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見るべきもの
2014/02/23(Sun)

マルコによる福音書13章1~4節



 「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら・・・」(ヘブライ12:2)信仰者とは主イエスから目を離さずに歩むものですが、現実はというと、何と目に見える物に心を奪われている事が多いのではないでしょうか・・・見るべきものは何か、という事がいつも問われています。

 弟子の一人は、目の前にある神殿に用いられた見事な美しい石に心を奪われ、感動に浸っていました(1節)。しかし今は素晴らしくそびえ立つこの神殿も、この時から40年後、ローマ軍によって見るも無残な姿となって崩壊しました。主イエスはその事を預言されています(2節)。しかし、それは単なる預言ではありませんでした。「あなたがたがこの山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4:21)と、エルサレムの神殿は崩壊したことにより、どこででも神を礼拝する新しい時代が到来する事を示しておられます。エルサレムの神殿では、罪の為の犠牲が捧げられる事によって人々は神を礼拝する事が許されていました。この後、主イエスがただ一度、私達の罪の為の犠牲として十字架に架かってくださった事により、いつでもどこでも、霊と真をもって神を礼拝することが可能になったのです。

 弟子達は尚、神殿がいつ、どのように崩れるかについて不安になっています。(4節)きっと私達もどこまでいっても目に見える事に執着する事でしょう。しかし、見えるものに心を奪われて惑わされることなく、十字架に架かられ、復活され、天に昇られ、今も聖霊を通して私達と共にいてくださる主イエスを見つめていけば、それで十分です。パウロは語っています「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(Ⅱコリント4:18)

 今や私達が神を無視しようとも、主イエスを十字架の死から救ってくださった神が必ず私達を救ってくださる、という神の揺るがない御心を見つめさせて頂けるのです。私達は立派な信仰など持っていません。祈り悔い改めても又、元に戻り、意志が弱く情けない自分である事を良く知っています。だから、もうダメではないのです。「神に近づきなさい。そうすれば神はあなたに近づいてくださいます」(ヤコブ4:8)神に近づく時神は私達に近づいて下さり、共におられる主イエスを見つめていけるのです。これこそ祝福の基です。
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イエス・キリストのまなざしで
2014/02/16(Sun)

マルコによる福音書12章41~44節



 先週の箇所は「人からの評価」の中で自分を保とうとしていた律法学者達の姿を見てきましたが、本日の箇所は対照的に「神の目」の前に精一杯感謝をもって生きているやもめ(未亡人)の女が描かれています。

 「イエスは・・・見ておられた」(41節)人々が賽銭箱へお金を投げ入れる様子を見ておられました。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」(43節)何をたくさん入れているのを御覧になったのでしょうか? 主イエスは賽銭箱の前にお座りになりご覧になっていたのですから(41節)、当然誰がどれ位のお金を投げ入れたのか、金額を見ておられると想像します。しかし、主イエスのまなざしは、表面的なものしか見ることのできない私達のまなざしとは違います。

 「貧しい」とは単にお金が少ないというのではなく、他人の援助に頼っているという意味で、人からの援助がなければ生きていけない状況です。そのような中で「皆は余りある中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(44節)と、あります。彼女の捧げ物は人からの憐れみの中で頂いたお金で、それを捧げたら明日からの暮らしは立ち行かないと思われます。それでも神にお捧げしたいと、大勢の金持ちが沢山入れている中で、堂々と僅かな金額をお捧げしました。「自分の持っている物すべて、生活費全部」とは貧しいやもめの人生、生活そのものでした。彼女にとって献金とは単にお金を捧げるものではなく、神への信頼と感謝を込めて自分の人生をささげるものだったのです。このように主イエスが目を留められたのは金額ではなく、彼女の全ての全だったのです。主イエスの眼差しは、全て人の心を見通しておられます。「・・・人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)人は常に神のまなざしの前に立たされている事を、やもめの女を通して教えております。

 主イエスはこの後、私達の罪の為にご自身の命を捧げてくださいました。正に人生の全てを神と人にささげられました。主イエスが差し出してくださった命の交わりの中で私達は今日も生かされ、支えられています。献金はこの事に感謝してお捧げするのです。今日も十字架で私たちのために命を捧げてくださった主イエスのまなざしの中で生きていくように、私達は招かれています。
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神の目と人の目
2014/02/09(Sun)

マルコによる福音書12章38~40節



 キリスト者がどのような言葉を発し、どのように振舞うかは、その人の信仰を垣間見るようなものです。

 主イエスは群衆たちに律法学者達の後ろ姿を見送りながら「律法学者に気をつけなさい。長い衣をまとって歩き回ることや・・・見せかけの長い祈りをする。・・・」(38~40節)と、律法学者達の振舞に目を向けさせました。律法と伝統の研究者である彼らは、人から注目され認められる事で自分を保とうと必死に生きていたのです。彼らの関心事は常に人の目でした。

 「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリントⅠ6:19~20)

 神を信じる私達の中には聖霊が宿っており、私達が生きるのではなく、神が私達を力強く生かしてくださっています。神を真実に信じ神の愛を受けているなら、全てを尽くしてくださった主イエスの眼差しの中で生かされ、自ずとキリストを証しする者とさせて頂ける筈です。しかしながら、私達もこの律法学者の如くに、神が私をどう見ておられるか、「神からの評価」の中に生きる事に不徹底なものと言わざるを得ません。「私が、私が」と力んで自分を保とうとする時、神の御言葉に従う力、律法に従う力を失っています。

 イエス・キリストこそ人からの評価、人の目に全く支配されずに、神の道を真っ直ぐに歩まれたお方です。君臨するのではなく仕える事によって主イエス御自身がその身をもって神の御心を示してくださいました。人の評価を求め続ける生き方から、確かな神の愛の中で生きる道へと私達を導いてくださる唯一の救い主です。

 目に見えるものは、より優れる、より強い、より大きい目に見えるものに打ち負かされます。しかし、目に見えない聖霊なる神に依り所を置き、主イエスと日々交わっているならば、奪われるものは何一つありません。却って神からの評価、神の目の中で生きる者とさせて頂ける幸いを感謝をもって体験させて頂けるのです。「誇る者は主を誇れ。自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。」(コリントⅡ10:17~18)
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何を喜ぶか
2014/02/02(Sun)

マルコによる福音書12章35~37節



 私達はイエス・キリストをどのように考え、何を期待し、喜びとしているでしょうか?

 アダムとエバが罪を犯した為に「罪が支払う報酬は死です・・・」(ローマ6:23)と、全ての人間の命は朽ちて死を迎える者となりました。しかし、この最大の敵である「死」を滅ぼされる為に、神の御子でありながら人の子となってこの世にご誕生されたのがイエス・キリストです。私達罪びとの身代わりに十字架にお架かりになりましたが「死」から勝利し復活されました。その結果「イエス・キリストは私の救い主」と告白する者は誰でも主イエスの復活の命を頂く事ができるようになったのです。主イエスは死から復活へと天国の道を拓いてくださった、この世の全てを超越された救世主です。このように私達の人生の喜びはキリストの復活の命が与えられた事です。

 伝道者パウロは「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピ3:8)と語っていますが、私達はパウロのように告白する事ができるでしょうか。生活の基盤が、本当に復活の命を究極の喜びと希望としているかが問われています。

 当時のユダヤの人々はローマ帝国に牛耳られており、苦しい現実から解放してくれる政治的・軍事的な王を求め、主イエスをこの世的な「救世者」と考えていました。そこで主イエスは「どうして律法学者たちは、メシアはダビデの子だというのか」(35節)と、敢えて群衆に問うています。「・・・御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです・・・」(ローマ1:3) 確かにキリストはダビデの子孫として人間の姿で誕生されましたが、同時にこの世を越えた「救い主」である事に目を向ける事を教えられたのです。

 私達もこの群衆のように、主イエスにこの世の苦しみ、虚しさを埋めてくださる事を期待し、自分の都合に良いご利益信仰にすり替えてはいる時があります。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Ⅰコリ15:19-20) この世的な救いを求める弱い私達は只々、復活の喜びを本物の最高の喜びにしたいです。
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