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空虚の時に挑む
2016/06/26(Sun)

使徒言行録17章16~21節

澤田直子師

 『弾圧記念礼拝』 1942年6月26日早朝、ホーリネス系の教会は弾圧を受け、牧師は一斉検挙され、教会は解散を命じられました。拘留中に天に召された牧師、健康を激しく害して帰って来た牧師、本人だけでなく牧師の家族も試練の中に投げ込まれました。忘れてはならない事です。

 使徒の舞台はアテネに移り、パウロはここでも福音を宣べ伝えようと奮闘します。17:16 『この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した』 アテネは人口5000人ほどの小さな町でしたが、高い文化と学問を求めて、多くの人が訪れました。町のあちこちに飾られた偶像は人口よりも多かったと言われます。人々は、偶像に満足し、真の信仰を求めることもなく、毎日長い時間を空虚な議論に費やしていました。そういうライフスタイルが、身分の高い人々にはふさわしいものと考えられていました。

 エピクロス派は唯物論主義、ストア派は汎神論主義、彼らの議論に巻き込まれたパウロは、アレオパゴス(評議所)に連れて行かれます。それは学問上の議論を評価する場所でした。神の御言葉は、道に落ちた種のように、芽を出す間もなく鳥が来てついばんでしまいます。それでもパウロは語り続けます。福音を宣べ伝えることはパウロの命です。

 わたしたちの周りにも、アテネがあります。偶像が至る所に飾られて、空虚な「新しい事」に人々は振り回されています。アルコール依存、薬物依存、ギャンブルで苦しむ人もいます。自分や他人への暴力を止められない人がいます。オンラインゲームやSNS、ラインなど、一見便利そうに楽しそうに見えるものも、使い方を誤ると、膨大な時間を食いつぶし、人を傷つける道具にもなりかねません。

 しかし、そういう現代の偶像に振り回される人々をも、神様は愛しておられます。惜しんでおられます。ヨハネ3:16 『神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』 わたしたちは、この神様の愛に救われた者です。神様の愛を知る者として、ふさわしい歩みをいたしましょう。
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苦難、忍耐、練達
2016/06/19(Sun)

使徒言行録17章10~15節

澤田直子師

 パウロはその生涯に3回の伝道旅行をしました。移動の手段が徒歩だった時代に何百キロという旅を3回もしたのですから、福音伝道の情熱には驚かされます。Ⅰコリント9:16 『福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです』 べレアのユダヤ人は、テサロニケとは違って素直なうえに熱心でした。彼らは一生懸命に会堂に備えられた旧約聖書を調べます。今とは違って、字が読める者は限られていますし、聖書は巻物です。簡単ではなかったはずです。べレアの人々が熱心に聖書を調べたのは、それが楽しかったから、目からウロコのような体験を幾つもしたからでしょう。聖書は、読めばすぐわかる、というような書物ではありませんが、自分に向けて書かれた言葉と受け取って、毎日少しずつ読むと、いつのまにか心の飢え渇きに効いていることに気づく、いわば漢方薬のような書物です。

 べレアの人々がイエス・キリストを信じるや、テサロニケのユダヤ人が会堂に押しかけて福音伝道を妨げます。彼らは「自分は絶対に正しい」と信じこんでいるので、パウロはまともに論争せず、海岸の方へ逃げてアテネまで行きました。パウロは『蛇のように賢く、鳩のように素直に』振舞います。アテネといえば文化の中心地、ユダヤ人はパウロを追い出したつもりですが、パウロは福音伝道を進めているのです。

 パウロは、苦難に出会った時、嵐の中に飛び込んで潰されるような生き方は選びませんでした。忍耐すべきところでは雄々しく耐え忍び、これまでと悟ると身をかわして、新しい地へ赴きます。その結果福音は広がっていきました。さらにパウロは、自分を迫害するローマやユダヤのためにも祈り続けます。苦難が忍耐を、忍耐が練達を生むのです。「練達」は新共同訳聖書では「練られた品性」 リビングバイブルでは「人格は筋金入りにされ」と訳されます。そこから生まれるのは希望です。『希望はわたしたちを欺くことがありません。』 ローマ5:5。聖書を調べて喜ぶべレアの信徒の姿はパウロを励まし、希望となったことでしょう。わたしたちも、苦難を恐れず、忍耐から逃げず、練達を身に着け、希望を待ち望みましょう。
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ここにも来ています
2016/06/12(Sun)

使徒言行録17章1~9節

澤田武師

主題聖句 「大声で言った。『世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。』」
        17章6節より


 パウロは、安息日にユダヤ人会堂で、聖書を引用してイエス様を宣べ伝えました。当然信じないユダヤ人との間には論争が起こります。テサロニケでの出来事には、「伝道」に携わる者の姿が現されています。

 「伝道」広辞苑では「主にキリスト教で用いられ、教理を宣べて未信者に入信を促す」と説明されています。パウロは、「イエス様の十字架の苦しみこそ、わたしたちの罪のため、イエス様自らが贖いの生贄となられた。復活はイエス様が十字架の死からよみがえり、全ての罪からの救いを完成された。また、イエス様こそ、この全てを成し遂げくださるためにこの世にお生まれになられた。」と、大胆に宣べ伝えます。結果、信じた者が大勢起こされました。しかし、ユダヤ人たちは「ねたみ」、彼らを「世界中を騒がせてきた連中」と呼び、「ここにも来ています」と訴え出ます。この名前は奇しくも信仰者の真の姿を伝える名前でもあります。

 それは「教会の名」でもあります。ローマ皇帝が唯一の「主」であることが絶対の時代、イエス様を「主」と信じることは、死をも覚悟しての生き方を現しています。この名前は、何もこの時代の信仰者だけのものではありません。わたしたちの日常の中に起こる信仰の問題、真理を貫くことから起こる問題。この世から見ると「世を騒がせてきた連中」としていつの時代でも信仰者は存在します。

 パウロは「伝道」の成果として、その地域に教会が立ち上がることを目指しました。新たな地域に「教会を生み出す」、世界の隅々にまでイエス様を宣べ伝えていく「ここにも来ています」働きをも求められています。

 また、「わたしたちの名前」でもあります。新聖歌483番「両手いっぱいの愛」では“どのくらい僕を愛しているの”との問いにイエス様は“掌の傷”をお見せになりました。イエス様を知ってはいたが、今自分の心の中に来てくださっていたことに気づかされた。「世界中を騒がせてきた連中」が、わたしの名前として、イエス様に満たされた歩みが「ここにも来ています。」
そう呼ばれる伝道に励む教会として歩みましょう。あの人はイエス様を信じ、イエス様に満たされている。そう呼ばれる信仰者として歩みましょう。
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救いが満ちた夜
2016/06/05(Sun)

使徒言行録16章26~40節

澤田武師

主題聖句 「二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、家族も救われます。』」 16章31節

夜の大地震は囚人を解放しました。それは彼らにとって、奇跡そのものであることを示しています。しかし、誰一人牢から出ようとする者はいません。なぜでしょうか。そこにパウロたちが留まり、逃げ出そうとしなかったからです。囚人たちは、賛美、祈の言葉を聞いていました。その中に平安を感じ、神の真理を聞いたのではないでしょうか。彼らは自分たちが解放される、その本当の意味を、神の御心として知ろうとパウロたちと行動を共にします。神が彼らの足を留めます。これも奇跡です。

 看守は、囚人たちが既に逃げてしまったと思いこみ、絶望して自ら命を絶とうとします。パウロは「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」と声をかけます。彼はこの絶体絶命の時に、命の救いを得ました。そして彼も今神の業が現れ、それを彼らが示したと悟りました。「救われるためにはどうすべきでしょうか」問います。パウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と応答します。

 救われるために、「主イエスを信じる」とは。自分自身の中に何があるのか、悔い改めが必要です。ローマの信徒への手紙には「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」と記されています。それは「唯一の主」であることを信じることです。「主」と言う言葉をローマ皇帝以外に使えない時代、公に言い表すことは死につながりました。この信仰告白は重い言葉です。

 そして「復活を信じる」ことです。イエス様はわたしたちが経験する苦難を経験されるために、人となられました。唯一イエス様だけがわたしたちの罪の贖いのために十字架に掛かってくださいました。あらゆる方法をもって、その御手を伸ばしてくださり、共に居てくださるということを、感謝をもって信じることです。救いの勝利者としてのイエス様を信じることです。

「あなたの家族も救われます」救いの喜びは留まりません。この夜看守の家族は、救いの喜びに満たされました。救いの喜びは新しい主の家族を生み出します。
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