2010 12 ≪  01月 12345678910111213141516171819202122232425262728293031  ≫ 2011 02
死から命に至る道
2011/01/30(Sun)

エフェソの信徒への手紙2章1~10節


 罪からの救いについて記されています。神から救われる以前は神との正しい関係を結ぶ事が出来ずに神に背を向け、自分の肉の欲望に支配され罪を犯し、神の怒りを受けるべき身でした(1~3節)。このような状態は肉体は生きていても心は死んでいる状態です。「しかし」と4節から「憐れみ、恵み、慈しみ」「キリストと共に、キリストによって」という言葉が続きます。人が死と滅びの暗黒の世界の中にいるのは神の御心ではありませんから、憐れみ豊かな神の一方的な恵みにより罪から救い出され、復活の恵みに与りました。それだけではなく、神がおられる天の同じ席にまで着かせて頂けるように、既に予約までされています(4~8節)。救いの業は完結していますから、私達がしなくてはならない事は何一つありません。感謝する事だけです。救いは人間が勝ち取ったのではなく、人が誇る事のないように只、神の一方的な愛、恵みです(9節)。

 「・・わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(10節)「業」は複数形で記されており様々な善い業です。罪ある肉のままでは善い業を行う事は不可能ですが、神の愛と憐れみを受けて罪赦された者は、神によって様々な善い業を行う事ができるように造られています。救われた者として、神に感謝し神の愛に応える生き方が善い業となっていきます。主イエスは「あなたがたは地の塩である・・・世の光である」と、権威を持って宣言しております。神の憐れみを受けて遣わされた地において、神の御栄光を廻りの人々に輝かせて証しする事に繋がっていきます。「こんな自分をも赦してくださった」と、罪から買い取られ、この命を頂いた事を感謝し続け、神の偉大さをこの身で証し続ける為にこの世に存在しています。神が期待されている善い業は、救われた者としての輝きを世に照らし続ける事です。
スポンサーサイト
この記事のURL | 2010年度 | ▲ top
絶大な働きをなさる神の力
2011/01/23(Sun)

エフェソの信徒への手紙1章15~23節


 「・・・あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知る事ができるようにし、心の目を開いてくださるように・・神の招きによってどのような希望が与えられているか・・絶大な働きをなさる神の力がどれほど大きなものであるか悟らせてくださるように」(17~19節)心の目が開かれて肉の目では見えない神の恵みの世界・神の御業の世界を、主イエスを通して体験させて頂き、絶大な働きをなさる神の力を知ってほしいと、パウロの切なる祈りが記されています。

 神を知るとは「厳密で正確なしかも体験的」な事を意味しています。イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、救いに与る体験を通して希望が与えられる事を知る事が神を知るという事です。

 かつてパウロはキリスト者を迫害する者でしたが、イエス・キリストによって180度変えられて偉大な伝道者となりました。迫害している最中彼はキリストに打ち倒され目が見えなくなりましたが、その後キリストの赦しを体験し「目からうろこのようなものが落ち」目が開かれ、目の前に神の御業が展開している希望の世界が見えるようになりました(使徒9:1~20)。この体験を通してエフェソの教会の人々にも、目が開かれて神の恵みと配慮の世界をその目で見てほしいと願っています。目が開かれた世界は一度知ったから全てが分かるものではなく、知れば知るほど、絶大な働きをなさる神の世界が深く展開していく世界です。天国に帰る時まで毎回「目からうろこ」の世界を見させて頂き、味わい深い希望の人生を歩ませて頂いている事に感謝を献げる者とさせて頂きます。尚、混沌とした中にいますが主イエスとの交わりを通して、絶大な働きをなさる神の力を益々悟らせて頂けます。「教会はすべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(23節)聖霊の働きにより御言葉を悟り、主イエスを復活させた力と希望が与えられる場が教会です。週毎の礼拝において全ての恵みの招きに与っている私達です。
この記事のURL | 2010年度 | ▲ top
最初の弟子たち
2011/01/16(Sun)

ルカによる福音書5章5~11節


●『しかし、お言葉ですから』とは、信仰の言葉である(5節)
 「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」というイエスのお言葉は漁師ペトロの耳に非常識と聞こえたが、「しかし、お言葉ですから、そうしてみましょう」と従った。これこそ信仰告白である。どんな御言葉をも信じて素直に従うのが本当の信仰者である。今朝も神は大いなる祝福を用意されて、私たちが信仰の言葉を口にするのを待っておられる。

●伝道には、共に網を引く働き手が必要である(7節)
 ペトロだけでは大漁の網は引き上げられなかった。魚が逃げる以前に力を合わせて共に網を引く働き手が必要なのである。伝道は御言葉を信じて、牧師と教会員全員が一丸となって行う時のみ成功する。

●『わたしは罪深い者なのです』とは神の御前に立った人が自身の丸裸を知って発する悔い改めの言葉である(8節)
 ペトロは驚愕の大漁によって漁師の誇りを打ち砕かれ、イエスの中に神の姿を拝し、全き聖なるお方を拝したからこそ、己の罪深さを知った。今朝、聖き神は私たちに罪を気付かせて下さり、「わたしは罪深い者なのです」という悔い改めの言葉を待っておられる。

●『もはや恐れるな(これから後は安心しなさい)。今から後、あなたは人間を生け捕る(捕らえて生命を与える)漁師になる。』とは神の御子イエスが確約された招きの御言葉である(10節)
 神の御子イエスの招きの御言葉は2000年の時を越えて私たちにも及んでいる。ペトロたちが主イエスの御言葉を信じて『すべてを捨てて従った(11節)』時、全生涯を主に委ねた彼らに、確約された御言葉は成就した。

 今朝、私たちが「しかし、お言葉ですから」と主の御言葉を信じ従うなら、私たちは大いに祝福され、主イエスの弟子として、喜びと栄光に満ちた小さな第一歩が始まる。恐れずに、主を信じ、主に従おう。
この記事のURL | 2010年度 | ▲ top
褒めたたえよ 
2011/01/09(Sun)

エフェソの信徒への手紙1章1~14節


 「わたしたちはこの御子において、その血によって贖なわれ、罪を赦されました。これは神の豊かな恵みによるものです。」(7節)罪から救われたとは、自分の正しさや努力によるものではなく、全く神の恵みのみです。主イエスを代償として罪の奴隷から無償で買い取られたこの命はキリストの命に値する尊いかけがいのないもので、保証として聖霊の証印を押され、神を称える者として新しくさせて頂けます(13,14節)。

 「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。・・・御心のままに前もつて」(4~5節)と、思いつきではなく私達が生まれる遥か以前より神のご計画の内に、キリストの十字架によって救われました。旧約の預言者イザヤやエレミヤは「母の胎に形造られる以前から」と語っていますように、神の深い愛のご計画の内にありました。

 1~14節には「褒め称える」という言葉が繰り返されています。罪ばかり重ねて救われるに値しないような者にも関わらず、キリストによってあらゆる視福で満たされる人間とさせて頂いているのですから、神を喜び賛美するのは自然な事であり、神もその事を望んでおられます。救われた者としての神とのあるべき関係です。「主を賛美するために神の民は創造された」(詩編102:19)と記されている所以です。

 しかし、「同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。」(ヤコプ3:10)とあります。主イエスのご降誕の時、ヘロデ王は自分の身を守る為に怯えと猜疑心に苛まれ、神を喜ぶ事はできませんでした。神を脇に追いやる時、救い主イエス・キリストを与えてくださった神の御心と恵みを知る事はできません。神を中心として自分を脇に置いた時、初めて神の深い恵みを感謝し賛美できる者とさせて頂けます。神の恵みは尽きる事なく与え続けられ、賛美しながら歩む私達です。「驚くばかりの恵みなりき・・・」正に日々、アメージンググレイスです。
この記事のURL | 2010年度 | ▲ top
偉大な力によって
2011/01/02(Sun)

エフェソの信徒への手紙6章10~20節


 信仰者は穏やかな歩みができると思いますが、神の前に立つ者として天国に帰る迄、この世の誘惑や悪しき事との闘いの連続と言っても良いと思います。礼拝毎に「・・・悪より救い出したまえ」と主の祈りをお献げします。悪しき事から救い出して下さる神の力を信じて祈ります。又、パウロは「・・主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」(10節)と勧めています。今年の教会標語です。主イエスを復活させられた偉大な神の力と、全ての罪と悪から救ってくださる神の愛を信じ祈りつつ、共に霊的成長を目指していきたいと願っています。

 悪意を持って迫ってくるのは人のように思いますが、実は背後にある悪の諸霊の策略です。自力で闘うなら泥沼の渦に巻き込まれる故に神の武具を身に着け祈り続け、神の力を頂きなさいなさいと警告しています(12~17節)。主イエスは十字架にお架かりになる前に「この杯(十字架)をわたしから取り除いてください」と祈られましたが取り去られませんでした。しかし、壮絶な痛み苦しみの十字架を受け入れる力を与えられ、復活の勝利を得ました。その力は敵に自己を与える力、鞭打つ者に打たせる力です。その勝利の神の力を私達に与える為に主イエスは十字架に架ってくださいました。ですから私達はその神の偉大な力を既に与えられているから、信じて委ねられるのです。

 信仰生活は「握りしめたこぶしによってではなく、しがみつく手によって得る勝利」であると言います。自分の力こぶしで悪と闘うのではなく、握りしめた手を広げてその手でキリストにしがみつき「助けてください」と祈る事を主イエスは喜んで待っておられます。主イエスにおすがりした時、自らの力では得る事のできない神の力を感謝と驚きをもって悪しき闘いも委ねていけます。この世の闘いの只中に遣わされている私達ですが、繰り返し繰り返し、神の偉大な力が我が内にある事を喜びとしながら新しい1年間、共に支えられて参りましょう。
この記事のURL | 2010年度 | ▲ top
| メイン |