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洗礼を受けられたイエス・キリスト
2011/09/25(Sun)

マルコによる福音書1章1~11節


 「神の子イエス・キリストの福音の始め」(1節) 福音という語の起源は、戦争で勝利した時「我々は勝った」と、「喜ばしい訪れの知らせ」から来ているもので、主イエスに関しても同じ意味で用いられています。

 人の一生は罪の奴隷として死への敗北の道を歩むか、罪から勝利して永遠の命=天国に通じる祝福の道を歩むか、どちらかです。しかし主イエスは、全ての人間の罪を救う為に十字架にお架かりになり、その後復活された事実により、私達は既に罪からの勝利を頂いています。ですから私達にとって必要な事は罪の悲惨さから勝利を得て救われた。」という、主イエスがもたらした勝利の喜びの知らせを聞く事です。

 この福音の始まりは、主イエスは罪なき神の子であるにも関わらず、洗礼者ヨハネから罪人が受ける「罪の赦しを得させる洗礼」を受けられた事から始まります(9節)。主イエスは何処に身を寄せているかというと、罪人の一人として、罪を告白して洗礼を受けた罪人と同じ水の中におられます。これはご自身が十字架にお架かりになられた時に及んでも、罪人と共にいてくださる(15:27)御生涯を現すものでもあります。

 「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4:15)大祭司とは主イエスご自身で、最初から最後迄私達と同じ罪人の立場にご自身の身を置かれたからこそ、罪に打ちひしがれ、弱さに苦しむ者の痛みを思いやる事ができ、神に憐れみと赦しを祈られました。最後はその命を私達に与えてくださり、救いの御業を完成されました。

 「天が裂けて、霊が鳩のようにご自分にくだって来るのをご覧になった」(10節) 人間の罪によって天は閉ざされていましたが、主イエスが洗礼を受けられた事によって天の窓は開かれ「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(11節)と天からの御声を聞かれ、神の完全な救いの御業を遂行されました。私達は様々な経過を通って、救い主の元に辿り着くように思いますが、既に主イエスが洗礼を受けられた時から、救いの御業は始まっています。私達はキリストのこの勝利の知らせを聞き続ける者でありたいです。
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ますます力を頂いて
2011/09/18(Sun)

エフェソの信徒への手紙3章14~21節


 「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に・・・」(20節)キリストの愛は人間の知識や経験をはるかに超える愛だといいますが、そのような愛を知る事は常識的には難しい事です。しかし、私達の内に働く神の御力、聖霊によって可能となり心を変えさせて頂き、その時から「・・・愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(16~17節)と、内なる人が強められて愛に根差す者へと成長させて頂けます。

 神から離れている時「人に愛されたい」と自己顕示し人を押しのけながら、罪を犯していきます。しかし、キリストに愛されている事さえ知っていれば、自分が愛される価値がある事を他人に証明する必要はありません。大切な事は神に愛されている事を確信する事です。主イエスは洗礼を受けられた時「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞かれました。その御生涯は誘惑・攻撃・裏切りの苦難の連続でしたが、神の愛の確信の上に歩まれた人生でしたからこそ、最後まで愛に根ざしたお方でした。

 人は神から愛されている、という確信を得る迄は、愛する者へとは変えられません。本来神に見捨てられても仕方ない自分にも関わらず、十字架の恵みに打ち砕かれて自分の罪を知り、プライドを捨てる時、初めて神の愛が分かります。自分が正しい人間であるかのように他人を裁く資格がない者である事を知り、傲慢さが砕かれ愛する者へと成長させて頂きます。

 クリスチャンといえどもその歩みは途上です。「・・悪意、偽り、ねたみ、悪口をみな捨て去って・・混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。・・・主のもとに来なさい」(Ⅰペテロ2:1~3)「ご栄光と力ある業とによって私達は尊く素晴らしい約束を与えられています。・・この世の退廃を免れ、神の本性にあずからせて頂くようになるためです。」(Ⅱペトロ1:3~4)。神は私達が成長できずに罪の中を彷徨うのではなく、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」を知り、神の愛の豊かさに与れるように期待しておられます(18~19節)。私達の内に力を与えてくださる神に期待して、愛なる神の本性に与らせて頂きましょう。
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み言葉に生きる
2011/09/11(Sun)

使徒言行録20章17~38節


 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と、人は肉体維持の為の食物だけではなく、主イエスの語られた福音、聖書に証しされた神の御業、説教で語られる神の御言葉によって、命と共に霊性が養われます。更に御言葉は救いの恵みを完成させる力となり(32節)、信仰・希望・愛に生きる事ができるようにして頂けます。神は御言葉が生活の隅々に力が及ぶように、内側にキリストが生きる事を求めておられますから、祈りをもって熱心にお聞きしたいと思います。

 パウロ自身が厳しい状況の中で、エフェソ教会を覚え役員、教会を支える信徒達に真の教会とは何を土台にし、大切にしたら良いかを語っています。

1. 教会に連なる信徒全体の事に気を配り尽くす事。(28節)
 教会はクリスチャンの存在によって建てられたものではなく、教会の主であるキリストの犠牲の貴い血潮によって既に建てられていたものです。キリストに招かれて、罪赦され信仰告白し洗礼を受け、週毎の礼拝から礼拝をお献げしながら、天の御国へと向かう地上を旅する神の民の群れです。このようにキリストの血潮によって救われた神の民の背後に キリストを見るからこそ、この人々に奉仕=尽くす事が大切です。

2. 澄んだ知性・豊かな感性・深い霊性・強い意志をもって目を覚ましている事。(29~30節)
 「目を覚まして」とはドイツ語訳では「酔っぱらうな」と記されています。教会の歴史は神の言葉を用いて巧妙に誘惑するサタン(悪)の力を受けてきました。サタンの言葉に酔ってしまうと本当のものが見えなくなります。「霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう」(Ⅰコリント14:15)

3. 愛は受けるより与える。(35節)
 「受けるよりは与える方が幸いである」主イエスの十字架と復活、救いの出来事に象徴されているように、本当の愛は受けるより与える方が素晴らしいのです。教会に招かれた神の民として、神の御言葉に生かされ、愛を益々豊かに与え、ご栄光を主に帰するよう祈り続けて参りましょう。
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弱さを克服するキリストの力
2011/09/04(Sun)

コリントの信徒への手紙二 12章1~10節


 人は弱さ・苦しみの中で、その痛みに打ちのめされるか、信仰によってキリストの力を求めていくか、選択を迫られているように思います。

「すると主は、わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ・・・と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(9節)
「わたしの力、キリストの力」とは、弱さを克服する方です。信仰を持ったといえども人は相変わらず弱さを抱えていますが、弱さと破れを通してしか分からない、神の力が注ぎ込まれる恵みを知る事に至ります。

 パウロは神から与えられた霊的な誇るべき喜ばしい体験をしましたが、その事を通して「思い上がらないように」と、肉体に一つのとげが与えられました。とげを取り除かれるように再三祈りましたが、願いは叶いませんでした(1~8節)。しかし「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(9節)、という神のお言葉を確言し、むしろ弱さを誇る者へと変えさせて頂きました。力を振りかざしている所に力があるのではなく、神に信頼している所に力が与えられます(イザヤ30:15)

 主イエスは十字架にお架かりになる前に、神に十字架を取り除いてくださるよう願いましたが、むしろ、十字架上で鞭に打たれる力が与えられました。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです」(Ⅱコリント13:4)敗北に見える十字架でしたが、そこを起点として復活されキリストの救いが全世界へと広がりました。神の力は弱さの中から、新しいものが生まれ出されていく力です。

 困難の中を生き抜く事ができる人は頑強な人ではなく、弱さの中に働いてくださる神を信じる人です。主イエスを信じても相変わらず弱いままですが、神を信じ心を尽くして依り頼むなら、神の恵みは弱い所に完全に現れます。どのような時代を歩もうと、どのような状況であろうと今も貫くキリストの力がこの私に働いておられます。十分な恵み、完全な力を信じていく事こそ、神を知っている人の生き方です。自分で闘う力ではなく、弱さの中にいよいよキリストの力が宿るように祈り求めていく者でありたいです。
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