2010_11
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(Sat)20:58

11月7日礼拝説教概要

「信仰の旅路」(召天者記念礼拝) 創世記12章1~9節


 誰もが死を迎えますが、死とは神が受け止めてくださる事です。「この人達はみな、信仰を抱いて死にました。」(ヘブル11:13)信仰を抱いて死ぬとは死は終わりではなく、新しい出発として希望を持って仰ぎ見る事です。この世の歩みは日々行き先の分からない冒険のようなものですが、アブラハムは神の祝福の約束を信じ、自分の廻りで起こった都合の悪い事をも受け取り、その都度新しくされながら歩み通しました。

 「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。」(1節)神からの命令でした。自分で良く考えたり、人に意見を聞いたのではなく、神の声を聞いての決断でした。信仰とは神と向き合いながら自分で決断するものです。生まれ故郷を離れて行き先知らず出て行く事は、神から頂く思いがけない出逢い・出来事・試練によって自分というものが崩され、新しく造り変えてくださる事に期待する姿勢です。

 約束された祝福の地は既にカナン人がおり、決して楽な道ではありませんでした。アブラハムは行く先々で行き詰まり祭壇を築きました。祭壇を築くとは、目の前にある状況に埋没せず、礼拝をお献げして神の前に一人で立って、自分の行くべき所を示されて前進して行く事を示しています。アブラハムはロトと一緒に出発しましたが、後に決別の時が来ました。信仰生活は親しい人と楽しく一緒に歩むものではなく、一人一人が神の前に出て決断しながら歩く道です。「狭い門から入りなさい・・・命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7:13~14)と、命の道に通じる門は狭いもので、皆で賑やかに入るものではないと、主イエスは仰せられます。

 行き先は見えませんが、神は「大丈夫、あなたの行き先は全て見えている」と仰せられます。礼拝をお献げしながら神の愛と主イエスの復活の力に依り頼み、助けられながらこの世の旅路を終え、やがて神の御元に召される時、この地上より遥かに優れた恵みの天国へと迎えられます。
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