると、そこにいた天使が「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問います。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているか、わたしには分りません。」マリアの視線は、イエス様が葬られた墓に向けられています。それは、生きている者を探す視線ではありません。イエス様の死を探す視線です。しかしそれすらも見失ってしまったマリア。

 その悲しみの言葉を神様は“祈り”に変えてくださいました。マリアが答えた言葉は、神様への訴えであり、抗議であるとも聞こえます。しかしそれはマリアの本心です。神様はこの言葉を受け取って祈りへと変えられます。

 16節、「マリア」と呼びかけたその声は、聴きなれていたイエス様のお声でした。イエス様はいつもと同じように名前を呼んで、マリアを、死を見つめる者から、復活のイエス様に振り向く者に変えてくださいました。イエス様はマリアが見ていた死の領域から振り向かせ、永遠の命を約束する、神の領域を見る者へと、その視線を変えてくださいました。

 いかなる悲しみや不安絶望の中にいても、イエス様は「わたし」を覚えていてくださり、その名前を呼んで永遠の命を見せてくだり、イエス様との関係をはっきりと示してくださいます。それが復活のイエス様と出会うことです。

 復活のイエス様は、私たちの生活の中で、名前を呼んでくださいます。そして、イエス様はマリアに新しいことを頼みます。この現実の中に生きることを命じます。イエス様が復活した出来事を弟子たちに知らせることです。マリアは弟子たちの所へ行き、「わたしは主を見ました」と大きな喜びの告白をします。イースターは、わたしたちを、イエス様が復活された事実を語る者として新たに生まれ変わらせてくださる時です。

小松川教会HP委員会

Author:小松川教会HP委員会

小松川教会は、「聖書は神の言葉、全人類にとっての救いの言葉」と信じる健全な聖書信仰に立つプロテスタント教会であり、全国に約1700余教会ある日本基督教団に属しています。
モルモン教、ものみの塔、統一教会とは一切関係ありません。
澤田武主任牧師

澤田武主任牧師


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澤田直子牧師