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満ち足りる事を知る
2012/11/23(Fri)

テモテへの手紙一 6章6~10節



 当時の教会の中には神を信じていると言いながら信仰に生きておらず、自分の富を求め、何かというと争いや口論が絶えませんでした(3~5節)。

 そこでパウロは「わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことはできないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。」(7~8節)と、教えています。人が生きていくにはお金は必要ですが、金銭欲は罪を犯すのです(9~10節)。

 人間の心はそもそも自分で満たされるものではなく、信仰こそ私達の心を満たすものです。「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」(6節)神が基準になるなら、日々の生活は感謝に溢れ神を賛美する者とさせて頂けますが、自分を基準とするなら常に不満を抱えながら虚しいものを求め続け、知らない内に罪を犯していきます。神を信じる生活があって、それによって満ちたりる知る事を知っている人こそ本当の幸いな人です。

 私達の目にするものは足りないものや、自分の思いとは違う状況ばかりです。しかし、見えている目の前のもの全てを神が与えてくださったものとして受け取るならば、足りないと思っていた中にキラリと光る神の豊かさと恵みを必ず見出す事ができます。信仰なき目は足りないものしか見えないものです。

 私達は裸で生まれてきたのですから、今あるものは全て神から与えられたものです。同じものでも満足して感謝できる人とできない人がいますが、その違いは善きことも悪しきことも、全て神から与えられた事として受け取る事ができるか否かです。神は古の昔から「あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」(申命記8:10)とも語っておられます。

 旧約聖書に登場するダビデ王は「わたしなど果たして何者なのでしょう・・・すべてはあなたからいただいたもの・・・御手から受け取って、差し出したにすぎません」(Ⅰ歴代誌29:14)神殿を建てる事を生涯の望みとしていながら、叶わなかったダビデが神殿建設の大任を担うソロモンの為に財源を準備します。それを前にして自分は何ものでもなく、整えてくださったのは神であると心から神を崇めて感謝を献げています。自分の思い描いていた人生とは違う状況であっても、人間的には不満足であったとしても、神を信じ今を受け入れる人は、満ち足りる事を知り、感謝と遜った者とさせて頂ける事は幸いです。
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起きて食べよ
2012/11/18(Sun)

列王記上19章1~8節



 福音伝道はパンを水に浮かべて流す(コヘ11:1)かのようであり、一朝一夕に成果は上がらない。エリヤのように絶望(4,10,14)された経験をお持ちのキリスト者は沢山おられることだろうが、途中で断念することなく何度でも絶望を乗り越えてその報酬を手にした者は極めて少ない。しかし、もう大丈夫。今朝、主はその答えを列王記上19章1~8節を通して私たちに示して下さった。

●触れて下さる神(5,7)…主は私たちを深く愛しておられ(イザ43:4,ヨハ3:16)、私たちが絶望の淵に死んだように倒れ動けなくなっても、主は私たちを捨て置かれることなく、必ず御使いを遣わして(或いは直接)、私たちに触れて下さるのである。主に触れていただけるとは何という幸いだろうか。主に触れて頂くならば、打ち砕かれた私たちの魂は霊に満たされ、身も心も瞬く間に癒やされ、至高の喜びに満ち溢れることになる。ハレルヤ!

●「起きて食べよ」と命じて下さる神(5,7)…慈愛の神のたった一言葉で私たちは満ち足り、心は喜び踊る。イザ55:11は主の御言葉には力があり、全ては必ず御言葉通りになるとの宣言である。主が私たちに「起きよ、食べよ。」と命じて下さる時、朽ち果てたはずの私たちは主の御言葉通り、起きて食べて飲むことが出来るのだ。ハレルヤ!

●食べ物・飲み物を与えて、力づけて下さる神(6,8)…エリヤは命を狙われ、たった半日歩いただけで絶望し「もう十分です」と嘆いた(4)が、神の食べ物に力づけられて全く変えられ、「あなたには耐え難い」(7)とまで言われた旅路を四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに到達した。神の給わる食物は単なる食物ではない。主イエスが言われたように『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(マタ4:4)のであり、エリヤが「起きて食べた」のは、絶望する魂の飢え乾きを癒やし、潤し、聖霊で満ち足らせ、全く新たな者へと生まれ変わらせる神の御言葉である。主イエス・キリストこそ神が与え給うた命のパン(ヨハ6:35,48)、主イエスから頂く水こそ命の泉の水(ヨハ4:14,黙示21:6)である。神の御言葉によって満たされ、どんな困難をも乗り越える者へ変えて頂こう。ハレルヤ!

●最後に…さぁ今朝こそ主に触れて頂き「起きて食べよ」と命じて頂こう。霊的食物なる神の言葉・命のパンを食して力を得て、伝道に邁進し、神の山ホレブと更にその先にある天の御国へ、愛する者と共に入国しよう。ハレルヤ!
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子どもたちの祝福を願う
2012/11/11(Sun)

申命記6章4~9節



 大人や親が子どもの幸せを願うのは、時代が移りゆくとも変わらない事ではないでしょうか。良い教育や多くの財産等、できるだけ沢山のものを残してあげたいと考えますが、聖書では唯一つ、神を愛する事を繰り返し教えなさいと命じています。「…あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え…歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい…」(4~9節)子どもの祝福を願うならば、先ず親が神に愛されて導かれ、養われているという経験がなければ、語り聞かせる事は不可能です。

 イスラエルの基となったヤコブは、兄のエソウを騙して長子の特権を奪った為に、エソウから逃れる為の逃亡生活を送る羽目になりました。その生涯は生きた年数を重ねた分だけ災いに振り廻され、苦しみの人生だったと嘆きました。しかし、死を直前にして「神は私を見捨てずに導いてくださった」と、賛美し感謝して信仰告白をしています(創世記48:15~17)。

 ヤコブは人生最後の仕事として子孫に残したものは、自分が体験させて頂いた神の愛と信仰でした。「今までの苦しみの中にあった私を養い、導き、助けてくださった神こそ、あなたたちの神である。神が祝福してくださるように」と子孫への祝福を祈ってその人生を終えました。そのようにして残された彼の子孫は信仰継承し、イスラエル部族が拡大していったのです。ヤコブは肉欲にかられ自己中心的で家族を裏切り、主を怒らせ背いた者でしたが、尚、神は見捨てずヤコブの神であり続けられたのです(創世記48~49章)。ヤコブは神の愛をその身に受けた事を語り、祈り大いなる信仰という遺産を残した典型といえるでしょう。

 「更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に着け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」(8節)どれ程神が私達を愛し、見捨てないお方とであると私達は知っていても忘れてしまうのです。人間は愚かな者で神の恵みを忘れるのです。故に自分に見える形で神の愛、恵みを心に刻み付けるようにと命じられています。新約の時代においては、イエス・キリストの十字架が神の愛を象徴しています。礼拝において私達は毎週神の愛に触れ、聖餐式において心に刻み付けています。子どもたちの幸せを願うと同時に私達も神の愛を忘れずに共に祝福の中を歩み続けさせて頂くのです。
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わたしの国籍は天に在り
2012/11/04(Sun)

フィリピの信徒への手紙6章17~21節



 旧約時代の預言者であるモーセは、人生の齢は70,80年で地上での人生を虚しく終ってしまうから、自分の生涯の残りの日数を正しく数える事ができますように、と祈っています(詩編90)。どのような人でも、やがて地上での歩みを終えます。聖書において死とは、人間が神に背き罪を犯した結果であると教えています(ロマ8:23)。しかし、神は私達を愛し、私達の罪の代わりにイエス・キリストを十字架につけられた後復活させられ、滅びの世界から救ってくださり、永遠の命を与えてくださいましたから、もう嘆かなくても良いのです。
    
 「しかし、わたしたちの本国はあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピ6:20)人間の希望は罪からの救いであり、この地上の命ではなく、天国での永遠の命の約束が保証されています。ですから主イエスがおいでになって私達を天国にと引き上げてくださる事を心から待ち望んでいます。

 当時フィリピの人々は、大多数がローマの市民権を持ち誇りとしていました。ローマから離れたマケドニアという偏狭な所に住んでいましたが、ローマ市民権を持った者として誇り高く相応しく歩んでいました。ですからあなたがたはローマ市民権どころか、「天の国籍」を頂いているのですからそれに相応しく生きるようにと切に願っているパウロです。「…あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)福音を信じると同時に、天の御国に名前が登録されています。

 「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい…キリストの十字架に敵対している者が多いのです」(フィリピ6:17~18)口ではキリストを信じていると告白しつつも、その生き方と生活においてキリストに従わず、自己中心的な生き方、地上の事だけを思う歩みで滅びの世界を歩んでいる人が多くいたのです。パウロは自分を誇っているのではなく、自分中心の生き方を捨てキリストを畏れ、キリストを求めていく歩みを共にしてほしいと涙ながらに訴えています。

 「わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じく栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(21節)罪ある卑しい私達ですが、主の栄光に輝く体に変えられる事を希望とし、日々罪を悔い改めつつ、天に国籍を置く者として、希望と喜びをもって天の御国を目指して、神に助けられつつ、励まされつつこの世をかけ抜く歩みをさせて頂きましょう。
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