2015 05 ≪  06月 123456789101112131415161718192021222324252627282930  ≫ 2015 07
だから目を覚ましていなさい
2015/06/28(Sun)

マタイによる福音書24章32~44節

横山義孝牧師

 主イエス様がオリブ山から昇天された時、天の使いが弟子達に「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方がみたのと同じ有様でまたおいでになる」(使徒言行録1:11)とつげられました。イエスは最後の審判と永遠の神の国を完成するためにもう一度この世にこられるのです。これを主の再臨といいます。

A)主イエスがある時エルサレムの神殿を通られた時、神殿を指さしている弟子達に仰せられました「これらすべてものを見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(24:2)と。これは世の終わり、歴史の終末に主が再臨されて、人間が作った罪の世の文化、文明は全て崩壊し、まったく新しい神の国が出来る事を仰せられたのです。聖書はこれを約束しており、イエスはその時が近いことを仰せられたのです(24:6~14、32~35)。

B)すると弟子達はまた聞きました。「仰ってください。そのことはいつ起こるのですか・・世の終わる時にはどんな徴があるのですか」と。「その日、その時はだれも知らない。・・ただ父だけがご存知である」と。これは父なる神のみが再臨のゴーサインを決定する権限を御持ちであるというのです。更に仰せられました。「人の子(キリストご自身)がくるのはノアの時と同じである」と。ノアの時代(創世紀6~9章)「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで人々は食べたり飲んだり、めとったり、嫁いだりしていた。そして洪水が襲って来て、一人残らずさらうまで何も気がつかなかった」と。ノアが神様を信じ、厳かな思いで命じられる通り大きな箱舟を造ることに専心していたのですが、人々は神様の事など、少しも考えないで日々肉欲と享楽に耽っていたのです。「皆さん不信仰な悪い心を捨ててこの箱舟に乗って下さい」と伝道したに相違ないのです。しかし人々は嘲笑って、ノアの信仰の言葉を聞く耳を持たなかったのです。今日私達にとっての箱舟とは、この教会です。謙虚な心で罪を悔いイエス様を救い主と信じる人は、教会という箱舟に乗ることが出来、神の裁きの洪水から救われるのです。

C)「だから目を覚ましていなさい。」と主は厳かに教えておられるのです。目を覚ますとは信仰の目を覚まし、神第一の生活、聖書、祈り、礼拝生活、伝道と愛の業に励むことです。ペトロは「このようにすべてのものは、滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活をおくらなければなりません」(Ⅱペトロ3:11)と勧めています。共に聖なる歩みを全うし、来たり給う主に善かつ忠なるものとお褒めを頂きましょう。ハレルヤ。
スポンサーサイト
この記事のURL | 2015年度 | ▲ top
手引きしてくれる人
2015/06/21(Sun)

使徒言行録8章5~25節

佐々木良子牧師


 本日の箇所はエルサレム教会に激しい迫害が起こり、使徒たちが散らされた先のサマリアの町での出来事が記されています。そこにはフィリポとシモンという対照的な二人の姿がありました。

 フィリポは人々が救いへと導かれバプテスマを受ける事を喜びとし、彼の語る福音と奇跡によって多くの人々が救われました。一方魔術を使って得意になっていたシモンは、いよいよ自分が人々から称賛を得て偉大な人物と見てもらいたいがために、聖霊なる神の力を手に入れようとお金を持ってきたのです。

 そこでペテロは「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。・・・お前の心が神の前に正しくないからだ・・・この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。」(20~22節)と激怒しつつも、一路の道をも示しました。しかし、シモンは「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」(24節)と、悔い改めもなく更に自分で祈ろうともしませんでした。神との関係を持とうともしない姿です。

 ペトロが「心が神の前に正しくない」と、指摘しているように聖霊なる神の力は、勿論お金で買うこともできませんし、人の欲望を果たすために与えられるものでもありません。では、心が神の前に正しいとはどのような事でしょうか。神を信じる者には悔い改めと祈りが導かれていくものです。キリスト者といえども罪を犯し何度も失敗しますが、悔い改めと祈りが与えられますから何とか神に結ばれているのです。そうして、こんな私をも神は愛してくださると感謝と喜びが溢れてきます。この恵みを感謝することができるのは、自分は弱く何もできずにお手上げ状態の時、神の前に降参している状態の時です。これが聖霊なる神の力です。このように神の恵みによって私たちをイエス・キリストへと導いてくださり手引きをしてくださる人格を持ったお方、聖霊なる神がおられることを感謝できる人がキリスト者です。

 神はイエス・キリストの十字架の死と復活によって、救いの恵みを与えてくださいました。聖霊の御支配と導きによって、私たちはイエス・キリストを「私の救い主」と告白する事ができるのです。そうして私たちは日々神へと向かって歩める幸いを思うものです。
この記事のURL | 2015年度 | ▲ top
すべては神の御手の内
2015/06/14(Sun)

使徒言行録8章1~4節

佐々木良子牧師


 人生は自分の思いとは関係なく、神の定めと御計画の中で生かされている事を信仰者は体験させて頂いています。人間の常識、経験を超えた所で神の御計画が実現し、全ては神の御手の内にあることを知っている人は幸いです。

 本日の箇所は、ステファノが殉教したその日からエルサレム教会への迫害が始まった事が記されています。ステファノは殺され、教会が迫害されるという恐ろしい事件が次々と起こり、この世的な思いで見るならば悲惨な出来事でしかありません。しかし、それも神の御計画でした。人は自分の内側と目前の出来事しか見る事ができませんが、神側の思いに目を転じるなら想像する事もできない無限大の世界へと導かれ、そこで神と出会う事となります。

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリア全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(1:8)と、主イエスが仰せになった事が、迫害というような思いもよらない方法で実現し始めたのです。「・・・ユダヤとサマリアの地方に散って行った。」「さて、散っていた人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。」(2,4節)迫害されたキリスト者たちはエルサレムに留まることが不可能となり散らされていきました。しかし行く先々で福音が宣べ伝えられ、その結果、福音が地の果てにまで広められ、主イエスが仰せになったことが実現していきました。

 主イエスは今も生きておられ、その御業は人間側の状況に拘らず前進していくのです。神の御心による苦難なら苦難では決して終わりません。イエス・キリストの苦難が最たるものです。十字架は敗北であったかのように見えますが、その先に復活という勝利があったように、苦難の向こうに神の栄光があります。神がなさろうとしていること、その御計画遂行のために私たちが用いられて実現されていきます。

 「わたしの思いはあなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる・・・わたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:8~11)到底受け入れられないような現実であったとしても、全ては神の御手の内に入られています。そうして最終的には神の御言葉こそが実現していく勝利の世界に身を置かせて頂いている私たちです。」
この記事のURL | 2015年度 | ▲ top
天が開いて
2015/06/07(Sun)

使徒言行録7章54~60節

佐々木良子牧師


 人の「死にざま」は「生きざま」と言われていますように、生きてきたように最期を迎えます。キリスト教史上、最初の殉教者となったステファノは最期まで「聖霊に満たされ続け」キリストに連なる者として息を引き取りました。

 ステファノを迫害する人々に対して彼は「あなたがたこそ神に逆らっている」(7:51~53)と断罪したがために、ステファノに対して「心をのこぎりで切る」ほどの怒りが爆発し襲いかかりました(8:54、57~58)。彼らの形相は尋常ではなかったと想像できます。しかし彼が見たのは、目前の殺気立った光景ではなく『ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神と栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右にたっておられるのが見える」と言った。』(55~56節)と、ご栄光の神を見たのです。「聖霊に満たされ」信仰を全うする者は、たとえ目の前で何万人の敵が激しく攻撃しようとも恐れるものは何ひとつないのです。

 ステファノは特別な人ではなく民衆の中から選ばれた一人です(6:5)。「…最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。」(ヘブライ3:14)との如く、脅威の中にあっても神の御栄光をみることができたのは、聖霊に満たされ最期まで神への確信を持ち続けた故です。私たちの力は真に微力で弱々しく不確かで、何事も継続する事に困難を覚えます。だから頑張れ、というのではありません。日々、信仰を持ち続けたいと願い祈るなら、そのことが私たちを主イエスにしっかりと結び付け「キリストに連なる者」とさせて頂けるのです。キリストに連なるとはキリストに与るということです。キリストに生かされる限り主イエスを褒め称え、十字架と復活の主を崇める人生を全うする事ができます。そうして人生の全てを主イエスが最後まで全責任を取ってくださるのです。ステファノを通して神はその事を示しておられます。

 彼は最期に「…わたしの霊をお受けください。…主よ、この罪を彼らに負わせないでくさい」(59,60節)と、十字架上の主イエスの如くに息を引き取りました。彼は主イエス御自身が苦難の極みである十字架の苦難の道を通ってくださり、そこが救いに至る道であることを確信しその目で見たのです。主イエスは仰せになります。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)苦難の先には天が開かれています。
この記事のURL | 2015年度 | ▲ top
| メイン |