5月23日 礼拝説教概要
2010/05/29(Sat)
ペンテコステ礼拝
「炎がともされ続ける」 テサロニケの手紙Ⅰ 5章12~24節


 「すべての人にわが霊を注ぐ。」(ヨエル3:1)という旧約の預言が五旬祭の時に成就しました。人の体は単なる肉体ではなく「・・・神から頂いた聖霊が宿っている神殿であり、あなたがたはもはや自分のものではないのです。」(Ⅰコリ6:19~20)とありますように、目には見えませんが私達の内側に聖霊なる神が宿っておられる尊い体です。その聖霊なる神は私達の全生涯に関わってコントロールし、導き関係を持っていてくださっていますからその関係を正しく保っていく為に「霊の火を消してはいけません。」(19節)と記されています。火を燃やし続ける為に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんな事にも感謝しなさい。」(16~18節)という求めに答えていかなくてはなりません。こんな罪人であるにも関わらず、私の内に聖霊なる神が宿っておられるという事は大いなる喜びと感謝な事です。故に感情や廻りの状況によって左右される事なくいつも喜び、祈り感謝できるのです。


 聖霊の別名は「弁護者・助け主・慰め主」ともいいます。指導者モーセは担いきれない重荷を背負っていましたが、神は共にいてくださり、慰め助けられてイスラエルの民を希望の地カナンへと導きました。慰めという語は「そばにいて力を与える」という意味です。モーセは更にその地がどんなに素晴らしい所であっても神がご一緒でなければ何の意味もない、とまで言い切りました(出エジプト33章)。人は神が共にいてくださるか否かよりも幸せさえ手にすれば良いと考えますが、モーセはいかなる時にも自らの力ではなく神が共におられる事を第一としてその任を全うしました。正に聖霊なる神が内側に宿ってくださる事が全ての大前提なのです。「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェソ4:30)と、神は私達を愛しておられる故にせっかく頂いた聖霊の炎を消すような事は悲しまれます。私達の内側におられる聖霊なる神、この方こそ私達の喜びと祈り、感謝の源です。
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5月16日 礼拝説教概要 
2010/05/23(Sun)
「沢山もっているから貧しい」 創世記35章1~15節


 ヤコブ物語のテーマは「祝福」です。いかに祝福を受けるかが大きな問題でした。ヤコブのこれまでの長い人生を見てきますと祝福とは努力して勝ち取るものではなく、罪人の自分・裸の自分になって神の前に立ち続けるという事を教えられます。


 「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄のエサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい。」(1節)と、神はヤコブに転機となった重要な場所、ベテル(神の家)にもう一度帰るように言われました。ベテルとはヤコブが孤独と失意の場所であり、何も持っていなかった場所です(28:10~22)。もう忘れかけていた、神に自分が聞く場所に繰り返し戻り、そこで今一度罪人の自分に立ち帰る事を求めておられます。


 犯した罪の為に孤独の中無一文で出発したヤコブでしたが、時が経ち家族や仲間を得て財産も増えある意味で成功者となりました(2~4節)。そのような自分に慣れて満足した時、人は自分を守ろうとします。守るものを持った時、何かを握りしめている時、自分を生かす根源的な神の存在が見えなくなるものです。故に神は身を守るべきものを何一つ持たず、不安に怯えていた裸のヤコブに帰る事を求められたのです。自分でかき集めたもので豊かになっていく分だけ神から離れて貧しくなるのが人間です。成功した自分を認めて貰うのではなく、こんな罪人でも神の御前に出る事を赦されている恵みに、繰り返し感謝する事によって神の祝福の中に入れられ人は豊かになっていきます。


 「・・・心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入る事はできない」(マタイ18:3)十字架の恵みに砕かれて自分の罪を知りプライドを捨てて、もはや何も自分の手に握りしめていない者が天国に入る事ができるように、余分なものを捨てた分だけ祝福は確かなものとなっていきます。
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5月9日 礼拝説教概要
2010/05/17(Mon)
「サムエルの誕生」 サムエル記上1章9~20節


今日の「母の日礼拝」を感謝します。母親とは実に有り難い存在です。私の母は78歳、私はもう54歳ですが未だに私は子供扱いです。しかし感謝です。


今朝の聖書、サムエル記上1章には預言者サムエルは母ハンナが主に願って得た子であると記されています。私たちは様々な問題を抱えた時、神に向かってどのように祈りますか。サムエルの母ハンナは悩み嘆き、男の子を授かるようにと神に祈りました。13節に「ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。」と記されています。「祈り」とは人に聞かせるためではなく、神に聞いて頂くために心の声で祈ります。ですからハンナは心のうちで祈りました。それを見ていた祭司エリが“ハンナは酒に酔っている”と勘違いするほど長く祈りました(16)。しかしハンナは穏やかでした。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。・・・ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。・・・今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです(15~16)」。


切なる祈りとは「ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出す」ことです。「深い悩みを持つ」ハンナは、神に「訴えたいこと、苦しいこと」が沢山あり、それらの「心からの願い」を「主の御前に」途切れることなく「注ぎ出」しました。主なる神はハンナの祈りに応えて、確信をお与えになりました。「彼女の表情はもはや前のようではなかった(18)」。すると主は彼女を御心に留め、サムエルをお授けになりました。


私たちもハンナのように、「ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました」と言える者、祈りが叶えられると確信する者へと変えていただきましょう。主から委ねられた「私たちの子供」…白百合保育園の子供達のためにも祈ってまいりましょう。
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5月2日 礼拝説教概要
2010/05/08(Sat)
「400人の味方」 創世記33章1~20節


 いよいよヤコブは、兄エソウと20年振りに再会する時がやってきましたが、以前のように人をおしのけて自分を守る事しか考えられなかった彼とは違っていました。目前に400人ものエソウの軍勢が見えて脅威でしたが「・・・先頭に進み出て、兄のもとに着くまで7度地にひれ伏した」(3節)と、記されています。自我が砕かれ、神の民=イスラエルとなった彼は自ら先頭に立って一族を守り、更に兄の許しを乞う遜った者となったのです。平伏す時、神の恵みの中にありますから脅威や恐れ不安はなくなり、相手の心を開かせます。


 人生にはできたら避けたい出逢いがありますが、構えて警戒したり、知恵を用いて策略を練るなら相手も警戒し、関係が余計に複雑になり平和を見出す事は困難になります。遜って自ら一歩前に出る事です。「エソウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた」(4節)と、400人は敵ではなく歓迎でした。更に「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」(10節)と、あれほど恐れていた兄の顔でしたが、神を通して兄を見ていく者に変えられました。ヤコブは今迄の痛い経験を通して、人の強さとは自分の思いを通す事ではなく、神を通して遜くだる事を知った事は大いなる祝福です。


 しかし、人は謙遜等持ち合わせはないものです。主イエスは傲慢極まりない私達の只中に人間の姿で現れ、低くしかも「遜って、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ3:6~11)と、ここに真実な遜りがあります。私達が信仰においてこの主イエスの遜った姿に与る時、私達も新しい者として造り変えられて成長させて頂けます。「さあ、一緒に出かけよう。わたしが先導するから」(12節)と、この呼びかけを聞きながら、主イエスを神と仰ぎ共に遜って歩みつつ、神に喜ばれる教会とさせて頂きましょう。主イエスは十字架に架けられる時まで弟子達を守ってくださったように、今の私達も守られています。
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4月25日 礼拝説教概要
2010/05/01(Sat)
「神様との格闘」 創世記32章14~33節


 兄をおしのけて自分を守る事しか知らなかったヤコブが神から大いなる祝福を受けて、イスラエルという神の民に大転換し、神を喜び褒め称える民族の起源となった事が記されています。


 神の民とは正しい人・成功者を指すのではなく、失敗し恥ずべき人生を歩む中で神に自我を打ち砕かれて無力となった者が、神の導きと助けを受け入れる者を指します。自我を支えるものは何もなく、又、自分を守ろうとする者、自分の心に仕えて生きている者が、自分で自分を無にする事は不可能です。唯一、神と格闘し神にむしゃぶりついて、無力にさせられて恵みを頂く事しかありません。


 ヤコブは20年の逃亡生活が経過して、家族や多くの財産を得て故郷に帰る事になりました。兄のエソウを騙した事による恐れに支配され、出来る限りの知恵を用いて兄の怒りの心を和ませようと策略を練りました(32:12~21)。こじれた人間関係・ストレスの原因は兄との関係が問題ではなくヤコブ自身のプライド、傲慢さ等の罪と関わっていました。赦されない罪は何年経っても不安と恐怖に支配されるものです。その決着を問われる時が訪れ神と格闘した結果(23節以下)、身体・行動を支える軸となるももの関節が抜けるという大きなダメージを受けました。ダメージを受けて自分が立てなくなった時に自我が砕かれます。今迄は人と格闘しながら人との関係で生きていましたが、神との関係において行き始める事によって内なるものは安らぎ養われ、平安と祝福の恵みを体験させて頂けます。人は神によって創造され命を頂いた者ですから、一人の人間として生きるのではなく、神の民として関係を持ち続けて生きて行く事を神は常に望んでおられます。神の民として連れ戻す為にイエス・キリストを私達に送ってくださいました(コロサイ2:13~15)。人間として自立して成長するのではなく、神と格闘しながら神との関係を持ち続けながら打ち砕かれて神の民とさせて頂いて成長する私達です。
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