2010_09
25
(Sat)17:09

9月19日礼拝説教概要

「魅惑の聖化」 詩編51篇9~11節
          テサロニケの信徒への手紙一5章23~24節


 神が願っておられる事は神が聖なる方であるから、私達も聖なる者となり(レビ11:44,45等)霊的に造り変えられ、成熟した信仰者となる事です。伝道者パウロはテサロニケの教会に、心が満たされずいつも不平不満を持っている人々に対して「全く清めてください」と切に祈っています(5:23~24)。又、コリント教会の人々に対して、聖化や成長を求めず、救われる以前と同じ価値観で生きているので、妬みや争いが絶えず、単に肉の人である(Ⅰコリ3:1~4)と、鋭く指摘しています。

 主イエスは弟子達が救われて洗礼を受けた後、そこに留まらず、清められて成熟を目指すように訓練されました。私達も同じようにイエス・キリストの十字架の死によって罪を赦されて神と民とされ、神の前に清い者とされていますが、罪には二重性があり、尚、生まれつきの罪は残っていますから清めを求め続ける事を望んでおられます。英語で清い(ホーリー)と健康(ヘルス)という語は同じ語源です。健康とは病気のない状態を指します。清めとは罪のない状態で、清められている時は罪を犯しません。清めは霊的部分の健全な状態を表します。現在肉体が全く健康でも病気になり易いように、魂も不健全になり易いものです。霊的健康を保つ為には、常に神と交わる事が必要です。肉体は継続的な呼吸で命が保たれるように、清めを保つ為には霊的呼吸が必要です。それは週毎に礼拝をお献げし、日毎に祈り、神の御言葉に聴き従う事です。

 清めは詩編51篇のダビデの祈りの如くに、神の前に立ち自分の罪を知らされ、神に清めを求める所から始まります。求めるならば聖なる神が触れてくださり、その恵みの中に生きて行く時、神が清めてくださり成熟した信仰者と変えられていきます。滅びるばかりの私達ですが、「霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして」(23節)、家庭、職場等全ての生活の全領域に成熟が及んでいきます。自分の力によってではなく、私達の先を歩む聖なる神が成し遂げてくださる事に期待します。
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2010_09
18
(Sat)18:05

9月12日礼拝説教概要

「真の礼拝に招かれる幸い」 詩編133編1~3節
                 ローマの信徒への手紙12章1~2節


 聖書には「神が生きて働いておられる」と繰り返し記されており、人生において今だけではなく永遠に働き続け、全てをお見通しで着実に御業をなしてくださる神が最も大切です。礼拝の場においても生きて働いておられると信じ、その神が愛と恵みの業で導いて下さり、罪赦され神の御業の為に用いられる真の礼拝は感謝な事です。真の礼拝は神の恵みに感謝し賛美して、心して御言葉に聞き、神の霊性が我が内に働くのですから、招かれている事がどんなに幸いな事かを確認できます。詩編133篇には皆が同じ方向を向いて、謙遜と慎みをもって一つ心となって祈りと礼拝を献げる光景が記されています。私達は礼拝毎に主の祈りを献げていますが「み心の天になる如く」と、本気で祈っているならその通りにしないと祝福はありません。謙遜、慎み、悔い改めをもって祈ったら真の礼拝がそこに成り立ち、聖霊の導きにより祝福されるのです。

 信仰に生きる者としての献身内容が記されています。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」(ロマ12:1)生けにえとは、羊の肉を形なくなるまで燃やし切って神に献げます(レビ記)。自分は無、ゼロになって献身する事です。人生の全てを神に献げ神の言葉、十字架と復活が全てになるのが真の礼拝の姿です。神の恵みによって生きる勇気と喜びが与えられる故に、神の愛に応えて徹頭徹尾全ての全てを献げる事ができます。個人的な思いが強すぎ感情が残り、個人的な思いが遂げられないから人の考えを操作し、批判をし、傷つけるなら真の礼拝どころか教会は分裂します。「打ち砕かれ悔いる心」が神を喜ばれる事です。礼拝でキリストの言葉に聞き従うならば、頑固な思いから心を新たにさせて頂き、批判するレベルから敵を愛し祈る者に全く変えられ神の栄光の為に用いられていきます。我が国籍は天にありますからこの世と妥協してはいけません。この世で生きていますが、神の民に相応しく信仰に生きる者として、神のみ心が適う礼拝をお献げしましょう。
2010_09
16
(Thu)19:54

9月5日礼拝説教概要

「新しく生まれ変わる」(新生) ヨハネによる福音書3章1~16節


 ニコデモという人は、良い行いに励む事が神を喜ばせる事と信じそのように行い、誰から見ても優秀なユダヤ教の代表的指導者でしたが、主イエスに教えを求めて来ました。そこで主イエスは言われました。

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3節)新しく生まれ変わらなければ見る事のできない霊の世界の存在を教えられました。「新たに」とは、上よりという意味で、天的な神の領域を指します。私達の理解・経験・知識・訓練によって勝ち取った世界ではなく、神の力によって全く新しくされて変わらなければ見る事のできない霊的な世界が神の国です。

 神の国とは地図に載っているような領土的なものではなく、神の支配の中に入れられる事を意味します。「何よりも神の国と神の義を求めなさい」と、主イエスは誰も滅びる者がいないように自らの命を犠牲にして迄(16節)、私達が求めるべき事は「神の国」だと教え続けられました。十字架に架かられたイエス・キリストを救い主と信じ、悔い改めるなら誰でも罪赦され、信仰によって新しく生まれ変わり、神の国に確実に入れられます。神が我が内の主となり、神への服従・信頼によって成立する人格的な交わりです。精神修養ではなく、神の「聖」を分け与えられ、新しい神の命が吹き込まれ、神の力によって新しく造り変えられます。

 「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ロマ14:17)とあるように、今迄の価値感は全く新たにされ、自分の為に生きるのではなく、神のご用の為に生きる喜びが開かれます。神の愛には、主イエスの愛には、それを果たす力がありますから、人は全く変えられて神の為に聖別されて、用いられるようになります。これが新生と同時にきよめの始めです。喜びを求めて遠出する必要はありません。今、イエス・キリストを信じるならばその瞬間に神の愛のご支配の中に入れられます。既に神の国はここにあるからです。
2010_09
04
(Sat)18:18

8月29日礼拝説教概要

「クリスチャン人生の全貌」 ヨハネによる福音書15章6節


 クリスチャン生涯は一言で言えば、神に選ばれた人生です。選ばれた者としてその意味、目的、特権をいつも意識しながら、感謝と熱心をもって日々の生活を歩みたいものです。

 1、クリスチャンになったのは自分が神を選んだのではなく、神を喜ばせる事ができない卑しく貧しい者にも関わらず、神が無条件で私達を愛し、只、恵みとして選んでくださいました。これ以上の光栄はありません。神が選んでくださり、私の手を握りしめてくださっているのでこんなに確かな事はありません。これが信仰の確かさです。

 2、選ばれた目的はそこから遣わされて実を結ぶ為に僕となって仕える為です。地理的な意味でどこかへ行くという事ではなく、自分という枠から出て行く、安全で安心していられる所から出て行き福音を伝えるのです。今、置かれている場所は嫌な所かもしれませんがそこが遣わされている場所で、良い所では決して実を結ぶ事はできません。そこで品性の実「愛、喜び、平安、寛容・・・」(ガラテヤ5:22~23)を結ぶ為です。救われた者は悔い改めの実を結ぶ事が大切です。教会のメンバーとなっても実を結ばないならノン・クリスチャンの躓きになります。しかし、完璧を求めている訳ではなく成長のプロセスが大切です。ありのまま悔い改めて神の御前で真実であり続け、成長する姿が尊いのです。

 3、選ばれた者の特権として祈りがありますが«日本人のクリスチャンが集まると議論をする»と言われていますから、もっと祈りをすべきです。又、愛されている者の特権として最高の実を結んでほしいと願って神は試練を与えます。試練がないのは愛されていないという事で、私生児と同じです。神は最高の子供としたくて、不純なものを取り除く為に植木を剪定するように愛の鞭、ハサミを入れます(ヨハネ15:1~2)。神から愛されている者として訓練するのです。「・・主は愛する者を鍛え子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」(ヘブル12:5~8)