2017_08
13
(Sun)10:30

勝利を得る者

ヨハネの黙示録21章3~7節

澤田 武師

主題聖句 「すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた。」 ヨハネの黙示録21書5節

 ヨハネは何を「見よ」と言われたのか。それは、今までヨハネが見て来た世界とは異なり、神様と人間が共に住み、神様と人間の交わりが回復された世界です。イエス・キリストにより罪に覆われていた世界が去り、新しく現る世界です。その時にはイエス様が再び来られる。これが「再臨」の希望です。

 ヨハネは語りかける声を聞きます。新しい世界には、もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない。神様は慰め主として、すべてを拭い去ってくださる。最後の敵である「死」さえも、拭い去られます。死はアダムの罪の結果として、人間に課されたものでしたが、この問題も今や完全に解決されました。

 天地創造の初めには、死も悲しみも嘆きも労苦もありませんでした。神様はこれらを創造されませんでした。原罪は神様の思いから人間を引き離しましたが、その関係は元へ戻る。神様が再び創造される時が、救いの完成の時です。

 再創造について、神様は「万物を新たにする」とヨハネに語りかけます。すべてが変わる。世界もそこに生かされるものも、そのすべてが新しく変えられます。そしてこれこそは「信頼できる事実である」から「書き記せ」と、命じられます。希望の命令です。神の愛により頼む者はすべて「勝利を得る者」として神様からの栄光を受けて、完全勝利を収める者となります。

 「再臨」は明日来るかもしれません。私たちが地上で生きている間には来ないかもしれません。それは誰にも分かりません。聖書にも書かれている通り、神様だけが決めておられる時だからです。だから待たなくても、だから考えなくてもよい、ということではありません。「再臨」の恵みによって、神様は私たちに永遠を想う心を与えてくださいました。この永遠を信じて、多くの者が既に天に帰りました。永遠を待ち、永遠を信じて地上の働きを終える、それは希望の生涯ではないでしょうか。私たちも書き記しましょう。私たちの信仰を。生かされている喜びを。
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2017_08
06
(Sun)10:30

神の癒し

エレミヤ書17章5章14~18節

澤田 武師

主題聖句  「主よ、あなたがいやしてくださるなら わたしはいやされます。」  エレミヤ書17章14a節

 「四重の福音」その三番目の「神癒」とは、「神様が私たちの病を癒してくださる」ということです。

 聖書は旧新約問わず、魂の問題と同時に、私たちの肉なる「存在」、この「からだ」と「こころ」をもって、「日々の生活」をしている私たちそのものにも関心があることを記しています。

 私たちは日々苦しみを感じて生きています。その中でも病気は、風邪程度のことであったとしても、体にも心にも痛み苦しみを感じさせるものです。聖書には病気の癒しという記事が多数記されています。今も昔も病気が人々を苦しめるものであることが示されています。

 イエス様の十字架と復活によって、人の罪は赦されます。これが福音であり神様の救いですが、それは心の問題だけでなく、人の全体に関係します。イエス様は奇跡として体の癒し、心の癒しをされました。その御業は私たちの祈りによって、今も私たちの日常の中で、体験される出来事となっています。

 また「神癒」は神様の恵みと憐みによって、私たちに健康な体と魂を与えてくださることであるとも言えます。

 私たちは弱さをもっています。体の弱さ、心の弱さ。それは悪いだけのことではありません。日々健康である、その恵みの姿を改めて知るとのできるのは私たちが弱くなった時です。その弱さの中に、神様は「癒しの御手」を伸ばしてくださいます。私たちの弱さはそこに神様の癒し、そして、そこに生かされている「私の存在」の意味を、改めて教えてくださるということです。

 エレミヤは、「神様が癒してくださるならば、神様が救ってくださるならば」と、神様の言葉にすべてを委ねます。エレミヤを嘲る者からの言葉は、エレミヤを縛り続ける苦悩の痛みとなり、それは迫害の傷であり、心の痛みでもあります。それでも「あなたは避けどころ」とエレミヤは最後まで訴えます。

 この世も病んでいます。そこにも「癒し」の御手は伸ばされています。
2017_07
23
(Sun)10:30

限りなく豊かな恵み

エフェソの信徒への手紙2章1~10節

澤田直子師

 パウロは、わたしたちを闇から光へ移される者として呼びかけます。「過ちと罪のために死んでいた」この死は肉体の死ではなく、霊的な死、神との断絶を指します。罪とは行動の良し悪しや、誰しも心の中には悪い考えがあるというようなことよりもむしろ、自己の偶像化、自分は正しい、自分の考えが実現することが正しいと思い込むことです。神様は「愛する神」「裁く神」です。わたしたちは、神の目から見て裁かれる者であることは当然ですが、しかし神はそれ以上に、私たちを豊かに憐れんでくださいます。豊かとは必要以上にあるということです。私たちが受けてしかるべき憐れみの上限をはるかに超えて神は私たちを憐れんでくださっています。

 5節 「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」 信仰義認です。ギリシャ語では、すでに救いは完成して今も未来も続く、というような意味を含んでいます。極端な言い方をすれば、信じる者は救われるのではなく、既に救われたことを信じるのです。

 肉体の命には限りがありますが、クリスチャンは皆天国を信じ、そこで懐かしい人々と再会し、愛する主にお会いすることを信じます。なぜ、誰も行って帰って来たことのない場所を信じるのか?それは、イエス様が十字架で死んで復活なさったからです。神様に誠実に従うならば、たとえ死を通っても、神と断絶するようなことは決して起こらない。呼び求めても答えが得られないような惨めなことは絶対にない。これが、神様からいただく永遠の命、新しく生まれるということです。

 新しく生まれるためには死なねばなりません。それはかつて神との断絶の中にうなだれていた惨めな自分を知ることです。自分の力の限界を知り、その先は神に委ねて明け渡すことです。イエス・キリストを信じる者は、罪の自分に死に、キリストの命に生きることを日々繰り返していくのです。全知全能の神が私たちを御目に留め、限りなく豊かに憐れんでくださいます。イエス様に結ばれて新しい命を生き、豊かに実を結びましょう。
2017_07
16
(Sun)10:30

彼らは聞き従う

使徒言行録28章23~31節

澤田直子師

 使徒言行録は、天に帰られるイエス様が弟子たちに「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言い置かれたところから始まって、最後はパウロがローマで丸二年間も「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」と終わります。イエス様のお言葉は実現し始めたのです。

 ローマでパウロを訪ねて来たユダヤ人は、それまでパウロを迫害してきたユダヤ人とは少し違って、礼儀正しく、イエス・キリストについて知りたい気持ちを持っていました。ですからパウロは、もと律法学者として聖書についての知識を最大限に生かして証します。パウロが最も理解してほしかったことは、ユダヤ人の待ち望むメシアはもう来ている、十字架で死に、三日目に復活したナザレのイエスがそれである、ということでした。

 しかしそれは、ユダヤ人が持ち続けてきた理想のメシア像とは全く違います。彼らの理想とするメシアは、圧倒的な力でローマの支配を打ち破り、ユダヤ人の王国を立て上げるはずでした。彼らにとっては、もうメシアが来ているのならば、なぜ我々は未だにローマの支配下で苦しまなければならないのか、ということになるのです。

 パウロがユダヤ人に対して引用したのはイザヤ書6章9~10節です。ユダヤ人は預言の通り、耳が鈍く目は暗く、聞いても理解しない、見ても悟らない者となり果てました。パウロにとっては、ユダヤ人はパウロの証を信じなかったというだけでなく、聖書そのものを否定したことになります。ここで、パウロは、はっきりと自分の使命は異邦人への伝道であると宣言します。それは、「彼らこそ、これに聞き従う」からです。聞き従うとは、「聞く」と「従う」の二つの言葉から成り立ちます。ローマにパウロがいる、と聞いて訪ねてくる人々は、パウロの言葉に聞きいり、従いました。それは彼らの喜びであると同時に、パウロをも大いに喜ばせたでしょう。喜びは福音伝道の原動力になったに違いありません。その喜びの延長線上に、今日のわたしたちがあります。御言葉に「聞き従う」ことから始めましょう。
2017_07
09
(Sun)10:30

福音の鎖につながれて

使徒言行録28章17~22節

澤田 武師

主題聖句 「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」 28章20b節

 何度も訪問を願いながら実現できなかったローマに、パウロはついに立ちました。それは不思議な導き、備えでした。ローマへの最後の航海は、ローマ帝国の権力と威信によって実現されました。また、未決囚としては自分で家を借りて一人住み、訪問客も許されるという異例の待遇が与えられていました。この背後には裁判のために送られたユダヤ総督フェストゥスの手紙や、百人隊長ユリウスの報告を、聖霊が用いてローマの制度を変えてしまうほどに働かれたともいえます。

 パウロは早速「おもだったユダヤ人」を自宅に招き、「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖につながれているのです。」と自分の存在を証詞します。

 パウロの生涯はイエス様の奴隷として、イエス様につながった歩みでした。そして、今は誰の目にもわかる、ローマによって「鎖」につながれています。

 パウロはユダヤ人に、神が旧約聖書の預言者たちに約束された希望の内容は、ナザレの人イエスにおいて実現した。あなたたちも、イエス様を信じてつながりなさいと勧めます。

 パウロは「鎖」につながれている姿で、彼らに会いました。それは決して喜ばしい、誰もがなりたいと願う姿ではありません。

 しかし、それが聖霊の働きであれば、その姿こそが、福音を伝える者としての証です。信仰の戦いから一歩も引かないで、留まり続けた者の証です。福音の鎖につながれている者、その先にはイエス様が居られます。どこへ行く時でもイエス様は伴ってくださるという、何よりの証です。

「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」パウロは御言葉に従っています。

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」不思議な導きの中に神の計画は進みます。