2017 / 05
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マルコによる福音書14章22~26節

佐々木良子牧師

 主イエスは過越の食事の席で聖餐式を制定されました。この食卓を共にしていたのは、ユダを初め数時間後に主イエスを見捨てて逃げ出した弟子達です。聖餐式は主イエスを裏切る者、自己中的な者が集められていました。主イエスは全てをご存知の上で聖餐式を制定されました。否、そのような者達だからこそ聖餐式を制定されたと言えます。このように最初の聖餐式は決して模範的な信徒が集められる食卓ではなく、主イエスを裏切る者達によるものでした。

 主イエスは十字架にお架かりになる時「父よ、彼らお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と、何をしているか分からない者を憐れみ、その命を与え尽くしてくださいました。裏切り断罪したにも拘らず、そのような者のために「取りなさい。わたしの体である。・・・これはわたしの血、契約の血である」と、全てを赦すためにその御身体を今の私達にも差出し続けておられます。どんなに裏切られようとも、私達を裁き苦しめる事によってではなく、愛し抜かれその御身体をお与えになりました。聖餐式はこのように究極の慰め希望ですから、信ずる者全ての人が招かれているのです。

 さて、ここで分け与えられたのは「一つのパン」「一つの杯」である事に注目します。原文はどちらも単数形で、一つのものを皆に分け与えられた事に意味を見出します。互いに主イエスによって結び合わされ一つとなった兄弟姉妹が神の家族となり、教会を建て上げていく為です。初代教会の交わりはこのパン裂きによって造られていきました。今の私達も同じです。しかし人が交わる所に罪が生じ、お互いを裁きたくなるような時がありますが、「多くの人のために流されるわたしの血、契約の血」(24節)と、私一人の為ではなく、裁きたくなる人の為でもあります。主イエスが体を裂き、血を流してくださった人を裁く自分は一体何者だろうという思いにさせられます。その人の為にも命を与えてくださったことに気付かされ、神の愛に立ち帰らせて頂く恵みです。

 「・・・神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(25節)聖餐式毎に主イエスは霊的にはご臨在くださいますが、厳密にいえば目に見えるお姿はありません。主イエスが再びおいでになる未来を待ち望みつつ聖餐に与っている現在です。主の聖餐は神の深い御心が凝縮されています。その恵みに溢れて生きるように招かれているのです。
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小松川教会HP委員会

Author:小松川教会HP委員会

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