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9月20日 礼拝説教概要
2009/09/30(Wed)
「あなたが歩んだ道」 創世記13章1~18節  

 アブラムはエジプト滞在を終えて甥のロトらと共に新しい出発を始めましたが互いに多くの財産を持ち、支え合っていた仲間が争うようになって、一緒に住む事が不可能になりました。

 彼は争いを避けロトにまず好きな土地を選ばせた所、目の前にある見渡す限りよく潤っている土地を一つ残らず選び取りました(8~13節)。これまで面倒見たロトのこの行動には当惑した事でしょうが彼は沈黙の中で、残された土地も神から与えられた恵みの物として受け取りました。
 このような状況に遭遇した場合一般的に「なんとひどい、納得いかない」と、抗議したくなりますが、自分の思いやこの世的な判断は大きな誘惑となり、そのような時は神の力は働きません。

 神は「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい・・・」(14~17節)と、目の前に広がっている残りの土地を見せました。
 目の前にある悔しい状況や人の罪を見るのではなく、その場で目を上げて神を見よ、と仰せられます。神は水の中に道を開き、火の中を導き救い出されるお方で、その究極がイエス・キリストの救いです。

 人間的に見るならアブラムは残り物を押しつけられて、貧乏くじを引いたように思いますが、どんな道でも不利な道はありません。「あなたの道はいつも正しい道です。あなたは私を愛してくださっています。そして私に最善をなしてくださいます。」と、感謝の祈りを献げて歩み出すなら、何故自分はこんな道を歩まなくてはならないのだろう、と思い煩いはなくなります。

神は欺く事なく約束を果たすお方ですから、歩いた道が全て祝福の道である事を確信させてくださいます。
 「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ・・主は人の一歩一歩を定め御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」(詩編37:5,23~24)
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9月13日 礼拝説教概要
2009/09/25(Fri)
「信仰を持って生きているとはどういうことか」 
  Ⅱコリント13:5~13 ヨハネ15:1~12

 コリント教会の人々はパウロ、アポロ、ケファ達にそれぞれがつくといった分派問題が起きていました(Ⅰコリ1:10~)。しかし、信仰の原点に戻り、人に従うのではなく教会の大牧者イエス・キリストに遣えて一致して救いの福音を語ってほしい、というパウロの思いが記されています。

 信仰があるかどうか、各自が反省し吟味する必要があります。それは他人が決めるものではなく、自分一人が神の前に立って深い祈りの中、御言葉の光によって自分がどのように神の前に映し出されているかを吟味し反省すべきです。

 人がどうこうではなく、主イエスが自分をどう見ておられるかを祈るのです。キリストが我が内におられ御言葉に突き動かされて、新しい命に生きているなら信仰を持って生きているという事になります。
 キリスト=教会に繋がっているなら愛の業に励む事ができ、深い喜びと祝福を頂けますがキリスト=教会と離れては愛の業は何一つできません(ヨハネ15章)。

 「愛」と「溺愛」とは違います。溺愛は人間を駄目にしてしまい、教会は兎角世俗的な群れに成り易く、一緒に生きる・尽くすという、感覚的な人間的レベルの愛はもろいものです。
 聖書における神の愛は赦しだけではなく、罪を審く厳しい十字架の犠牲の愛・主イエスの祈りによって裏打ちされた愛です。
 
 十字架の愛は時には打たれ鍛えられる時もありますが、罪を審く厳しい神の愛に生きていない限り強くなる事はできません。十字架に示された愛が「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(Ⅱコリ13:13)と祝福の宣言がされています。

 この宣言によって私達はしっかり立つべきです。どこの教会も罪人の集まりで問題が起きる事は当たり前です。その時こそ信仰を持っているかどうか吟味し、初心に戻りキリストの御言葉に生かされていくべきであります。
 
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9月6日 礼拝説教概要
2009/09/17(Thu)
「アブラハムの失敗」 創世記12章10~20節

 アブラム(アブラハム)は神のお言葉に従い信仰の旅をしていましたがその地方にひどい飢饉が起こり、一族はエジプトに避難せざるを得なくなりました。その事によって彼は思わぬ失敗を犯す事になりました。
 エジプトに滞在するに当たり、彼はエジプト人に対しての偏見から多くの不安を抱き、考え悩み抜いた結果(12節)、妻のサライを妹と偽る事が最善と結論を出しました。「・・・わたしの妹だと言ってください。そうすれば私はあなたのゆえに幸いなり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」(13節)。嘘によってサライがこれからどのような目に遭遇するかは考えず、自分の幸せと命の保証が最優先でした。
 
 人を裏切っても自分が幸せになり助かりたい、という自己中心性は私達も当てはまります。その結果サライはエジプト王に召し入れられ、アブラムは彼女のゆえに多くの幸いを得た、とありますが惨憺たる結果でした。しかし、神はサライをアブラムの元に戻す為に王と宮廷の人々が恐ろしい病にかかる、という思いもよらない介入によりサライを救い出しました。

 彼の失敗の原因は、今迄はその都度祭壇を築いて神の声に聞き従っていましたが、エジプトに出向く時には、今迄の信仰生活の経験、知識が優先し、神の声を聞かなかった事です。モーセという指導者は水がなくなった時、2回神の声を聞きましたが、2回とも神の指示は違いました。しかし一度目も二度目も同じと思い込み、大きな失敗を犯しました。
 同じような状況であっても、神の声は決して同じではありません。信仰には蓄えや経験はありません。その都度毎日神の声を聞く事が信仰です。

 イエス・キリストは十字架にかかる直前もいつもの場所でいつものように祈ったと記されています。信仰生活は毎日同じようにひたすら祈っていく地味な作業の積み重ねですが、この基本を繰り返す事が全ての希望・祝福の道へ繋がる最短コースです。
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8月30日 礼拝説教概要
2009/09/17(Thu)
「神が示す約束の地」 創世記12章1~8節

 アブラム(後のアブラハム)は信仰の父として称えられていますが、彼は異教徒の家庭に育っており、偶像と迷信の中で成長したと推察されますから(ヨシュア24:2~3)私達と変わらない人であったと言えます。 そのような彼は行き先も分からない神が示す地に行きなさい(1節)と言う神の声に聞き従って、今迄の知識・経験・財産を捨てて保障されない無の中に神を求めていく旅を歩み始めました。

 大きな重荷であったと思いますが、神に重荷を多く託す者に神は多く支えてくださり、小さく託す者は小さな支えしか経験できません。重荷を委ねながら神の豊かさに与かり自分も豊かにされ、信仰者としての醍醐味を味わって行けます。
 そうして歩んだ地が彼によって祝福の基となるという約束を頂きました。12:1~3には「祝福」という言葉が5回出てきますが、2:3~11章迄「呪い」という言葉が5回出てきます。人間の罪ゆえにもたらした呪いがアブラムを通して祝福されていくという事です。
 彼のように神の言葉によって軸がしっかりしている人が一人でもいるなら、自ずと廻りに影響力を与え、廻りが支えられて祝福されて行きます。私達もそのように祝福の基として社会の中に置かれています。

 神が示された地は先住民がおり、やがて決別するようになる甥のロトも一緒でしたから幸せ一杯の地ではありませんでした。神はこのように私達をも問題がある地に遣わしますが、そこに共にいてくださる神を証しする為に遣わされます。

 困難な中にある時にこそ神の声を聞いて神を証していくのが信仰者の歩みです。彼は度々移動して行きますが、その都度祭壇を築いて主の御名を呼びました(8節)。行く先々で途方に暮れて問題を担い切れないから「神様、助けてください」と求めました。
 私達の歩みも不確かな歩みですが神の助けを求めた時、祝福の道が開けている事を必ず示してくださいます。その支えに感謝するものでありたいです。
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8月23日 礼拝説教概要
2009/09/05(Sat)
「孤独は祝福の始まり」 創世記11章1~9節  

 ノアの洪水物語の後、人類が増え共通の言葉を持ち始め、レンガやアスファルトを用いるようになり人類の発展を迎えた時(1~3節)、「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(4節)と考えました。「有名になろう」とは、神の専権事項で「神のようになる」(創世記3:5)という蛇の誘惑の言葉と繋がります。神の位置に立とうとする事は、人間の能力が神に並ぶ地位を得る事で、神の助けを求めないという事です。神を排除しこの世界を支配しようとする傲慢さの現れです。アダムとエバの罪・カインの罪・ノアの洪水物語の罪を今迄見てきましたが、バベルの塔の罪は人間の神への反抗が決定的になったと言われています。人間の高ぶりを放置しておいたら人間はとんでもない所に行くという事から神が介入し、言葉の混乱を起こし予防してくださいました(6~9節)。このように人の言葉の混乱は神の救いの意志が働いています。

 言葉の混乱は単に言葉が通じない事ではなく、意思疎通が量れないという意味です。一番理解し合っている家族ですら遠い存在に思え孤独に陥り、意思疎通の限界を感じるものです。人間は所詮一人、と思いますが一人にされた所で神と出逢う事ができます。神は人の悩み・苦しみを全てご存知で、神を頼って神の門を叩く事を求めておられます。神の助けを求めず自分や人の力に頼って満足しようとする事はバベルの塔を築く事と同じ行為です。人は神を求めて神から助けて頂きながら生きる存在である事を知る為に私達はバラバラに散らされています。

「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。」(マタイ7:7~11)。人の行く手にふさぐ門が沢山ありますが、門を叩く度に神が恵みの中へ迎え入れてくださり、慰められて生きて行く事ができる私達です。多くの人が孤独の中の闘いにありますが、その孤独の中から生き始める事が祝福の始まりです。全知全能の神に感謝です。
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