熱心な祈り
2015/09/27(Sun)

使徒言行録12章1~19節

佐々木良子牧師

 人生の中で絶体絶命という状況に陥った人は少なくないと思います。主イエスの弟子で、エルサレム教会の中心となっていたペトロは国家権力による迫害によって牢獄の中で窮地に立たされていました。このことは同時にエルサレム教会存亡の危機となる出来事でした。さて、どのように乗り切ったのでしょうか。

 ペトロは以前にもユダヤ人議会の手によって投獄されましたが、神の助けにより脱出したので今回は厳重な警戒のもとに監視されていました。ですから牢からの脱出は不可能で誰もが絶体絶命と思われる状況でした。しかし、神の助けにより解放されました(7~10節)。彼自身も幻を見ているかと思うほどの奇跡的な事でしたが、「…主が天使を遣わして…わたしを救い出してくださったのだ。」(11節)と、外に出て御使いが彼から離れ去った時、主が御使いを通して助けられたやっと現実を受けとめた程の出来事でした。

 その奇跡の原動力は「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」(5節)と、祈りが神を動かしたのです。どのような絶望的な状況であっても、祈ることができるのが信仰の強さです。「もう無理」と思ってもその先が必ずあることを信じる事ができる幸いです。問題があってもなくても、熱心に祈り、神の求める教会、そのような教会になることを主は願っておられます。

 生きていれば様々な問題に突き当たり、振り払おうともがけばもがくほど身動きがとれなくなってしまったという経験をしたことはないでしょうか。又、傷をなめ合うような人との関係をもったとしても、そこから生まれるのは却ってマイナス的な要素しかありません。残念ながら私たち自身は解決できる力は持ち合わせていないのです。人は上から、つまり神の助けによってのみその重圧から解き放たれます。それが祈りです。神に助けを求める人は神と向き合います。神に向き合う中で、人の内なるものは安らぎ養われていきます。

 私たちが経験する苦しみや試練は決して喜ばしいことではありませんが、そのような経験は祈りへと導かれている時であると受け止め、神に期待していきたいです。必ずしも自分が描く方向へと導かれない時もあります。問題がすぐに解決できるとも限りません。しかし祈り続けていく時、そこに必ず主なる神が働いてくださり神の時に神の方法で応えが与えられます。自分の思いに神が合せてくださるのではなく、私が神の思いに身を寄せていくのが祈りです。
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神の言葉はとこしえに (敬老感謝礼拝)
2015/09/20(Sun)

イザヤ書40章1~11節

佐々木良子牧師

 「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(8節)一面に草が生えその草も花を咲かせていますが、それは一時的な美しさで秋になれば萎み枯れます。そうでなくても台風が吹き大雨が降れば倒れてしまうと、人の命について語っています。確かに私たちの命は草のように萎み倒れてしまうようなはかないものです。しかし、人がそこで終りと思える所で語られる神の言葉、聞くべき御言葉が消え失せることなく与えられているのです。これが信仰の世界です。「・・・とこしえに立つ」とは、「立ち上がる」という意味です。私たちが信じている神は、枯草のような命を再び生き返って立ち上がらせてくださり、希望なき所に希望を与えてくださるのです。

 イスラエルはバビロニア帝国に敗れ都エルサレムは崩壊し、神殿は略奪され廃墟となり、人々はバビロンに囚われ人となったのです。彼らこそ草は枯れ、花はしぼむ痛切な体験をしました。彼らは神に特別選ばれ恩寵を受けながら導かれていましたが、神の慈しみと真を軽んじ不信仰と不従順を繰り返し、ついに亡国の民となったのです。

 民族がずっと続くということはないように、歴史の中の変化や消滅は自然に起こった訳ではなく、「主の風が吹き付けたのだ」(7節)と、つまり神からの裁きだというのです。人間の罪とその結果を思いながら語っています。しかし、そこで語られる神の言葉を聞いたのです。「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる」(1節)愚かな罪人である人間に忍耐をもって執り成してくださり、再び神に立ち帰る時が来たのです。慰めるとは単に悲しみを和らけるのではなく、励まし力づけることを意味します。再び神の言葉によって、神に導かれて行く幸いです。

 「見よ・・・」(9,10節)今も生きておられる神が佇んでおられるのではなく「小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(11節)と、お母さんが優しく子どもを抱き抱えるように私たちを抱え込んでおられます。イエス・キリストの十字架による赦しにより、どんなに罪を犯し不忠実であっても、神の真実は変わることなく助け支えてくださいます。人は神の期待を裏切ってばかりいるにも拘らず、永遠に変わらない真実をもって私たちに語りかけてくださる神の言葉があります。だから私たち皆、死から命へと立ち上がれるのです。
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キリスト者と呼ばれるようになった時
2015/09/13(Sun)

使徒言行録11章19~30節

佐々木良子牧師

 いよいよ異邦人伝道の本格的な幕開けです。その拠点となるアンテオキィアという町に教会が誕生し多いに祝福され大きく成長していきました。この地で弟子たちが初めて「キリスト者」と呼ばれるようになりました(26節)。

 教会が語ることは「主イエスについて福音を告げ知らせた。」(20節)と、この一点です。この地には様々な人種が住んでいましたが臆することなくイエス様こそ主であると、確信をもって福音を宣べ伝えたのです。それは復活され今も生きておられる主イエスに繋がっている証しとも言えます。神の御子の十字架と贖いによって、神から人への道が開かれています。その神の恵みに真実に応える時、人から神への道はつながるのです。

 この働きの中心は弟子たちではなく、一般の信徒でキプロス人とクレネ人でした。「主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った数は多かった。」(27節)「ああ、本当にイエスさまは私の救い主‼」という信仰によって、勇気をもって伝道していく所に主の力が及びます。伝道の原動力となったのは主の特別な働きかけで、伝道の実りを生み出すのは私たちの力ではなく主の御業です。信仰に固く立つ者の上に主は必ず働いてくださいます。

 アンテオキィア教会に信じて立ち帰る者が多く出たことはエルサレム教会に聞こえてきたので、バルナバはエルサレムから派遣されました。その目で神の溢れる恵みを目にして、更にタルソにまでサウロ=パウロを捜しに行き、共にこの教会の建て上げて行ったのです。後のパウロの伝道の拠点ともなった重要な教会となっていきました。このようにエルサレム教会からアンテオキィア教会が生まれました。教会が教会を生み出していったといってよいでしょう。やがてユダヤ全土に大飢饉が何回も襲ってきましたが、生まれて一年足らずのアンテオキィア教会が今度は遠方のエルサレム教会のために助ける教会へと成長していたのです(27~30節)。

 かつて日本は多くの宣教師たちが命がけで福音を届けてくださいました。主イエスが「受けるよりは与える方が幸い」(20:35)と、仰せになりました。今度は私たちの小松川教会から又、新たな教会を生みだし、大いなる祝福を頂きたいものです。神の恵みは人を神とその御言葉に出会わせ、一歩先の世界へ引き出してくださいます。
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私が示す地に行きなさい
2015/09/06(Sun)

創世記12章1~8節

佐々木良子牧師

 人の一生に「時」は、決定的な役割を果たします。その時をどのように受け止めていくかによって、人は立ちもし、倒れもします。アブラムと呼ばれる人物が登場しますが、後に「信仰の父」と呼ばれるアブラハムという人で、時を神に委ねて生きた人物でした。

 『主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて わたしが示す地にいきなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し…祝福の源となるように…あなたによって祝福に入る。」』(1~3節)彼の生涯はこの日、この時、この場所で鮮やかな一点から始まったのです。これまで馴れ親しんだ場所から離れるという、過去との決別から始まりました。

 この旅立ちの具体的な行き先は分かりませんが、神の御声を繰り返し聞きながら示される地へと踏み出すというものでした。確実に分かっている事は祝福という言葉が何度も出てくるように、彼の歩んだ道によって祝福のルートが広がっていくという事です。「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計らっておられる。」(箴言5:21)と、既に神の御前にある用意された道です。

 「…蓄えた財産をすべて携え…」(5節)と、戻る事は考えずに神の御言葉を信じ委ねました。神を信じるとは全てを委ねるという事で、委ねた分だけ神は支えてくださり、そうしながら人は神の豊かさと有難さを知っていくのです。しかし、そこには何の苦労もなく幸せいっぱいの世界ではなく、どちらかというと困難な道であることが分かります。先住民のカナン人がいますし、身勝手な甥のロトも一緒です。そのような中で神が支えてくださっている事を深く知り、そこで神を証ししていく事を神は求めておられます。

  「主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(8節)と、彼は自信があって歩めたのではなく、行き詰まり途方に暮れながら祭壇を築き、祈りながら歩む人生でした。「夜明けは近づいている。しかしまだ夜なのだ。どうしても尋ねたいならば、尋ねよ。もう一度来るがよい。」(イザヤ21:12)暗闇が深いと夜明けが本当に来るのかと不安になりますが、何度でも尋ねなさいと主は仰せになります。神を信頼して必ず朝が来ると信じるなら、人は朝を待つような生き方をしていけます。神が示す地はその時は分かりませんが、祈り神に問い続けながら歩むならば、必ず祝福の命に続く道へと向かわせて頂く事が分かります。
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