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主の言葉を聞く
2016/07/31(Sun)

使徒言行録19章1~10節

澤田 武師

主題聖句 『人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。』 5節

 パウロはエフェソに3年近く滞在しています。エフェソ伝道は、パウロの姿と同時にパウロに敵対する者、利用しようとする者、町の責任者たちの姿をも生き生きと記しています。また、起点としての「アポロ」の存在があります。

 当時、「アポロ」パウロと人気を二分するほどの有名人であり、彼の経歴は伝道者としては最もふさわしい人物であるといえます。しかし、彼はイエス様の福音は知らなかった。エフェソ伝道での最初の重要な課題は、「聖霊を知らない」信仰者たちへの伝道です。彼らは救いの恵み、贖いの命の存在も知りませんでした。

 キリスト教で「聖霊の働き」を理解することが、最も難しいことではないでしょうか。ある方の著作から、気付かされた聖霊の働きがありました。

 「聖霊」はわたしたちに普段は気づかない出来事、通り過ぎてしまう出来事に「気付き」を与え、それを「感動」「感謝」という「自分の感情」へと変えてくださる。ここまでは、誰でもできます。そして「行動」として「応答」してゆく。「愛のある行動」として応答してゆく。「聖霊」とは、わたしたちに「愛を伴った行動」「それを成し遂げる力」」与えてくださるために、与えられていると思います。時として「友のために自分の命を捨てること。これ以上に大きな愛はない」イエス様が告別説教の中で語られました。この愛を実行することができるとすれば「聖霊の働き」です。

 パウロが大胆に論じること、離れることも、留められたこと、すべて「聖霊」の働きです。結果「だれもが主の言葉を聞くことになった」と、「聖霊」が働き伝道の成果を示しています。パウロに終生働いた「聖霊」は、パウロの口からイエス様の言葉を失わせませんでした。たとえ、裁きの場でも、王や総督の前でもその口からはイエス様の言葉は失われませんでした。そして、多くの者たちが、パウロを通してイエス様を知り、信じ、その道を生きました。わたしたちにも同じ「聖霊」が働かれています。イエス様の御言葉を聞きましょう。御言葉に応答する愛を伴う歩みを、歩み続けましょう。

 追記 説教では柏木哲夫著「生きること、寄りそうこと」から一部を要約引用いたしました。
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聖書に基づく証
2016/07/24(Sun)

使徒言行録18章24~28節

澤田直子師

 パウロがカイサリアに向けて航行中、アレクサンドリアのアポロが登場します。当時のアレクサンドリアは世界一の図書館、博物館、大学を持つ都市でした。多数のユダヤ人が定住していました。アポロはそこで生まれ育ち、大学まで出たエリート中のエリートと言えるでしょう。アポロは旧約聖書を知っているだけでなく、研究してきた人です。救い主誕生預言、十字架預言など、旧約聖書のどこにどう書いてあるか熟知していました。そこに、ナザレのイエスこそが旧約で預言されたメシアであるという話が伝わりました。アポロの研究してきたメシア像とイエス様のお姿はぴたりと重なりました。知識だけでなく実行力も備えていたアポロは、早速、同胞のユダヤ人を訪ね歩いて、イエスはメシアであると述べ伝えました。それは旧約聖書に裏打ちされた正確で力強いメッセージでした。

 ところが、アポロの福音には聖霊が欠けていたのです。アポロの話を聞いてそのことに気付いたプリスキラとアキラは、民衆の前で指摘するようなことはせず、自宅に招いて説明します。これを受けるアポロも、テント職人夫婦の話であるにも関わらず、真摯な態度で教えを受けます。福音伝道に携わる者はこうありたいと思わされる、謙虚な姿勢です。『父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。』(ヨハネ14:26)イエス様の約束された聖霊の働きを知ったアポロは直ちにコリントに渡り、聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証します。

 わたしたちもまた、イエス・キリストの証人です。会堂を出たら、家庭・職場・友人など様々なところに遣わされます。さて、わたしたちの言葉や行いは、聖書に基づいているでしょうか。御言葉に裏付けられているでしょうか。今この時、十字架のかげに立っているでしょうか。それぞれが遣わされるところで、信仰を何によって表すか、どのように証するか、考えたいものです。『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』(ヨハネ7:38)
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神の御心なら
2016/07/17(Sun)

使徒言行録18章12~23節

澤田直子師

 パウロの第2回伝道旅行の終り近く、コリントでもユダヤ人による迫害がありました。アカイア州の総督ガリオンは公平で冷静な判断をします。ガリオンは哲学者セネカの兄で有名かつ評判の良い人物でした。政教分離とも言える判決例によって、キリスト教は、暴君ネロの迫害(紀元64年)までの約12年間、福音伝道の土台を固めることができました。さらに、この時ユダヤ人に殴りつけられた会堂長ソステネは、いつの間にかキリスト者となって、パウロと共にエフェソに行っています。

 イエス様の十字架を背負わされたキレネ人のシモンも、後には熱心なクリスチャンとなってパウロの伝道を助けています。神様のご計画は、信仰者だけに限定されるものではなく、全ての人が、信じようと信じまいと神様のご計画の中を歩んでいます。ですから家族や友人の未信者のために祈る時に何も心配することはありません。主に委ねて信じて祈りましょう。

 船旅の都合でエフェソに立ち寄ったパウロですが、福音は歓迎され、エフェソの人々はもっと滞在して教えてほしいと願います。しかし、『神の御心なら、また戻ってきます。』 パウロの言葉も行動も、もはや何一つ自分の意志ではありません。同行したプリスキラとアキラをエフェソに残して、パウロはエルサレムに向かいます。それが神の御心だったからです。

 わたしたちのささやかな日常にも、苦難があり恵みがあり、神のご計画があります。信仰者には思いがけないことが起こるものです。「神の御心なら。」この言葉を自分のものにできれば、何も恐れるものはありません。生きるも死ぬも、成功するも失敗するも、行くも留まるも、神の御心なら。

 これはイエス様のゲツセマネの祈りです。『しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』 (ルカ22:42)聖書のあらゆるところに、同じ祈りがあり、ご計画に従う者を神は決して見捨てない、という証しがあります。神の御心を聞く耳を持ち、受け入れる心を持ちましょう。従う勇気が与えられるよう祈りましょう。
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語り続けよ
2016/07/10(Sun)

使徒言行録18章1~11節

澤田 武師

主題聖句 「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。』」
                                                     使徒言行録18章9節


 「人生は出会いで決まると」とよく言われます。それは「偶然」という言葉で表されますが、キリスト教では神の御業「必然、」と考えます。
 
 パウロはコリントの信徒への手紙の中で「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」とコリント伝道は、弱い心であったことを率直に記しています。町は繁栄していますが、風紀は甚だしく乱れていました。しかし、神は「ここで」でも「出会い」を備えてくださいました。アキラとプリスキラのユダヤ人夫婦との出会、シラスとテモテとの再会は、パウロを宣教に専念させるために、まず生活の糧が備えらえました。パウロはどれほど力づけられたでしょうか。パウロは、福音を否定し、反抗する、口汚くののしるユダヤ人たちとも出会いました。パウロを異邦人伝道へと進ませる出会いとなりました。

 私たちの伝道は、伝えた相手が信じることまで心配して責任を負ってしまうことがあります。伝道に疲れを、恐れを感じてしまうのはこの心配、責任ではないでしょうか。伝道の方法は多様です。伝道は、愛と使命をもって果たせばよいのです。主はパウロに語られます「恐れるな」と。少数者である恐れ、神の言葉を伝える使命を託された者としての恐れを、パウロは感じています。日本ではどんな時代でもクリスチャンは少数者です。だから伝道しなければ、頑張らなければの「恐れ」が信仰の疲れを呼び込んでしまいます。「語り続けよ」「黙っているな」語らなければ迫害には遭いません。私たちも自分の中で信仰を守っている限りでは、誰からも危害も迫害もありません。

 コリント伝道での一番の成果は、パウロを伝道者として生き返えらせたことでしょう。そこには「わたしの民が大勢いる」との希望がさらに与えられています。主の御心で見た世界にはまだ福音を知らない多くの民がいる。私たちはその方々に語り続ける使命を与えられています。「わたしがあなたと共にいる」「恐れ」「不安」を希望に変えてくださる主と確かに「出会った」御言葉です。
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神の中に生きる
2016/07/03(Sun)

使徒言行録17章22~34節

澤田武師

主題聖句 「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。」 27節より

アテネの人々は好奇心によって「新しい知識」を求めてパウロの話を聞こうとします。しかし、パウロは「信仰」を宣べ伝えます。この説教は、聞く相手に対しての配慮と工夫がなされています。ここにパウロの、伝道者としての柔軟な考え方、たとえ、他の神々のことであっても、それをも伝道へと用いてしまう、パウロの伝道への意欲が感じられます。

 パウロは様々な神を信じている者たちを 「信仰のあつい方であることを、わたし認めます」 と相手の立場を否定しません。多神教は、人の不安から、多くの神々を作り出すことです。人の喜びの分だけ神を作りだすという事です。そして、その極めつけが「知られざる神」の碑文の言葉として存在します。

 アテネ伝道はパウロの 「至るところに偶像があるのを見て憤慨」 したことから始まりました。パウロは本当の神を知っていました。だから偶像を作ることが、信仰熱心と錯覚している人々に怒りを覚えました。本物を知らなければ、偽物も分らない。パウロは十字架の救いを確信し、それ以外に救われる道が無いことを伝えないではいられなくなりました。

創世記2章26節「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地を這うものすべてを支配させよう。』」 と、宣言されます。神は「神の似姿」としての私たちに、「信仰心、正しく生きる道、備えられた歩み」を与えてくださっています。私たちは、本物を見る目は、既に備わっています。しかし、私たちの周囲には、人が作り出し、あたかも万能と、価値あるもののように思えるため、信じてしまうものが氾濫しています。また、私たちの内にも偶像は作られます。自分自身が偶像となってしまいます。それに陥ってしまいます。あなたに偶像に対する怒りはありますか。信仰の鈍さが知らない間に本当の神ではなく、自分自身が神に代わってしまう。それすら気付かない者になってしまう。本当の神を知っている者は、いかなるものでも表すことの出来ない神を信じている者です。神は唯一、イエス様を私たちに見せて、私たちの日常の中に与えて下さいました。信じるのはこの方だけです。
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