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信じる人は誰でも救われる
2014/10/26(Sun)

使徒言行録2章14~21節

佐々木良子牧師

 主イエスが約束された聖霊が降った時(ペンテコステの出来事)、人々は様々な反応をしました。受け入れる事ができない人々は、ぶどう酒に酔っていると嘲りました(13節)。そこでペトロは立ち上がり、旧約時代から預言されていた事をヨエル書から引用し御言葉をもって語りました(17~21節)。

 「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべてに人に注ぐ。すると、あなたがたの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」(17~18節)旧約時代「神の霊」は預言者や王などのある特定の人にしか注がれませんでしたが、ペンテコステの時に姓別、年齢、身分を超えて神が御自身の「霊」を「すべての人」に注がれると約束され、その通りに実現しました。ですから私たちは今、親しく神の名を呼び、交わらせて頂き、御言葉を理解する事ができるのです。神との道が一直線に開かれています。

 「主の名を呼ぶ者は皆、救われる」(21節) 立派な人が天国に行けるのではなく、イエス様を「神の子」、私の「救い主」と信じる人は、全ての人が救われると宣言されています。「助けてください。自分には何もない」と、呼び求めないと生きられないような、弱い人々の為の救い主でおられます。だから、この救い主を私たちは誇りにするのです。

 キリストの十字架により、私たち罪びとが天に帰るためにその道が開かれています。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)自分で努力して切り開いていくのではなく、既にキリストの道が開けていますから、その道を辿るだけです。「・・・土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)私たちは何者でもなく、神が命や息やすべてのものを司っておられます。全ての祝福はただ神の恵み、恩恵、憐みによるものですから、強がらず神に助けを求めて生きていけば良いのです。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(ヨハネ5:39~40)。人間の罪を赦す恵み深い主イエスは、今も両手を広げて全ての人を待っておられます。
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みんなに分かる言葉
2014/10/19(Sun)

使徒言行録2章1~13節

佐々木良子牧師

 臆病で主イエスを裏切った弟子たちは聖霊に満たされると、全く別人のようにイエス・キリストの十字架と救い・復活を大胆に証しする者へと変えられました。証し人という言葉が後に殉教を意味にするようになった程に命を賭け、命を献げてキリストの復活の証人としてその生涯を全うしたのです。自分の事を守る事しか考えていなかった弟子たちは、自分の命をも差し出す者として生きる道を歩み始めていきました。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされて、〝霊〞が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(1~4節)人間の知恵や言葉では十分に説明しきれない神秘的な状況に捉われるのではなく、信じて心合わせて祈った弟子たちに注がれた神の圧倒的な豊かな恵みを見る事が大切です。「ほかの国々の言葉で話した」とは、外国語を皆が話すようになったという事ではなく、全ての違いを超えて、神の言葉が自分たちの国の言葉によって心の奥底に届けられたという事です。

 「わたしの言葉」ではなく、「神の言葉」だからこそ誰もが自分達の母国で理解し合う事ができるのです。聖霊によって通じ合う存在に変えられ、新しい世界が開かれていきました。

 その出来事が具体化して世界中に主の教会が誕生し、大勢の人々が救いに導かれていきました。教会が聖霊によって誕生したという事は、教会は人の思いや計画、人種を超えて聖霊に導かれていく群れであるという事です。私たちは毎週礼拝毎に使徒信条を告白しています。「・・・我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の命を信ず」

 聖霊はともすると感情的で高揚するものと考えがちですが、感覚ではなく「聖霊を信ず」との如く意志表明、告白です。この聖霊なる神が、今度は私たちを用いてイエス・キリストの十字架と救いを語らせ、人々を導いて信仰に至らせることを期待しておられます。「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェソ5:19)聖霊なる神を信じ、神の恵みの言葉を語り合う事により、十字架と復活の証し人とさせて頂くのです。
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立ち上がったペトロ
2014/10/12(Sun)

使徒言行録1章15~26節

佐々木良子牧師


 主イエスの弟子であるペトロやイスカリオテのユダは、主イエスを裏切った者たちです。しかし二人の歩みは、天と地の如くに実に対照的でした。

 「そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。120名ほどの人々が一つになっていた」(15節)かつて祈る事ができなかった彼は、主イエスの約束を信じ皆で心合わせて熱心に祈った(14節)後の出来事です。ペトロはイスカリオテのユダの出来事を聖書の言葉の成就として語り、彼に代わる人物の補充のために祈り、くじで選びました(16~26節)。くじは、旧約時代から神の導きと理解された合法的なものです。こうして、ペトロを中心として使徒12人が、主イエスの証人となって立ち上がり、教会が誕生していく事となります。

 一方ユダはというと、悲劇的な最期が記されています(18~20節)。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。夜であった。」(ヨハネ13:30)ユダは主イエスを裏切った直後、外に踏み出したとき、夜でした。闇がすっぽりと彼を包みました。背後にある彼の出てきた灯りのある部屋には、ユダと同じく、弱くつまずき多いペトロを初めとする弟子達が救い主の赦しの光に包まれて座っていました。罪を犯した者がどこに身を置くかという事が、ユダとペトロの違いです。ユダは自ら灯りを捨て、自らの罪の始末をしなければならない暗黒へ踏み込んだのです。自らを孤独へと追い込み転落していきました。カール・バルトという神学者は「・・・地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け・・・」(18節)について述べています。「『まっさかさまに落ちる』とは、彼の人生は逆転し、転倒し落ちる所まで落ちて行く姿を現している。自分から憐みの神に反抗している姿。又、ユダの心の内部崩壊を表し、手から投げ出された手榴弾のように、爆発するほかなくなってしまった。イエスを殺す者は自分自身をも殺すのである。」

 言い換えるならば、主イエスを生かす者は自分自身をも生かすという事が言えると思います。主イエスを生かすとは、罪人全てのために十字架の苦しみを最後までなめ尽くし、罪と滅びから救い出してくださった主イエスの憐みにすがるという事です。自分自身で罪を解決する事はできません。絶望が希望へと逆転するのは、十字架の元に居続ける事、憐みに只、すがり続けていく事です。どんな事があっても神から教会から離れない事が唯一の救いの道です。
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こころを合わせて
2014/10/05(Sun)

使徒言行録1章12~14節

佐々木良子牧師


 主イエスの昇天を見届けた弟子達は、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」(4節)との主イエスの命令に従ってオリーブ畑と呼ばれる山からエルサレムに戻ってきました(12節)。指導者がいなくなった彼らは不安だったと思いますが、今後の事を話し合ったりしたのではなく先ず、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(14節)と、あります。

 これまで弟子達は心合わせて祈るという事はありませんでした。ゲッセマネにおいて、主イエスが「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」(マルコ14:38)と仰せられても、祈らずに眠りこけていたような彼らが一つとなって祈ったのです。主イエスが「・・・約束を待ちなさい」とは、全てを彼らに託し、期待した呼びかけです。ご自分の業を進められるに当たり、御心を100%忠実に行う事のできる優等生を新たに選んで、その働きを委ねる事はなさいませんでした。主イエスを拒んだペトロや復活を疑ったトマス等、それぞれ弱さ、欠け、痛みを持った者達に期待されました。神の命令に背き、罪を犯しその弱さの中に閉じ込められてしまうような、不信仰な一人一人を敢えて選ばれ、ご自分の尊い御用をなそうとしておられます。

 彼らにとってエルサレムは、主イエスを裏切った辛い所で、逃げ出したかった所であったかもしれません。同時に信仰の原点でもありました。そこで踏みとどまり、祈り求め続けている所に主イエスは応えてくださいます。彼らは心一つにして、熱心に祈り、神の御手を動かしました。祈りによって今までの自分達の生き方とは違うものを見出したのです。この後、聖霊が降り、新しい希望、新しい力を注がれて、教会誕生という出来事に関わっていきました。

 主イエスを信じる者達が集まって心を合わせて祈ることこそ、聖霊のお働きを待つための最も大事な備えです。私達の教会が今、新たに聖霊のお働きを受けて新しく歩み出すために最も必要な事は、共に心を合わせて祈り続けることです。祈りを忘れた教会は歌を忘れたカナリアのように、無力で役に立たないと言われています。心合わせて熱心に祈っていくとき、教会は成長し、愛と活力に満ち溢れ、豊かな実りが与えられます。主イエスは弟子達に期待されたように、私達にも期待しておられます。
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