2014_08
31
(Sun)10:30

イエス・キリストの復活

マルコによる福音書16章1~8節

佐々木良子牧師


 イエス・キリストは予告されていたように、十字架にお架かりになった後、3日後に復活されました。しかし、主イエスが復活されたという驚くべき知らせは「信じなかった」「信じなかった」 (11,13節)と、主イエスの弟子たちを初め、当時の人々には喜びどころではありませんでした。むしろ「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも言わなかった。恐ろしかったからである。」 (8節)と、「正気を失うほどの驚き でした。パウロの時代も同じように信じられない人々が存在していました(コリント一15:12~17)。今の時代も同じ事がいえます。結局、主イエスのご復活は人間の知恵や知識では到底信じられない出来事だという事です。

 では、どうしたら信じる事ができるのでしょうか。復活そのものを理性的に納得するのではなく、神の約束を信じるかどうか、信仰の問題といえます。模範となった人物が、信仰の父と言われるアブラハムです(創世記15,17章)。彼は子どもが授かるには不可能な年齢になっていましたが「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」(ローマ4:20~21)とあります。疑って当然の時でさえ神の約束を信じ抜き、神は彼を「義」とされました。アブラハムが「義=正しいもの」とされたのは、何か特別なことをしたのではなく「神の約束を信じた」からです。神とアブラハムの関係は神の約束に基づいています。更に「・・・アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ4:23~25)十字架と復活は、神が私達を愛し続け、罪の赦しを与え続けようとする神の御思いで、その事を信じる事によって正しくない私達を正しい者としてくださる神の約束のしるしです。

 そして、復活後に「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」(マルコ16:7)と、約束されました。信じる者は死んで終りではなく、天国で主イエスと再会の時を与えてくださると約束されました。主イエスの約束を信じ、復活の命に与りましょう。
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2014_08
24
(Sun)10:30

イエス・キリストの埋葬

マルコによる福音書15章42~47節

佐々木良子牧師


 イエス・キリストが十字架刑に架かられた後、人の思いでは計り知る事ができない様々な神の御業が起こりました。キリストの死を通して、人間はいつも理性的な判断によってだけ行動するわけではない事を教えられます。

 死刑を執行する責任者であるローマ軍の百人隊長が信仰告白をした事は、誰もが想像もできない出来事でした(39節)。又、本日の箇所においては、主イエスに対する敵意と嘲りがあった中で、身の危険をも顧みず埋葬に拘ったアリマタヤのヨセフという人物の勇気ある行動が記されています。

 「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。」(43節)旧訳聖書のモーセの律法によると、十字架に架けられた死体は、「神に呪われたもの」とあります(申命記21:22~23)。主イエスの十字架刑を、当時は呪われたものと見なされていた中で、自分の墓に入れるなど想像できない事でした。彼の突然の行動は、全人類の救いの為にご自身の全てを投げ出して、その命を注いで死に渡してくださったキリストの恵みによるものと言って良いでしょう。自分の利益・名誉等を顧みず、却って身の危険をも厭わず、感謝して喜んで自分自身を献げた人々の姿が十字架刑の後に記されています。キリストの十字架刑は惨いものですが、主イエスの廻りには、必ずそのようなその恵みに応える、極めて少数の人々が存在していたという事は、現代の私達にとっては何とも慰めであり、又、模範でもあります。

 生きるとは自分の計算で、自分が立てた計画に従って生きていくものではなく、神の恵みにどのように応えていくか、私の行為が何に向かってなされているか。どこに顔を向けていくかという事を、主イエスの死、埋葬を通して私達に目覚めを与えてくださいます。

  「わたしはまことのぶどうの木・・・わたしにつながっていなさい」(ヨハネ15:1~16)主イエスにつながるとは、主イエスの愛を身に受け続け、その愛にひたすら応えていく事です。ジョン・ウエスレーという人は、「恵みプラス応答は成長に等しい」と語っています。神は絶えず私達を恵んでくださり、私達も絶えず応答できる存在です。周囲がどうであろうと留まることのない恵みに命が保たれ、やむことのない恵みへの応答を目指して行くものでありたいです。
2014_08
17
(Sun)10:30

イエス・キリストの死

マルコによる福音書15章33~42節

佐々木良子牧師

 私達の愛するT姉は昨日、主に結ばれキリストの花嫁として、ご親族初め大勢の教会員が見守る中、賛美をもって天国に送りました。99歳というご高齢にも拘らず召される直前迄礼拝を献げられました。「・・・死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(ヨハネの黙示録2:10)との如く、命の冠を頂いて綺麗な花で飾られての凱旋です。キリスト者の最期は天国への道が開かれ、祝福された新しいスタートでもあります。しかし同時に、キリスト者の命の冠の陰には、イエス・キリストが私達の身代わりとなり、茨の冠をかぶせられた壮絶な孤独の死をつくづく思うものでもあります。

 本日の箇所は主イエスが十字架上で息を引き取られる場面です。最期は身を飾る花もなく、散々屈辱を受けられ「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(34節)と、暗黒の中(33節)、大声で叫ばれて息を引き取られました。この闇は全人類への神の裁きと呪いの象徴です。しかし同時に「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(38節)と、罪による暗闇の世界から、神の赦しによる新しい光の世界が開けた象徴でもあります。

 この瞬間、死刑を執行する責任者であるローマ軍の百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と(39節)、主イエスを救い主として認める信仰告白をしました。人間的な思いでしたら不可能な出来事でした。当時のイスラエルでは神以外の被造物を神として崇めれば直ちに冒涜罪で処刑されるからです。しかし、彼は十字架上の主イエスを一部始終を目で見て、叫びを聞き続けた結果、神殿の幕が裂けたのを、その目で見たのです。彼の上に神の御業が起こりました。いくら仕事とはいえ、キリストの十字架から目を離さなかった彼の上に神が働かれました。十字架の真実が、神の愛が人の心を動かすのです。

 18世紀の初め、私達の教会の信仰の源流ともいえるツィンツェンドルフという人が、ある時十字架上のキリストの絵を見て圧倒され、「我は汝の為に命を捨つ。汝は我がために何を捨てしや」と、涙に咽びてその場に立ち尽くしたそうです。私達は命を捨てられたキリストに、何をもって応えているでしょうか。貰う事ばかり願っていないでしょうか。天の御国に凱旋する迄、霊と真をもって礼拝をお献げする事が、現代に生きる私達の為すべき事です。この身を、時を、財を献げて、命を捨ててくださったキリストにお応えしていきたいです。
2014_08
10
(Sun)10:30

地の果てに至るまで祝福を

詩編66篇1~7節

佐々木良子牧師


 誰もが祝福を願うものですが、考えてみると殆どが自分の為・家族の為というような極、身近なものに関するものではないでしょうか。それは自然な願いと思います。しかし、この詩編の作者は自分サイズの小さな祝福を祈るものではありませんでした。全世界の人々が、罪の赦しと救いの恵みに与り、神を褒め称える事ができるように私を祝福してください、と祈りを捧げています。自分の為ではなく、神の御栄光を現すものとして、神のお働きに参与する為のグローバルな壮大な祈りです。

 「神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように。あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために」(2~3節)「神がわたしを祝福してくださいますように。地の果てに至るまで、すべてのものが神を畏れ敬いますように。」(7節)

 この詩編の背景には、神の民イスラエルが諸国の祝福の基として選ばれた事にあります。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」(創世記12:2)イスラエルの民は自分達の父祖アブラハムに与えられた約束と使命を、自分達が果たす為に祈っています。現代のキリスト者も全世界の人々への祝福の源となる事が求められています。主イエスは「あなたがたは世の光である。・・・あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:14~16)と仰せになっています。自分の中にあるのは暗闇の罪しかありませんが、しかしどのような暗黒であろうと、その只中に立てられたイエス・キリストの十字架を仰ぐなら、私達は主に結ばれて光輝く存在とさせて頂けるのです。そんな私達の為に希望と慰めと平和の光をもたらしてくださったのが主イエスです。この光に結ばれた時、罪を赦され、救われ、神の子としての光を放つ事ができるのです。

 私達は今、死の闇を征服したキリストの復活の光、希望の光を放つ存在として生かされています。ですから、イスラエルの民の如くに大胆に「もっと、もっと私を祝福してください」と祈り、更なる光を放って地の果てに至るまで祝福を運ぶ者と用いて頂きましょう。祝福を運ぶ使命に生きる、光を放つ存在であるとは何と感謝な事でしょうか。共に世の光として輝かせて頂きましょう。
2014_08
03
(Sun)10:30

喜びの遊び

フィリピの信徒への手紙4章4~7節

三枝育代牧師(宮崎清水町教会牧師)


 昔から「笑う門には福来たる」という言葉があります。ある地方では、皆で大声で笑い合うというお祭りもあると聞いています。笑うこと、喜ぶことを私たちは願っていますが、実際は愚痴や不平を言う方が上手ではないでしょうか。

 この手紙は、パウロが投獄された牢屋で書いた手紙ですが、喜びや感謝の言葉がたくさん出てきます。投獄されたことを逆に利用して、伝道に役立った、神様はすばらしいお方、監禁を喜ばしいこととして伝えています。パウロはそのような中で、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(4:4)と語っています。「常に」は口語訳では「いつも」となっています。

 私たちの喜びは、どのようなものでしょうか。良い事があった時、願いがかなった時、物事が順調にいった時に喜びます。外側の何かによって喜ばせてもらっています。子供が何か買ってもらって喜ぶのと同じです。外側の何かが消えてしまうと、喜びも消えてしまいます。周りの事に一喜一憂するのが、世の中の喜びではないでしょうか。

 聖書に記されている「常に喜ぶ」とは「主において」です。主において、はじめて常に喜ぶことができるのです。「主において」とは、イエス・キリストを信じていること、イエス・キリストの十字架と復活によって、罪赦されて、神の子として生まれ、救われていることです。主が喜びの源泉、出発です。神ご自身から出ている喜びです。イエス・キリストとの交わりの中にある時、大変な重荷を負っていたとしても、その魂に喜びを持つことができるのです。

 パウロは、苦痛の叫びをあげてもおかしくない状況で、喜び、感謝して生きているのです。フィリピの教会のために祈り、励まし、メッセージを送っているのです。独り子を与えて下さった神の愛と赦しの喜びが、みなぎっていたのです。神様は最善以外はなさらない。神様に対する絶対信頼から来る喜びが、魂を支配していました。神の全知全能を信じ、任せきり、祈って委ねている平安と希望が、そこから出ていたのです。

 神は信じる者と共にいて、どんなときも近くにいてくださる。喜びは神様の贈り物です。聖霊の実です。喜んでいるところに力が湧いてきます。道が開かれます。人が集まります。イエスは喜びの源。神との交わりから喜びは生まれます。