2017 / 05
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マルコによる福音書3章20~30節



 神と人間を離そうとする力「悪霊、サタン、ベルゼベル」は、人間を支配し、滅びの死の世界へと引きずり込みます。人間の中に忍び込んで身体を占領して悪の住家とします。そうして人は心と情を捕えられ悪に支配されて、神に反逆して、罪のとりこにさせられました。その結果、誰もが「死」とから免れなくなってしまったのです(ロマ6:23)。この悪霊の権力から、私達自らどんなに努力しようとも解き放つ事はできませんでした。

 そこで主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と語られ、主イエスが神の霊をもって、悪霊を追い出し、病を癒し、福音宣教されました。主イエスのご生涯は、この悪霊の支配と闘い続ける歩みで、人々の救いの為に最期には十字架にお架かりになりました。

 一方、律法学者達は主イエスを「ベルゼベルに取りつかれている」と言い、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と、主イエスの業、お言葉を「悪霊」よばわりしたのです。しかし、主イエスは譬えを用いて、悪霊の力に勝る、ご自身の到来を示されました(23~27節)。十字架の業こそ、本当の意味でベルゼベルから解放するものです。それ故に「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負うことになる。」(28~29節)私達の犯すあらゆる罪は赦されると断言しております。一方、永遠に赦されない者がいます。それは、聖霊を冒涜する者=主イエスの赦しを必要とせず、十字架の犠牲の愛を受け止めなない者の事を指しています。罪の赦しと神の恵みのご支配が差し出されているのに、それを拒否する事は、罪の中に留まる事になります。

 いったい私は主イエスの愛にの下にいるか、或いはサタンに捕えられているか、どこに所属しているか、存在位置を確かめる必要があります。如何に修行し、どんなに良い事をしても主イエスの下に置かれていない者は、救われません。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(Ⅰペテロ5:8)悪が私達の隙を狙っていますが、主イエスを信じ、すがる者を赦し、新しい力と恵みを注いでくださいます。主イエスは私達を愛し、憐れんで永遠の命と祝福を与える為に十字架にお架かりになりました。この勝利を頂き、主イエスへの感謝と恵みで満たされていますから、何も恐れる事はありません。

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マルコによる福音書3章7~19節



 主イエスがこれまで行われた病の癒しの業を求め、パレスティナのほぼ全域から「おびただしい群衆」が押し寄せてきました(7~10節)。彼らは自分の願いを叶えたいと、まじない師的なご利益宗教を求めていたのです。又、汚れた霊=悪霊・神から私達を離そうとする霊も、群衆と同じように正しく主イエスの事を受け止めていませんでした(11節)。主イエスが与えてくださるのは罪の赦しと永遠の命で、それは福音の中心、恵みの中心で、癒しや奇跡を行う事が本来の目的ではありません。私達は主イエスに何を求めているでしょうか。主イエスの事を理解せず、自分の思いや願いが実現される事しか求めていないなら、これらの群衆と悪霊と同じになってしまいます。

 主イエスはそのような中で福音宣教の使命を果たされる為に、ご自身のお働きを担う為の使徒を任命されました。「そばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(15節)12使徒の名前が記されていますが、それは主イエスの御思いが現れています。ご自分が扱やすい人を選ばれたのではなく、ご自身を裏切るユダや、使徒同志で敵対関係にあった人々、又、後世に名前しか残らないような人々を敢えて選ばれました。「・・人間的に見て知恵ある者が多かったわけではなく、能力ある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」(Ⅰコリ1:26)これは教会の姿でもあります。神は才能や力、経験、境遇に拘らず私達を選ばれます。主イエスに従う事によって一つの目的の為に生きる事になり、一つの使徒となっていくのです。「あれが足りない、年が若い、働き盛りで忙しい、もう老年だ」と、様々な理由をつけて「自分なんて・・・」と、思います。しかし、人間はそもそも自分の持っているもので成し遂げる事等できないものです。

 主イエスは私達を12使徒のように、任命して派遣してくださいます。任命とは「造る・創造する」という言葉と同じで、主イエスが私達をそばにおいて訓練され、相応しく造り上げて派遣して下さいます。自分には期待できなくとも、神がどのように整えて用いてくださるか、神に信頼し期待するのです。テニソンという人は「私達の意志は私達のものだが、あなたのものとする為に与えられている」と、語っています。自分の思いを果たす為に主イエスを追いかける生き方から、この私を通して輝かしい神の恵みを伝える為に神の御用に役立てる、それだけで私の存在の意義があります。それが私達の定められた道です。

ヨハネによる福音書9章35~41節



 ヨハネ8~9章で主イエスは神の子メシアの本質のひとつ「光」を顕された。8章では「御言葉」なる「光」を以て人々に罪を悟らせ、ここ9章で主は「御業」を以て人々に「光」をお与え下さる。そしてイエスをメシアと認めないファリサイ派の言葉「我々も見えないということか(40)」は私たちへの警鐘である。

(1)肉の目を開く主【シロアムの池に行って〈あなたの目を〉洗いなさい】
 主イエスは生まれつき目の見えない人の目に唾でこねた土を塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。御言葉に従うとその人に神の業が顕れ、目が見えるようになった(1~7)。これはメシアのしるし(イザヤ29:18,35:5等)である。私たちは神の御力を100%信じているか。勝手に制限を加えて諦めてはいないか。主を信じ従う者にこそ、大いなる神の御業が顕れるのである。

(2)霊の目を開く主【シロアムの池に行って〈あなたの目を〉洗いなさい】
 シロアムとは「遣わされた者」メシアなる主イエス・キリストのこと。「唾でこねた土」とは「私たちの目を塞いでいる罪や汚れ」である。今朝、主は私たちにこう言われる。【主イエス・キリストに行ってあなたの霊の目を塞ぐ罪や汚れを洗いなさい】さあ主の御許に近づき、罪・汚れに曇った霊の目を洗い清めて頂き、ハッキリと主の御顔を仰ごう。

(3)【すでに主イエスは私たちに会いに来て下さった。今、あなたと話しているのが、主イエスだ。】
 目の見えるようになった彼は主イエスの御顔を知らなかったが、その御業を知っていた。彼はイエスについて思い巡らし、何回も繰り返す証言は選りすぐりの言葉 (9,11,12,15,17,25,27,30-33) となり、信仰は研ぎ澄まされ、彼の霊の目はすでにイエスを見つめ、知り、捕らえていたのである。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。アーメンである。

 私たちは肉体を持つ主イエスを拝することは出来ないが、霊なるキリストの御業によって主を見つめ、知り、捕らえ、霊の目を開いて頂き、霊の目の曇りを取り除いて頂くことが出来る。また、キリスト者同士の内に、また教会におられるキリストの霊を、霊の目で見つめ、捕らえ、拝する事ができるのである。肉の目と霊の目を開いて下さる主に感謝しよう。

主に在りて

マルコによる福音書3章1~6節



 本日の箇所は、主イエスが安息日に手の萎えた人を癒された事が記されています。ファリサイ派の人々は神の御心を悟ろうとしない所か、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことは、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(4節)と、主イエスの問いにも答えようともしませんでした。いや、律法に束縛されている自分達の姿が浮き彫りにされ、答える事ができなかったのです。そのような彼らの心の行き先は「どのようしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」(6節)と、敵意から狂気へとエスカレートしていきました。

 彼らは自分達の正しさを主張しながら、自分達を受け入れない人を次第に憎むようになり敵意を抱き、ついには抹消しようという思いに至ったのです。彼らのみならず、私達にも同じような心が宿っているのではないでしょうか。相容れない人を批難し、憎むような暗黒の罪が宿っているのです。しかし、主イエスがその身をもって私達に示されたのは、人間の醜さとは全く異なる神の愛です。人間の悪意をも全てご存知で、敢えてその只中に踏み込んでこられました。そのように主イエスの命を亡きものにしようとする者の為に、十字架にお架かりなって罪の赦しを与え、救いをもたらす為です。

 頑ななファリサイ人に対して、主イエスは敢えて安息日に手の萎えた人を会堂の真中に立たせて「手を伸ばしなさい・・・元とおりになった」(5節)と、癒されました。この行為によって訴えられる事を重々ご存知で、十字架の一歩を踏み出されたのです。自分達は正しいと自己主張し、律法を握りしめながら礼拝をお献げしているファリサイ派の人々と、握りしめるものすらなく弱さを抱えながら、ひたすら神の御前に憐れみと恵みを求める手の萎えた人とどちらが、本当の神の安息に与る事ができるかは、一目瞭然です。

 主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも休ませてあげよう。・・・わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:28~29)神に招かれ「手を伸ばしなさい」と、主イエスの憐れみの言葉に従った時に、真の安息を得られます。罪人の私達は見かけ上健康であっても、罪との闘いの中で疲れ果て心は萎えています。そのような者の為に神は真の安息を与えたいと願い、主イエスをこの世にお遣わしになりました。神の御前で握りしめているものを手放し、神に手を伸ばした時に真の安息に触れさせて頂ける私達です。その先には死を越えた天の御国での永遠の安息が待っています。それが神の愛です。

マルコによる福音書2章23~28節



 「安息日を心に留め、これを聖別せよ。・・・7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない・・・主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(出エジプト20:8~11) 安息日は神によって創造された全てのものが神の祝福を受ける時です。又、イスラエル民族が奴隷状態にあったエジプトから救い出してくださった神の恵みを思い起こし、感謝して主を褒め称える日です。更に現代のキリスト教においては、主イエスが復活された日曜日を記念して神聖な日・安息日として定められ、私達は日曜日に礼拝をお献げしています。

 当時のユダヤ人は安息日を厳格に守っていましたが、次第に本来の意味が忘れられ、禁止条項を守る事が第一となっていきました。ファリサイ派の人々においては、世の世俗を嫌い律法を守る事で自分達は聖なる者という差別意識を持ち、主イエスの弟子達が安息日に麦の穂を摘んだ事を律法違反だと批難し、自分達の正しさを主張していたのです。(24節)そこで主イエスは旧約聖書に登場するダビデが、サウル王に追われ空腹のあまり律法違反し、食してはならない聖なるパンを食べた時の話をされました。神はダビデを罰する所か、憐んでくださり支えてくださったのです。そのパンは「神が見ておられるパン」という意味で、人が形式的に律法を守るより、神の眼差しがどこに向けられているかを知る事の方が遥かに重要である事を教えられました。(サムエル記上21章)

 「安息日は、人のために定められた。人が安息のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(27~28節)安息日は人が人として生きる為に神によって定められたものです。守らなければならない義務ではなく、神の元で安らぐことが許されている祝福の日・恵みの日です。自分の意志でお献げしているのではなく、一方的な神の愛と憐れみの故です。

 人は様々な事に縛られ、嘘を言い、見栄を張り、欲をかいて争い、人を愛したかと思えば憎み、ドロドロとした罪の中で安息なき日を過ごしています。このような様々な罪に苦しむ私達を解放してくださる為に、主イエスは礼拝に招いてくださっております。神の御前に立たせて頂いて真の安息に与り、慰められ癒されるのです。ファリサイ派の人々のように神の御前に立とうともせず、律法を守っていても本末転倒です。安息日に神の御前に出る事からの全ての祝福は始まります。神の祝福の眼差しで見つめられている私達です。

小松川教会HP委員会

Author:小松川教会HP委員会

小松川教会は、「聖書は神の言葉、全人類にとっての救いの言葉」と信じる健全な聖書信仰に立つプロテスタント教会であり、全国に約1700余教会ある日本基督教団に属しています。
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澤田武主任牧師

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