後から来られる方
2017/09/10(Sun)

ヨハネによる福音書1章19~28節

澤田 武師

主題聖句 『その人はわたしの後から来られる方で、わたしにはその履物のひもを解く資格もない。』
        1章27節


 ヨハネによる福音書では、イエス様の公生涯を「洗礼者ヨハネ」の証しの言葉から始めています。

 「洗礼者ヨハネ」は自分の存在を 「荒れ野で叫ぶ声」 であると答えます。荒れ野は現実に彼が生活していた所でもあり、同時に「この世の荒れ野」をも意味しています。そこには命がありません。平安も希望もない所。多くの民が貧困や、ローマの支配にあえいで生きている場所、そこには救いはありません。

 しかし、その荒れ野にも救い主がお生まれになった。救いが訪れた。この喜びを彼は叫び伝えます。荒れ野は彼の声を消そうとしますが、「主の道をまっすぐにせよ。」 彼は、今その時が来た。準備を怠るなと叫び続けます。

 「わたしはメシアではない」と彼はとても強い言葉で、否定します。自分の存在が、イエス様を証しするための「声」であるにすぎないことをも受け入れています。それはイエス様が来られた時、その後は消え去る者であることを自覚しているということです。現代では音源を残すことが出来ます。説教や時代を変えた演説、美しい歌声などを録音して再現することが出来ますが、当時の「声」ヨハネは消え去ります。しかし、語られた言葉は聖書に記されて永遠に残ります。彼は、本当のメシア、救い主が誰であるかを知っていました。真実を知った者には、その真実から遠い、自分の存在が示されます。「洗礼者ヨハネ」は、自分とは誰なのかを知らされた人物でありました。

 「後から来られる方」 彼は、イエス様をそう表します。今はまだ誰にも知られていない方である。わたしはその方を証しするために生かされて来た。聖書の中で最も低きに徹した人物であることは間違いありません。だからこそ、いと高き方を指し示すことが、聖なる方を証しすることが出来るのです。

 今、あなた方は知ろうともしない。しかし、既に父なる神様の権威を受けられた方が来られている。後から来られる方に全てを委ねた者の姿がここにあります。一切の権威を明け渡した者だからこそ示すことができた、イエス様のお姿がここにあります。
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独り子である神
2017/09/03(Sun)

ヨハネによる福音書1章14~18節

澤田 武師

主題聖句 『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
        それは父の独り子としての栄光であって恵みと真理とに満ちていた。』  1章14節


 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」 ヨハネによる福音書が伝えるクリスマスには、人間の関与は一切記されていません。

 11節「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と、神様が人間となられた、この事実を世の中は受け入れませんでした。しかし、そこにイエス様を証しする者として「洗礼者ヨハネ」が備えられていたことをヨハネ福音書は記しています。

 ヨハネ福音書は突然 「言は肉となった」 と記します。何の説明もなく、突然に真理が語られます。この短い言葉には、神様がこの世の全てを創造され、人間も創造されたこと。最も聖なるものが、被造物である人間となり、イエス様となられました。イエス様はこの世にお生まれになっただけではなく、そのご生涯を全き人間として歩まれたことが、この言葉の中に含まれています。

 「わたしたちの間に宿られた」 ここでの私たちは、まさに「この世」のことです。この世に、神様がイエス様として共に住まわれる。共に生活をされる。共に苦しまれる。神様が私たちと同じ苦しみを経験される。このような事はあり得ません。

 イエス様は群衆の中に一人居られるのではなく、私とあなたとの間に宿られました。それは、人の目でだけではなく、神様の目をもって私とあなたとの関係を見ることを示されるためです。心にイエス様の御言葉の語りかけがあり、それまでは気がつかなかった人の弱さに気付き思いやり、自分の弱さも共に考えて、共に生きようとする心が、わたしたちに与えられました。「わたしたちはその栄光を見た」 とは、私たちの内にも御言葉が「肉」となるということです。神様に従う者の心が、愛の形をとって現実となったことです。

 それは、私も神様の愛が分かる者となり、相手を思いやる心、仕える心、謙虚な心が、愛の行動として形になるということです。
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