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塩は良いものである
2013/07/28(Sun)

マルコによる福音書9章42~50節



 「わたしを信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい・・・もし片方の足が・・・もし片方の目が・・・」強い口調で主イエスは仰せられます。別の箇所では「心に憤りを覚え、興奮して・・・イエスは涙を流された。」(ヨハネ11:33~35)と、柔和な主イエスが感情を露わにむき出しにされている箇所もあります。

 どちらも珍しい場面ですが、その根底に共通するものは「滅びゆく命」に対する憤りで、罪びとである私達に対する「熱い神の愛・熱情」です。実際に弟子達が迫害する者たちを海に投げ込んで抹殺する事を期待している訳ではありません。永遠の命に拘る事ですから、いかなるものによっても神から引き離されてしまうような事があって欲しくない、という強い思いです。しかし「あなたたちは、命を得るためにわたしのところにこようとしない」(ヨハネ5:40)と、神の求めと私達の現実には、大きなギャップがあります。

 主イエスは真の命への道を切り拓く為に、私達の拙い命と真剣に向き合ってくださった唯一の御方です。ですから、キリストを信じて従い始めた者を絶対に失いたくない、つまずいて欲しくない、信仰を失って欲しくないと、願っておられます。主イエスは十字架にお架かりになる直前迄「・・・わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った・・・」(ルカ22:32)と、裏切ったペトロの為に祈られました。

 このような主イエスの思いを踏みにじるように私達は「~につまずいた」と簡単に口にするような恥ずかしい現実があります。しかし、情けない歩みであっても私達を慈しみつつ、最後まで兎に角信仰の道を全うしてほしいと、今も祈っておられます。もし、キリストを信じる者をつまずかせるような誘惑や迫害があるなら、主イエス御自身が大きな石臼を首にかけても放り出してやりたい、と私達の危うい信仰を守っていてくださいます。

 この世で生きる間、誘惑と試練に遭遇します。それに打ち勝つ事ができるのはイエス・キリストの死が、私の新しい永遠の命であることを感謝して精一杯与えられた命を生き抜く事です。そして、私達自身がこの世の腐敗を歯止めする塩の役割となってこの世へ遣われていくのです。「塩はよいものである。・・・自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、平和に過ごしなさい」(50節)
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一杯の水を飲ませてくれる人
2013/07/21(Sun)

マルコによる福音書9章38~41節



 「誰が一番偉いか」(35節)と争った主イエスの弟子達の一人であるヨハネは、自分達こそが主イエスの弟子というような特権意識を持っていました。又、神に精一杯仕え、仕えれば仕えるほど自分達の権威を確立していくものと考え、自分達の仲間ではない人々が主イエスの名を使って悪霊を追い出している業は(39節)、自分達の働きを妨げるものとなるとも考えていたのです。

 そのような考えを主イエスは否定されました。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(41節) 誰にでも親切に人助けをせよというヒューマニズムの教えではありません。「キリストの弟子という理由で」というお言葉に注目します。当時のキリスト教は、ユダヤ教や皇帝礼拝を強いるローマ帝国からも迫害を受け厳しい状況にありました。故にキリストの弟子に水一杯を差し出す行為は、危険を伴い犠牲を覚悟の上です。これこそが真実な隣人愛であり、そのような行為を神は必ず顧みられると約束をしておられます。一方弟子達は、自分達の為し得た行為にばかり目を留め、いよいよ傲慢になっていたのです。

 私達にとって大切な事は何をしたか、何ができるか、ではなく、犠牲をもって水一杯を差し出す事すらできない心の貧しい者だという自覚です。乏しさを覚えるよりも、ほんの小さな業を一つしただけでもさも大層な事をしたと、思い上がる人間です。こんな事ができると誇る事は得意ですが、こんなこともできないという思いに鈍感なものだという事を痛切に感じます。

 「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3)人は他者の痛みや悲しみを受け止めようとする心が乏しく、愛・忍耐等足りない者です。しかし素直に認める事ができずに弟子達の如く、却って傲慢に振舞い兼ねません。その只中に私達の貧しさを見つめ、深く憐れんでくださるお方が主イエスです。この御方の真実こそが、私達の全ての貧しさを「幸い」に変えてくださいます。罪なきご自身の命を十字架につけられ救いを成し遂げてくださった事により、私達を天の国を受け継ぐ者とさせてくださいました。

私達が傷つき倒れている時に、先ず一杯の水を、永遠の命の水を与えてくださいました。この原点を忘れて、自己中心の歩みを繰り返しているような私達ですが、ルター曰く「神の実現された救い」という土壌に移し替えられ「神の憐れみ」という栄養を日々接種して育てられている事に期待して参りましょう。
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誰が一番偉いのか
2013/07/14(Sun)

マルコによる福音書9章33~37節



主イエスはご自身が十字架にお架かりなる事を3度予告されましたが、本日の箇所は2度目の予告の直後の出来事です。十字架上の死が、いよいよ迫っていましたが、弟子達は依然として「だれが一番えらいかと議論していた」(34節)とあります。主イエスに従う歩みにおいても他者と比較し、名誉欲に支配されるような弟子達でした。「死ぬときは何ひとつ携えて行くことができず、名誉が彼の後を追って墓にくだるわけでもない」(詩編49:18)とも記されていますが、弟子のみならず名誉欲は人間の常であり弱さでもあります。

 弟子達は主イエスに「仕える」ことによって、自分達の栄誉を求めていました。一生懸命尽くせば何らかの見返りを期待できる権力者に仕える事は容易な事と言えます。一方、自分に何らかの利益を与える事ができないような権力とは無関係のこの世でいう弱い立場の人に対して、仕える事は簡単な事ではありません。そこで主イエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい・・・わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(35~36節)と、子どもを例に挙げて教えられました。子どもはこの世に何の力も持たないどころか、守らなければならない弱い立場にあります。そこで仕えるとは、最も値無き小さき者、見返りや栄誉を求めない行為こそが「仕える」事だと教えております。

 「僕になりなさい」とマタイ福音書には記されていますが、単なる謙遜の美徳を奨励しているのではありません。主イエスご自身が身を持って示されたのが、十字架にお架かりになる前日に弟子達の足を洗ってくださった行為です。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:8)身に着けるべき謙遜とは、名誉を捨て仕えられるためではなく、仕えるために来られた主イエス・キリストに倣って全ての人に仕える事です。

 謙遜さを身に着けるには、人と比較するような歩みではなく、主イエスと私の比較から始める事です。行い、考え、ひいては私の歩んできた人生そのものを主イエスと比較するなら、自分の愚かさ、罪しか見えず恥ずかしい事ばかりです。そうした時、恥ずかしい私を一切咎める事なく、黙って十字架にお架かりになって救ってくださった神の愛を知る事になります。神の愛を受けとった人は、栄誉を求めず心から喜んで全ての人にお仕えさせて頂けるのです。
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人生の土台
2013/07/07(Sun)

コリントの信徒への手紙一3章10~17節



 伝道者パウロほどキリストの体としての教会、体の各部であるべき姿を追い求めた人はいないと思います。教会が抱えている諸問題に対して労を惜しまず、真剣にイエス・キリストの体なる教会を建て上げる為に生涯を捧げました。しかし、彼は自分一人で何とか建て上げていこうとしたのではありません。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」(9節)と、コリント教会に連なる人々が建物を形作る部分であると語っています。建物とは、目に見える教会堂ではなく、イエス・キリストの恵みによって罪から救われた信仰者の群れの事を指しており、そこに集った神の民がその建物を造り上げていく使命が与えられています。

 その働きに加わる信仰者は「イエス・キリストという土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(11節)と、ありますようにキリストの土台の上に注意深く建てなくてはなりません。教会は罪の赦しと永遠の命を与えてくださるキリストが土台です。この土台に私達自身が神に喜ばれる素材となって用いられて、キリストの体なる教会が建て上げられていきます。建てる者の働きが良いものか、そうでないものかは、やがての終りの日、主イエスが再臨された時・審きの日に明らかになり報いも違ってきます(13~15節)。しかし、働き人の救いには変わりはないと、神の深い憐れみも記されています。

 神の審きに耐えられるか否か、常識的に考えるならば「金、銀、宝石」が残り「木、草、わら」は、燃え尽くされるように思いますが、人の常識と神の思いは違います(12~15節)。一見もろいような教会であっても、キリストの土台の上にしっかりと据えられ、吟味された素材=私達が求められています。「あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(16節)と、既に聖霊なる神が私達に宿ってくださり神の神殿となっていますから、キリストを土台とする限り、私達を用いてくださいます。

 「・・・なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身をむけつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。・・・」(フィリピの信徒への手紙3:12~21)罪赦され救われた者は既に主イエスを仰ぎ見て走り抜くレースに参加させて頂いています。主イエスは最後まで私達に期待してくださっていますから、軸がぶれる事なく良い素材となって教会形成に参与して参りましょう。
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