2015_10
18
(Sun)10:30

神の導きはすごい

使徒言行録13章1~12節

佐々木良子牧師

 主イエスが仰せになったように「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤ全土で、また地の果てに至るまで…」(1:8)と、12章までユダヤとサマリヤ全土までの宣教の業を共に学ばせて頂きました。13章からは、いよいよ世界へと宣教が拡大していく様子が記されています。「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい』」(2節)と聖霊が直々に彼らを指名して、最初の伝道旅行に遣わしました。

 彼らはアンテオケ教会のリーダー的存在でしたから、教会にとって大きなダメージで身を切られるような決断であったかと想像できます。そのような時、教会が行ったことは「そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」(3節)と、まず祈り、神の御心を確信して、二人の上に手を置いて送り出しました。手を置く=按手とは、祈りにおける共感と支援約束です。遣わされるバルナバとサウロの背後で祈り支え「私たちの代わりに大切な奉仕を務めてください」と、宣教の業を共に担うという意思表示でもあります。彼らはこのようにして「聖霊によって送り出された…神の言葉を告げ知らせた。」(4~5節)と、聖霊による力、権威、絶えざる導きによって遣わされました。宣教の業は遣わされる側も、送り出す側も双方の聖霊による密接な関係こそが、大切な原動力となっていきます。

 そうして送り出された二人がすぐに直面した問題が、魔術師でバルイエスという偽預言者でしたが、「聖霊に満たされた」サウロの言葉によって、打倒されたのです(9~11節)。伝道が進展し門戸が開かれる時に、必ず障害や問題に直面します。それに対抗できるのは、人の力や知識ではなく、聖霊なる神のお働きのみです。ですから伝道に直接携わる者と、背後で祈る者の聖霊による二人三脚がなければその御業を進めることは不可能です。

 「総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った」(12節)と、サウロを通して働かれる聖霊の業により信仰へと導かれたという素晴らしい報告が記されています。神の言葉が語られる所に聖霊の働きがあり、聖霊の導きのある所に祈りがあります。宣教は第一線で神の御言葉を語る者と背後で祈る者とが一つとなって開かれていく道です。そうして聖霊の御業を益々体験させて頂き祝福の命の道が開かれていきます。
スポンサーサイト
2015_10
11
(Sun)10:30

ナルドの香油

ヨハネによる福音書12章1~8節

澤田直子牧師(宇都宮上町教会牧師)

 マリアがナルドの香油の壺を割ったのは、「イエス様は、わたしにとって、かけがえのないお方です。どれだけ尊敬を表しても愛を捧げても、自分を低くしても、言いつくせません。」という思いを表すためでした。マリアの行いによって、食事の席はナルドの香油の香りに包まれました。

 ある説教集に「あなたの教会は、何の香りでいっぱいですか。」と書かれていました。教会とは、信仰者が集まり、神を賛美する場を表します。とすれば、礼拝に集う皆さんがまさに教会なのです。『あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか』(第一コリント3章16節)わたしの内にある神の宮は、どのような香りで満たされているか。鎮まって考えたいことです。

 「献げる」とは、わたしに与えられたもののうちで最上の物を神にお返しするということです。ユダがマリアの行為に文句をつけます。香油の値段を見ていたからです。しかしイエス様はマリアの心を見ていました。私たちはどのようなお方に何を献げるのかをわかっていなければなりません。

 8節のお言葉は不思議です。聖書には、あらゆるところに、主は共におられる、と書かれているのに。私たちが自分の最善を世で尽くすことに気を取られている時、あるいは、他の人の捧げ物が気になる時。いつも共におられるはずのイエス様のお姿は見えているでしょうか。

 マリアが献げたナルドの香油は、聖書に記され、讃美歌にもなり、多くの信仰者の心に届いて、献げる心を整えました。十字架の上で死なれたイエス様は、全き人全き神として復活され、全世界に返されました。神に献げたものは無駄にはなりません。必ず、わたしたちが思いもよらない形をとって、時を超えて、より大きなもの、清いものに変えられて、私たちのもとに帰されて来るのです。

 『こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。』(ローマの信徒への手紙12章1節)
2015_10
04
(Sun)10:30

わたしたちを助けてください

使徒言行録12章20~25節

佐々木良子牧師

 ヘロデの元で囚われの身となっていたペトロは、教会の必死の祈りによって主が天使を遣わして奇跡的に脱出したことを先週共に学ばせて頂きました。本日はその続きです。ヘロデは自らの権威の失墜を避けることに精一杯で、番兵たちを処刑し騒動を収束に向かわせ、自分の権力を誇示したのです(19節)。

 そのような時、ヘロデが敵意を抱いていた住民たちが王の侍従に取り入り、和解の儀式が盛大に行われました(20~21節)。彼が演説を始めると「神の声だ。人間の声ではない。」(22節)と、集まった人々が叫び続けたのです。ペトロの事で痛い思いをしたヘロデですから、天にも昇る優越感に浸ったことと想像できます。「するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。」(23節)ヘロデの人生は自分の栄光を求め、地位・権力を守る事で無惨に終わりました。結局はそこから得るものは何もなく、自分の人生を自ら失うものとなったのです。

 12章には「天の使い」が頻繁に登場しますが、ヘロデを撃ち倒したのも、又、ペトロを助けたのも同じ天使です。一目瞭然です。ペトロが絶体絶命の時に、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」(12:5)と、「助けて」とひたすら祈る者には神は応えくださいます。一方、神の憐みを知らずにこの世を権力でものを言わせる者には容赦なく審かれる神でもあります。

 「見よ、わたしは今日、あなたたちの目に祝福と呪いを置く・・・主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、主の戒めに聞き従わず・・・呪いを受ける。」(申命記11:26~27)と、神は仰せになるごとくです。

 「神の言葉はますます栄え、広がって行った。」(24節)と、教会はこのように何度も荒波に呑まれながら危機を乗り越える度に成長軌道に乗って2000年以上神の恵みと御守りの内に歩み続けています。「この福音のために、わたしは苦しみを受け、ついに犯罪者のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」(テモテ二2:9)と、後にパウロが語っているように、神の言葉が語られ、実践されていくとき、人間の策略や企て等はものともせずに神の御栄光を顕していくのです。力なく人の目には弱々しそうな私たちで良いのです。神に熱心に「助けてください」と祈り、神の言葉に真実に生きるものを神は憐れんでくださいます。