何でもはっきり見えるようになった
2013/03/03(Sun)

マルコによる福音書8章22~26節



 信仰者にとっての祝福の基は、信仰の目が開かれてイエス・キリストのお姿を見ることです。「主イエスと出会った私の人生は満たされ、いつ死んでも良い。」と、賛美したシメオンという老人の事が、ルカによる福音書2:25~32に記されています。彼は救い主にお会いするまでは決して死なない、と聖霊によりお告げを受けていましたが、いよいよ実現し、救い主である幼子イエスを抱き上げ神を賛美しました。「この目であなたの救いを見た。」から長い人生は十分に満たされたので、いつ死んでも良いというのです。救いを見るとは、主イエスの十字架のお姿です。十字架によってこそ自分の罪が示され、悔い改めと同時に罪の赦しが与えられます。故に主イエスとの出会いこそが私達の人生の目標で、同時に神の深い愛と恵みを分からせて頂けるのです。

 本日の箇所は主イエスが盲人を癒やされた事が記されています。しかし、肉体的な癒しだけではなく、神の恵み、つまり神の御業が展開している有様を見ることができるように、主イエスが直に触れてくださいました。彼と同じようにかつての私達は目があっても神の恵みが見えていませんでした。生まれながらの目をいくら見開いても、目にするのは闇の深さだけです。絶望的な闇の中で新しい世界を見る事ができるようになるために、主イエスが目を開いてくださるのです。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」(24節)主イエスは群衆の中から盲人を連れ出し目に唾をつけ、両手をその上に置かれて尋ねました。しかし、まだはっきりと見る事ができなかったので、再度目に手をおかれました。「…よく見えてきていやされ、何でもはっきりと見えるようになった。」(25節)見えるまで主イエスが私達に触れてくださって、やがて信仰の目が開かれ、十字架の主イエスのお姿がはっきりと見えてきます。そうして、主イエスとの交わりが始まり、信仰の目が少しずつ開かれて信仰が成長していきます。これこそが私達の人生の目標であり、何よりもの慰めと希望です。この経験を毎週の礼拝で体験させて頂いています。

 人は神を信じようとする時、しるしを求めたがるものです(8:12)。しかし、肉眼で主イエス・キリストを見ていても神の深い真理、恵みは見ることはできません。主イエスが手を差し伸ばして触れてくださっておりますから、混沌とした世界に一筋の真実の希望の光が貫いているのが、はっきりと見えるようになったのです。「この目であなたの救いを見た」と告白できる事は感謝です。
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