3月29日 礼拝説教概要 佐々木副牧師
2009/04/13(Mon)
「この世からあの世へ」  ルカによる福音書7:11~18

 主はこの母親を見て、憐れに思い「もう泣かなくともよい」と言われた。
目の前の愛する者を失った時、絶望と喪失感に襲われ、闇の中に葬られるような思いになり、自分の人生も終わってしまったように思いがちです。
 しかし「もう泣かなくともよい」「死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」(14~15節)とあります。悲しみの中に生きている者に声をかけられ、尚も生きるように支えてくださり、死んでしまった者に手を触れてくださって再び起き上がらせてくださる、主イエスが私達の傍らにおります。私達はこの奇跡を疑ってはなりません。死者の甦りを見る事ができる目を私達は既に神様から与えられております。闇のようなどん底の中に、命に至る道が貫いている事を示してくださる為です。

 私達の人生の数えきれない喜びや悲しみの刻まれた大切な命が、どこかに消えてしまう事がない為に、そのかけがえのない大いなるものとして、私達の命があり続ける為に、主イエスご自身の全存在をかけて十字架上に死んでくださり、そして復活されたという事実を聖書は示しております。その為に私達は死んでもこの息子のように甦る事ができ、永遠の命が保障されています。私達の信じる思いと主イエスの愛によってその奇跡は現れます。
 永遠の命は死んでから後にあの世で与えられるものではなく、キリストを信じた途端にこの地上で既に与えられています。永遠の命とは限りなくいつまでも生きながらえる長寿ではなく、キリストと結ばれてその命に生かされる本来あるべき人間の姿であり、完全な命とも言えます。
 キリストと結ばれている私達は、現在既にあの世への途上を歩んでいる最中です。今、その永遠の命に生かされているという実感はおぼろげにしか分かりませんが、やがて天国に移された時にはっきりとその目で確かる事でしょう。そこにはもはや死も悲しみも嘆きも労苦もなく(黙示録21:4)既に召された家族・知人と再会する喜びがありますから、その恵みをこの世において先取りしつつ、あの世で完成する時の恵みを見据えてこの今の時を尚、希望を持って歩んで参りましょう。
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3月22日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
2009/03/28(Sat)
「清算の時」 マタイによる福音書25章14~30節

 ⑴神は誰にでもタラントン、すなわち賜物を与えておられます。しかし賜物には違いがあることも明らかです。「タラントン」は、「能力」、「才能」を表しますが、それらが全てではありません。
 私達は親兄弟、生まれてくる時代も、国も選べることは出来ません。健康な人もいれば、病弱な人、障害を持って生まれて来る人もおられます。皆条件は違います。人生の条件を誰も決めることは出来ません。しかし誰にでも素晴らしいタラントンが与えられているのは事実です。
 大切なことはそれを発見し、用いることです。タラントンを発見するということは、人生の目的あるいは使命をそれを通して見出すことにつながります。なぜならば、神は目的をもって、一人びとりにタラントンを与えておられるからに他なりません。
 その目的をもってタラントンを与えてくださった神の御心に応えて行く時、人生は実り豊かなものになります。
 ⑵私達が人生の清算をする時、神がご覧になられる基準は、忠実であるということです。五タラントン増やした人も、二タラントン増やした人も「忠実な僕だ。よくお前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(21)と、同じ褒め言葉を頂いております。
 問題は一タラントン与えられた僕の態度です。彼はタラントンを用いずに穴の中に隠してしまいました。彼の心の中に何かふてくされたような信条を見ることができます。
 私達は「神の作品」(エフェソ2:10)であって、大量生産されるような「製品」とは違います。「神の作品」であるということは、私達一人びとりは、神にとって独自のものとして創造されたことを意味し、そこから私達の内にある無限の可能性を見出します。
 一タラントンの価値は、二十年分の給料ほどあります。大変な金額です。一タラントン与えられた僕の問題は、素晴らしいタラントンが与えられていたにも拘わらず、その価値を知らなかった点にあります。その愚かしさはこの後、自らのメシアを十字架につけて殺してしまった人々の中にも見出します。

私達はどうしたら抱きがちな不平不満から解放され、積極的な前向きの実りある人生を全うする事が出来るでしょうか。それは神がその独り子の命さえも私達の救いのために与えてくださり、復活された恵みを覚える時、私達は与えられているタラントンを神の栄光のために用いる者と変えられていくのです。
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3月15日 礼拝説教概要 佐々木副牧師
2009/03/22(Sun)
「踏み出す歩みとは」 ローマ信徒への手紙13章8~10節

日常生活で逃げたり曖昧にしている事柄を、神は露わにされます。そしてボロボロの姿で神と人の前に立たせられ、自分の恥ずべき事が明らかにされます。「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」(詩119:71)砕かれ撃たれて初めて目覚めさせられ、厳しいと思われた掟が、どん底で人間を支える力となります。「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。」(8節)私はこの掟から逃げていましたが、愚かな者を用いて愛し合う事の恵みを証しせよ、と信仰の決断を迫ってこられました。

 ここでの「借り」とは金銭でいう借り、負債を表しており、私達の罪の救いの為にイエス・キリストを十字架に迄架けてくださった、神の愛に対しての借金という意味です。神へのその借金を、全ての人を愛する事によって返しなさい、という命令ですが、愛の行いには際限がないので返しきれない借金で、一生涯負っていかなくてはなりません。ですので愛の借金を負わない方が恥ずかしい事になる訳です。

 しかし、全ての人を愛する事は困難を覚えます。ヨシュア記20章に、故意ではなく誤って殺人を犯した人が逃げ込む「逃れの町」について記されています。たとい殺す意図がなくとも、殺された側の感情は抑えきれないのが現実です。故に報復の連鎖が互いを傷付けないように、逃れの町が備えられました。自分が被害者的な存在になっている限り、愛は生まれません。人が自分に何をしたかではなく、十字架の神が私に何をしてくださったか、から始めるなら、全ての人を愛する事が可能となっていく筈です。「敵を愛し・・・あなたがたの父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい。」(マタイ5:43~48)自分の力では不可能ですが、完全な神の前に立ち続けるなら、この罪人も変えられていきます。

 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」(9節)
という律法を守り間違いを犯さない、消極的な生き方ではなく「愛し合う」という、積極的な一歩踏み出した生き方が救われた者としての歩みではないでしょうか。踏み出して失敗し、裏切られ傷つくかもしれませんが、そのような悪戦苦闘する歩みが価値ある人生だ、という事をつくづく思わされています。キリストの痛みを自分の痛みとして「互いに愛する」という、踏み出す歩みを共にさせて頂きましょう。
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3月8日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
2009/03/13(Fri)
「待ち望む心」 マタイによる福音書 25章1~13節

 ⑴「教会成長はクリスチャンが妨げている」の著者、車順潤女史に言わせると、福音は人間の力で伝えられるものではなく、聖霊によらずして出来ないことですが、聖霊が臨在されている人は、「聖別意識」を持っているとの特徴があると言うのです。
 み言に忠実に従う人ならば、人は万物の中で聖別された者、神の御霊に生かされている尊い存在であることは知っていますが、み言に従おうとしない自己本位な人の特徴は、聖別意識がなく、そのような人は確信も喜びもなく、それ故に信仰生活には葛藤が多く、情緒不安定であり、現実に起こる問題にいつも振り回されてしまう、このような人によって教会の権威は地に落とされ、聖霊によって清められ、高められなければならない教会を物質と人間の学識の下に置いてしまう、聖別なき信仰者は自分の罪に悩むことはあっても、聖霊を汚す罪、すなわち、この世でもあの世でも赦されることのできない罪を恐れない、聖別された者の身分を意識して生きる者の中だけで働かれる聖霊によって教会は正しく成長する、と言うのです。

 しかし、サタンは世の光である神の子を恐れ、どんな暗黒でも小さな光にかなうことが出来ないように、クリスチャンは聖別意識に生きる光の子となってこそ世に勝ち、従って教会の権威は世に輝くのです、と結んでおられました。私たちは聖霊に満たされ、はっきりとした聖別意識を持っているか否かが問われているのです。

 ⑵愚かなおとめたちだけでなく、賢いおとめたちすらも眠り込んでしまいました。実は私たち皆がそのような弱さを持っていることを前提にして、主イエスはこのたとえを語っておられるのです。
 愚かであるか、賢いかの違いは、予備の油を備えていたかどうかという点にありました。この油を賢いおとめたちは、愚かなおとめたちに分けてあげたくとも、分けてあげる事の出来ないものでした。
 「罪の赦しの恵み」は、本人が主イエスを信じ受け入れなければ、他の人から分けてもらうことは出来ないものです。「聖霊」もしかりです。当人が自らを主イエスに明け渡すことなくして、聖霊に満たされることは出来ません。
 信仰は理屈ではなく、体験出来ることです。御霊のことは御霊によってしか知ることは出来ません。主イエスの恵みによって罪赦されているとの信仰に立つならば、再臨の主の前に平安なる思いをもって立つことが出来ます。キリストの御霊である聖霊に満たされているならば、思い煩うことなく常に平安です。

私たちの今の状態は、果たして再臨の主イエスの前に平安なる思いをもって立ち得るでしょうか。
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3月1日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
2009/03/07(Sat)
「目覚めよ」 マタイによる福音書 24章36~44節

 ⑴主イエスはいつ再臨されるのかは、父なる神以外の誰も知りません。故に信仰生活は待ち望む日々の生活であると言えます。主イエスが与えてくださる平安をもってその時を迎えることのできる人は幸いです。
 私たちは魂に平安を得るために試行錯誤しますが、この世において幸せを保証するように見えるものをどんなに獲得したとしても、死後の魂に平安を与える保証になるものは、何一つありません。
 真の平安は主イエスと出会わなければ決して得ることはできないのです。

 ⑵主イエスは「だから、目を覚ましていなさい」と命じられます。私たちにとっての信仰の一歩は何だったでしょうか。それは罪深き自分を見出すことであったはずです。
 F・キンローは、ある印象深い説教者のことを霊想録に書いております。その説教者は講壇に女性を呼んで、彼の持っている水の入ったコップを思いっきり揺さぶるように指示しました。その結果、水は零れ落ちました。そこで彼は彼女に「どうしてこのようになったのでしょうか」と尋ねると、彼女は「私が腕を揺すったからです」と答えると、彼はこう語りました。「違います。水がこぼれた本当の理由は、コップの中に水が入っていたからです」と語り、こう続けました。
 「職場にイライラさせる人がいたとしましょう。しかし問題はイライラさせる人にあるのではなく、ただあなたの心の内に存在しているイライラの要素をかき立てているに過ぎないのです。
 罪はあなたの内側から始まります。誰かがあなたよりほんの少し早く昇進しただけで、自分の内に嫉妬心が燃え上がるのに気付きます。嫉妬心は最初からあなたの内側にあるのです。先に昇進した人は既に宿っている嫉妬心を表面に浮かび上がらせただけなのです。あなたの内に存在しないものを引き出すことは誰も出来ません」というメッセージを聞いたキンローは、このように結んでおりました。
 「全ての人の心は聖霊によるきよめの業を必要としています。私たちをイライラさせたり、怒らせたり、嫉妬心をかき立てたりする人がいることを神に感謝すべきかもしれません。そういう人は私たちの内に潜んでいるものを教えるために神が備えられた道具なのです。イライラさせるその人が、私たちの心の実態を映し出し、心に染み付いた汚れをさらけ出す時こそ、その心を全く洗いきよめて純白にしていただく絶好の機会なのです」と。

 常に信仰の目を覚まし、神のみ言に耳を傾け、そして主イエスの再臨がいつ来ても慌てることのないように、神を信じる心を守り続けたいものです。
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