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6月13日 礼拝説教概要
2010/06/22(Tue)
「子供たちへの祝福」 マルコによる福音書10章13~16節

 人は我が子の幸福を切に願う。まして父なる神は、子なる私たちと私たちの愛する子供たちを大いに祝福したいと願っておられる。イスラエルでは創世記48:14-16に倣って、教師が子供の頭に手を置き全生涯と子々孫々に亘る祝福をしてきた。イエスの周りにも多くの人々が自分の子供を連れて来たが、弟子たちが人々を叱ったのでイエスは憤られた(13節)。イエスが「憤られた」のは福音書中ここだけ。当時の子供の生存率は極めて低く、ルカ18:15-17には「乳飲み子までも連れて来た」と記されている。私たちは「子供」に純真無垢・単純・絶対的信頼・利己的でない・謙遜などのイメージを持つが、宗教的には律法を記憶・理解・遵守できない者、宗教的人権を全く認められない「小さな者」である。ユダヤ社会の「子供」とは「弱く、貧しく、頼りなく、無きに等しい存在、全く功績や誇るものがないこと」である。

 14節は子供たちや子供たちのような者こそ主イエスのところに来て祝福され、神の国を所有し、神の国に入る者とされるという約束である。教会では何人たりとも求道者を妨げてはならず、偏見や蔑視や差別、或いは牧師の多忙も理由にならない。またヨハネ3:35では「新しく生まれること」が神の国に入る条件だと示された。新しく生まれるとは乳飲み子のようになること。15節の「神の国を受け入れる」とは、子供のように「弱く、貧しく、頼りなく、無きに等しい存在、自分には全く功績や誇るものがないこと」を認め、そのような価値観を要求する神の国を受け入れることである。しかしニコデモには宗教的指導者の地位・名誉・実績、教師の教養・プライドがあり、そのままでは神の国には入れなかった。

 今日、イエスは私たちに子供のようになれと言われる。弱く、価値なく、頼りなく、貧しく、功績も誇りも何にもないことを認めて、神様だけを信頼せよと言われる。私たちが主イエスをキリストと信じ、祝福を祈り求めて御前に近付く時、主は私たちを抱き上げ、大いなる恵みを以て祝福し、神の国に入る者として下さる。感謝してこれを受け、神が愛し私たちの愛する子供たちに信仰を伝え、神の子の役割を果たそう。ご覧なさい、主の御手は私たちの頭上に置かれている。
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