2010 / 10
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「豊かな実を結ぶ」 ヨハネによる福音書15章1~8節


 主イエスは仰せられます。「あなたがたが今あるのは、全て私によってです。私なしでは、私と結ばれていなければ、あなた方は失われた存在です。私に結びついていれば、あなたがたは命を持っています

 この事をぶどうの木に譬えています。「わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かな実を結ぶ。わたしを離れては。あなたがたは何もできないからである。」(5節)主イエス御自身がぶどうの木で、私達はその枝=キリストの一部だと言われます。罪にまみれ神の御前に恥ずかしい者ですが、十字架によってキリストの一部とされて、常に関わりを保ってくださるリアルな関係で結ばれています。それは私達が霊的な実を結ぶ為です。その為にはどのような事があってもキリストの愛に留まり続けさないと、しかし「私につながっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」(1節)と、初めに宣言されております。

 神は直ちに取り除く事はなさいません。取り除くとは、つまむ・持ち上げる、という意味も含まれており、ぶとうの木の成長を逐一み守り、日々顧みて心を砕かれ、良い環境の所に枝を動かして、全ての実が結ぶように手助けしておられます。「投げ捨てられるのではないか」と、恐怖心に支配されるのではなく、取り除かれないよう、主の御前に平伏し「私の中に腐敗したものがあるなら取り除いてください。私の中に新しい霊を起こしてください。」と求める事を神は喜ばれるのではないでしょうか。主イエスは「あなたの宝のある所に心はある」と仰せられました。私の意思は何に結ばれ、何に根を降ろしているか、絶えず自問自答する事が、主イエスに留まり続ける事になります。留まる事に難しさを覚えますが「みなし子にはしない」と約束してくださっていますから、聖霊なる神が私達を結びつけてくださいます。神なしに一時も生きていけない事をいつも教えて頂けるように、日々祈って参りましょう。

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「問題解決の秘訣」 サムエル記下15章10~16節、24~29節
            詩編3編1~9節


 ダビデは偉大な王として王国を繁栄させ、その家系からイエス様が誕生されました。しかし、ダビデの人生の後半は息子のアブサロムから命を狙われ、エルサレムから退去せざるを得なくなりました(10~16節)。
 「・・わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所を見せてくださるだろう。主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように」(25~26節)と、ダビデの信仰の告白とも思われる言葉が記されています。絶体絶命の厳しい状況の中にある自分を神に委ね、その応答を待ち望みました。その時の心境を「身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。」(詩編3:6~8)救いは神から来ると断言しています。命を失うか、得るかという決定的状況の中で、私達は自分の力では対抗できません。ダビデの如くに自分の内側を見るのではなく、支えてくださる神に委ね待ち望む事が力となります。

 委ね、待ち望むという事は聖書では強調され、4つの内容が含まれています。
1、答えを任せる 自分の期待しないような解答でも神への信頼を変えない。
2、時を任せる 解決は神にお委ねした時点で済んでおり、後は待つだけという姿勢をとる。
3、やり方、方法を任せる 独りよがりに問題を解決するのではなく、神のお示し下さった方法で解決する。
4、神の恵みに期待する。信仰者を決して見捨てないお方と信じきる。

 「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてくださるからです。」(Ⅰペトロ5:7)神に向かって謙虚な生活をする人は思い煩わらないと言います。言い換えれば思い煩いは傲慢だと、強烈な意味合いです。四面楚歌の時にこそ思い煩う事なく、私達を救う為に主イエスを十字架に架けて迄、私達を愛してくださっている神を見上げ、神の言葉を信じるのです。神の救いの言葉に救われ続ける事ことそが、大いなる祝福であり大きな力です。

「忍び合い、赦し合う共同体」 コロサイの信徒への手紙3章12~17節


 人を赦すことは実に難しい。今日、もし何年も前の罪を持ち出して相手を責めるなら、その人は今日までずっと相手を赦していないことになる。

●「忍び合いなさい」とは傾聴すること
 忍ぶはヘブル語で怒るのを遅らせる、ギリシャ語では耐える、人の言うことを我慢して聞く、耳を傾ける(3:13)の意である。つまり「傾聴せよ」である。傾聴は「私の気持ちを聞いてくれた、分かってくれた」「信じて打ち明けてくれた」という思いを生み出し、相互関係は明らかに改善される。「忍び合いなさい」…傾聴には忍耐と共に、相手の人格を尊重する思い、自己犠牲の愛、アガペーがある。

●「責めるべきことがあっても」とは罪の忠告と悔い改め
 主イエスは「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。 言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。(マタ18:15)」と教えた。忠告に復讐心はなく兄弟姉妹を取り戻したい一心、アガペーの愛のみである。ダビデはナタンの忠告を受けて「わたしは主に罪を犯した」と神に罪を告白し、悔い改めて赦された(Ⅱサム12:13、詩32)。愛ある忠告には、罪の告白・悔い改めを以て応えたい。

●「赦し合いなさい」とは何度でも赦し、二度と思い出さないこと
 「神はご自身のために私たちの罪をぬぐい、私たちの罪を思い出さないことにする」(イザ43:25)、主イエスは兄弟が悔い改めれば何度でも赦せ(マタ18:22、ルカ17:3-4)と仰った。主は敵であった私たちを赦して下さった。主のアガペーの愛によって罪赦された罪人、主に在って赦された喜びを兄弟姉妹と分かち合う者でありたい。

●「愛を身に着けなさい」
 天より注がれる御愛こそ、私たちを生きるキリストの体として一つとし、すべてを完成させる絆である。主の平安がありますように。アーメン

「時は近い」 ローマの信徒への手紙13章11~14節


 「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。・・夜は更け、日は近づいた」(11~12節)パウロがまだ生きている時代、主イエスが再び来られる(再臨)、という切迫感を持っていました。再臨の近さを弁える事は今の私達にも語られていますが、現実はピンとこないものです。しかし、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。・・・一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペトロ3:3~4)私達はキリストにお逢いした時、恥ずかしい事ばかりですが、憐れみの眼差しで見続けて招いてくださっています。この世での自分の輝かしい功績の報告ではなく、貧しいままキリストを着て喜んで神の御前に出る事を望んでおられます。その為の具体的な歩みを示しています(12~14節)。

 「闇の行いを投げ捨てて」(12節)とは、夜の外套を脱ぎ捨てるという意味で中途半端ではなく、きれいさっぱりと闇の業を脱ぎ捨て、光の武具を着けよ、という事です。修業して身につけるのではなくキリストを信じ、愛し、従う事によって「キリスト」を着させて頂けます。結果、自己中心を脱ぎ捨てキリスト中心の生き方に変えられ「暗闇ではなく日中を歩む」(13節)正しい生き方に導かれて行きます。正しい生き方を直訳すると良いフアッションという意味です。キリストを着るという事は私達にとって最高の礼服です。主イエスは婚宴の際に礼服を着て来ない者に対して、暗闇に放り出される譬え話をされましたように、自我という服を纏っている者に最後は厳しい審判をされます。神は全ての人にイエス・キリストを与えてくださり、良いフアッションは既に用意されていますから重ね着ではなく、1回は裸になってキリストを着せて頂きましょう。キリスト者の生活は常に肉の古い業を脱ぎ捨て、新しくキリストを着させて頂く事の連続です。来るべき時代を見据えて感謝してキリストを着せて頂き、喜んで主イエスの前に立たせて頂きましょう。

「約束の癒し」 ルカによる福音書8章26~39節


 汚れた霊と呼ばれ人に害を与える悪霊に取りつかれて、滅びの象徴である墓場を住まいとしていた男が、主イエスの元に来て「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでくれ。」と、叫びました(28~29)。これらの言葉には3つの意味が示されています。

1、「神の子イエス」主イエスが神の子だと認識している言葉です。主イエスの故郷の人々や12弟子でさえ、神の子と簡単に認識できませんでしたが、この男は弱さを抱えている故に、一目で分かったのです。弱さは無病な健康者より、霊的に導かれやすいという事が示されています。

2、「かまわないでくれ」光の世界に住まわれる神の子イエスと、暗闇の中にいる自分とは無関係だから放っておいてくれ、というのです。悪霊に憑かれていると認識している者に対して、主イエスは傍観者とはなりません。このような人の上にこそ主イエスの愛は直に働かれます。

3、「苦しめないで」主イエスの権威への恐れと憐れみを乞う二つの思いが示されています。これらの悲痛な叫びは神を動かす力となります。この病を生身で受け止めてくださる主イエスは、男をご自分の目の前に立たせ信頼の思いを徐々に意識させ、治癒の奇跡を起こす準備の為に「名は何というか」(30節)と敢えて問いました。そして神の御言葉の権威によって癒され、悪霊は豚の一群に乗り移って男は正気になりました。

 しかし、肉体の癒しが与えられても、誰もがやがて死を迎えます。人は神から造られた者であり、病の前にまず罪人です。主イエスの十字架の犠牲によって罪という致命的疾患を癒して頂き、永遠の命を頂き、死後、天の御国で約束の完全なる癒しが与えられます。豚が犠牲となって男が癒された姿は、主イエスの犠牲を連想させます。主イエスが犠牲となってくださり、悪霊に憑かれた私達の罪の贖いを成し遂げられた神の救いの業は実に尊いものであります。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(イザヤ53:4)。

小松川教会HP委員会

Author:小松川教会HP委員会

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澤田武主任牧師

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