2013_04
28
(Sun)10:30

目の中の丸太

ルカによる福音書6章39~42節



 あなたはどんな人生を歩んでおられるか。ヨハネ17:3のように、神に出会い、神を知り、神を愛し、神に依り頼み、神の愛に満たされ、祝福された人生を歩み、天の御国に入ること、これ以外に有益な人生など有り得ない。真っ暗闇の世の中を歩む私たちは大凡全員が霊的盲目者であり、正しい霊的指導者が必要だが、多くの人はこれに気付かない。39節のような霊的盲目者に導かれれば、私たちは僅かな凸凹にも躓き、一瞬のうちに永遠の滅びへ転落するのである。マタ15:14で主はファリサイ派を霊的盲目者と評された。今朝主イエスは、目の中に塵一粒入っただけで痛いはずだが目の中の丸太にも気付かず、視界を遮られた目で兄弟の目から小さなおが屑を取ろうとする愚かで滑稽な人物の譬えを通して、後に原始教会の指導者となる十二使徒や弟子たち、信徒となるおびただしい民衆、そして今朝の礼拝に集う私たちを「あなた」と呼ばれ、全員が霊的盲目者であると仰った。凡そどの教会にも自分の大きな過ちに気付かず、正当性を主張し、重箱の隅を突くように他者の小さな過ちを指摘し、批判し、バッサリと切り捨てる人がおられる。ところがロマ3:10のように私たちは全員罪人である。キリスト者でありながら大小様々な罪を繰り返し、他者の僅かな過ちに極めて敏感に反応しつつ、自分の罪には恐ろしく鈍感である。万一悔い改めることなく、聞く耳に心地よい大義名分を並べ立て、自分の罪を見逃し続ければ、罪悪感や自責の念は失われ、罪に無感覚な霊的盲目者となる。いや既にそうだと主は仰る。真に真に私たちは全員が霊的盲目者であり、正しい霊的指導者が必要なのである。全き霊的指導者とは誰か。全き霊的指導者とは主イエス・キリストである。40節の「修行を積めば」とは「神の御前に正しく整えられれば」の意であり、主によって神の御前へと導かれる時、私たちは整えられ、主と同じくらい霊的で正しい導き手へと変えて頂けるのである。

 どうぞ今朝、主イエス・キリストを全き霊的指導者と仰ぎ、主を心の内にお迎えし、主の御言葉に従うことを最大の喜びとする者へと変えて頂こう。世にある様々な快楽や欲望など全てを自我と共に投げ捨てて、主に導かれ、常に父なる神の御前に聖なる者へと整えて頂こう。私たちの霊の目が開かれる時、私たちは罪深く愛に乏しい者であることを知り、謙虚に兄弟姉妹の罪をお知らせし主の道へとお導きする小さき者へと変えて頂けるのである。ハレルヤ!主に感謝。主に祈り乞い願おう。永遠に皆様に主の平安がありますように。在主





 
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2013_04
21
(Sun)10:30

信仰のないわたしを助けてください

マルコによる福音書9章14~29節



 本日の箇所は信仰、祈りの神髄が凝縮されています。十字架へと向かう主イエスの前に、病に苦しむ子供の父親が助けを求めてきました。その子は「…口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせて」苦しんでいました(13節)。幼いときからと、記されていますからおそらく長い間に亘って、ありとあらゆる治療を施した事と思います。しかし誰も癒す事もできず、弟子達にもどうする事もできませんでした(18節)。しかし、このようなどうしようもできない現実に「信じる者には何でもできる」(23節)と挑戦してくださるお方がおられます。それが聖書が示している救い主イエス・キリストです。

 「信じる者」とは主イエス御自身の事です。「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで」父なる神を信じ従い、十字架への道を歩まれ復活された事によって、私達罪びとを救ってくださいました。神を信じ続けて従った主イエスが、唯―何でもできるお方です。そのお方の力を私達は信じるのです。

 人々がその子を主イエスの所に連れてくると、その子の父親は「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(22節)と、訴えました。すると主イエスは「できればというか。信じる者には何でもできる。」(24節)と、仰せられます。この父親の消極的な態度に対して、挑戦しているようなお言葉です。すると即座に「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と、主イエスの憐れみにすがったのです。(24節)この日父親は、主イエスの力に委ねきる事ができない「信仰のないわたし」に気づいた事は大きな恵みです。

 その事を気づかせたのは息子の病気でした。息子の病よりも、自分が先ず助けられなければならない存在である事に気がついたのです。しかもそれは自分のほかならぬ信仰の問題である事に気づかされました。問題はこの自分にあると気づくべきこと、しかも自分の信仰に思いを向ける必要があります。そして、「信じる者には何でもできる」と、仰せられる主イエスに心を寄せ、信じて歩めることが、私達の生きる力と希望となっていきます。

 私達は様々な問題に直面すると「いったい自分の信仰はどこにあるのだろうか」と、自分の信仰などちっぽけで危ういものという事を知らされるものです。だから「信仰のない私を助けてください」と、すがる祈りしかありません。これが私達の真実な祈りです。「信じる者には何でもできる」と十字架の道を進まれた主イエスに従い導かれている私達は幸いです。
2013_04
14
(Sun)10:30

イエス様のご栄光のお姿

マルコによる福音書9章2~9節



 「・・・イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」(2~4節)  主イエスの地上での人としてのお姿は仮のお姿で、この眩いばかりの主イエスの御姿こそ本来のお姿なのです。

 主イエスが十字架にお架かりになる、と予告された一週間後、御自身の御姿が変わったという記事が記されています。エリヤとモーセは旧約聖書の代表的な人物で、主イエスと共にいるという事は旧約の預言がいよいよ成就するという事を意味します。十字架は無惨な敗北で終わるのではなく、神の栄光に続いており必ず栄光に至るという、神の御心がはっきりと示されています。

 この出来事は十字架の予告に対して不安になっているペトロ達に、この地上の歩みは必ず天の栄光つながっていると、復活の希望をご自身のお姿によって示してくださいました。その「栄光と誉れ」は、やがての時に私達もそのように輝かせてくださると約束しております(フィリピ3:20~21)。

 栄光の輝きについては「…この都には、それを照らす太陽も月も、必要ではない。神の栄光が都を照らしており、子羊が都の明かりだからである。」(ヨハネの黙示録21:23~26)と、具体的に記されています。そのお姿を先取りして見せて頂いたペトロは感極まり、小屋を建てて恵みを留めておこうとしました(5節)。しかし、私達が信じている神は山の上に留めて崇め奉るようなお方ではなく、人間の手中に納まる神でもありません(使徒17:24)。神の御心は高い所から裁かれ、罪人を見捨てられる事はなさらず、主イエスをこの世の罪の暗闇に送られ、十字架につけ復活させて救いを完成させられる事です。私達と共に嘆き、心を痛め、地上を共に歩んでくださる為です。故に山から彼らと共に降り、いよいよ十字架にお架かりになる道を一筋に歩まれました(9節)。

 「これはわたしの愛する子、これに聞け」(7節)、とありますが、私達にも語られているお言葉です。主イエスは「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と、常におっしゃっております。しかしながら、自分を捨てるという事は困難で、一生の課題ですが、できる、できないではなく「そうしよう」という決意はできます。決意して歩んでいくうちに、主イエスが十字架と復活という神のご栄光に至ったように、私達も主イエスによって、神の栄光に与れるように、導かれていくのです。
2013_04
07
(Sun)10:30

キリストにある平和

ヨハネによる福音書14章1~6節



 聖書はキリストを通して与えられる神の救いの物語で、聖書全巻を通して「わたしのもとに来なさい」と、神の元に私達を招いておられます。私達が為すべき事は、一生懸命頑張って救いを得て、天国に辿り着くものではなく、イエス・キリストを信じ・信頼する事だけです。「信じる」とは、理屈ではなく自分の人生を主イエスに委ねる事、全身全霊をもってキリストについていく事を意味します。イエス・キリストの命の中に留まり続ける事で、そのまま私達はやがて永遠の命の世界へと移されるのです。

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(1節)
全く見当もつかない未来に対して、兎に角やってみなさい、きっとどこかに行き着くからら大丈夫と、おっしゃっているのではありません。明確に「わたしを信じなさい」と言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6節)と、ご自身を表現されています。「道」とは神に向かう道、「真理」とは、罪の赦しをもたらす真理、「命」とは永遠に神と共にある命の事で、これら全てを備えておられるのが主イエスです。私達が父なる神の元・天国に行く為に、死に至るまで神に従順に十字架の道を貫き通して三日目に復活された事を示されています。主イエスが歩んでくださった道であるが故に、必ず神の元へと通じています。

 私達が教会に集い神を礼拝するのは、生活を良くするためでも、良い人になる事が目的でもなく「罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。」と週毎に信仰告白をしている如くで、これがキリスト教の信仰、私達の信仰です。その結果、内面が変わり、生活が変わり、人生が変えられて祝福の中に入れられていくのがキリスト者です。ですからキリスト者はどんな困難な力が迫るとも、たとえ自分の命が取り去られるような死の力が襲ってくるとも、心を騒がせることなく、平安の内に歩める恵みが与えられています。心騒がせる事なく神を信じ、委ねる道が全ての人に与えられています。

 その保証として、「…あなたがたのために場所を用意したら、戻ってくる」(2~3節)と、約束が記されています。イエス・キリストは私のような者の罪を赦し、天国に居場所を確保して迎えに来てくださるという、確固たる約束をしてくださっていますから何も恐れる必要はありません。心騒ぐことなく唯、信じる事によって平安な日々を歩ませて頂ける恵みに感謝です。