イエス・キリストの壮絶な祈り

2011.04.03 16:33|2011年度

マルコによる福音書14章32~42節


 十字架に架けられる直前、主イエスは弟子達と最後の晩餐を終え、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの弟子達を伴われ、祈る為にオリーブ山へ出かけられました。3人を伴われたのは、せめて最期の時、共に祈って欲しいという思いからです(38節)。奇跡を数々起こされ、どのような事にも動じない神の子イエスが「ひどく恐れてもだえ始め・・・死ぬばかりに悲しい」(33~ 34節)と、今迄の姿から想像できないお姿です。更に「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」(36節)と、記されています。これから起こる事があまりにも耐えがたい恐るべき事だからです。十字架刑につけられる恐怖でも、人間が経験する不安や苦難の恐怖でもありません。「アッバ父よ」は「お父ちゃん」という、幼児と父親の深い交わりの関係の言葉で、父=神との断絶される苦しみの叫びです。主イエスはいつも神と共におられました。しかし、その主イエスが私達の身代わりに神からの裁きを受け、呪いを受け、神に捨てられる恐ろしさに耐えられなかったのです。神との断絶がいかに恐ろしく、主イエスの上にのしかかった私達の罪があまりにも恐ろしい事を示しています。

 しかし、このように主イエスが血の滴り落ちるような壮絶な祈りをお献げしておられる時、弟子達はその深刻さの中に眠っていました。人は自分の罪から目を背き、神に背き、自分の最も暗い部分に目をつぶっています。大切
なものを見ようとしても肝心な時に眠りこけています。しかし、全てを御承知で「・・・わたしが願うことではなく、御心に適うことがおこなわれますように。」(36節)と断絶される恐怖をも全て神に委ねられ「立て、行こう。」(42節)、と決然と十字架に向かって行かれました。眠りこけるような罪人にも拘わらず人を愛し、その命を神の見元へと引きよせる為にゲッセマネでの壮絶な祈りが今も私達の為に献げられています。大きな苦難に遭遇すると「神に見放された」と思ってしまいますが、十字架刑の犠牲を払って迄私達を愛してくださっておりますから、決して見放される事はありません。主イエスの祈りの向こうにある永遠の命の希望に招かれています。与えられているこの命に感謝し、救われた感謝を多くの人に現していけますように。
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