2011_01
30
(Sun)05:55

死から命に至る道

エフェソの信徒への手紙2章1~10節


 罪からの救いについて記されています。神から救われる以前は神との正しい関係を結ぶ事が出来ずに神に背を向け、自分の肉の欲望に支配され罪を犯し、神の怒りを受けるべき身でした(1~3節)。このような状態は肉体は生きていても心は死んでいる状態です。「しかし」と4節から「憐れみ、恵み、慈しみ」「キリストと共に、キリストによって」という言葉が続きます。人が死と滅びの暗黒の世界の中にいるのは神の御心ではありませんから、憐れみ豊かな神の一方的な恵みにより罪から救い出され、復活の恵みに与りました。それだけではなく、神がおられる天の同じ席にまで着かせて頂けるように、既に予約までされています(4~8節)。救いの業は完結していますから、私達がしなくてはならない事は何一つありません。感謝する事だけです。救いは人間が勝ち取ったのではなく、人が誇る事のないように只、神の一方的な愛、恵みです(9節)。

 「・・わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(10節)「業」は複数形で記されており様々な善い業です。罪ある肉のままでは善い業を行う事は不可能ですが、神の愛と憐れみを受けて罪赦された者は、神によって様々な善い業を行う事ができるように造られています。救われた者として、神に感謝し神の愛に応える生き方が善い業となっていきます。主イエスは「あなたがたは地の塩である・・・世の光である」と、権威を持って宣言しております。神の憐れみを受けて遣わされた地において、神の御栄光を廻りの人々に輝かせて証しする事に繋がっていきます。「こんな自分をも赦してくださった」と、罪から買い取られ、この命を頂いた事を感謝し続け、神の偉大さをこの身で証し続ける為にこの世に存在しています。神が期待されている善い業は、救われた者としての輝きを世に照らし続ける事です。
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