2013_03
17
(Sun)10:30

萎えた手を伸ばせ

ルカによる福音書6章6~11節



【祈りと試練】 『祈りとは私たちが自分の内に鑿(のみ)を当てて、キリストの似姿を彫りつつあること』であり、『試練とはキリストの似姿・神の似像になるまで神様が私たちを削って下さること』だと言われている。ヘブル書も主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるのだから、主の鍛錬を軽んじるな、主の懲らしめに力を落とすなと記している(12:5-6)。しかし主の与え給う試練は、世界規模の天変地異や大震災から、戦争や内紛、人種差別や宗教迫害、教会の不一致や分裂、会社や学校や家庭内の不和、個人の失業・貧困・病気・怪我・失恋・別離、その他多岐に亘り、信仰の足りない私たちは、時に戸惑い、容易く落胆し、傷付き、疲れ果て、もう二度と傷付くまいと縮こまり、その手は死んだように力を失い、枯れた骨のように萎えてしまうのである。

【萎えた手】 ある安息日に会堂で礼拝する人々の中にイエス様がおられ、右手の萎えている人もいた。「萎えた手」「萎えた」は原語(ギリシャ語)で「クセーロス」といい、「乾いた」「枯れた」「硬直した」「衰弱した」「やせ衰えた」の意。七〇人訳のエゼキエル書37章「枯れた骨の谷」にも同じ単語が使われている。イエス様はその人の背後にエゼキエル書37章の「枯れた骨の谷」の光景を見ておられた。この時、「枯れた骨」は口伝律法に縛られ死人同然のイスラエルの民、そして世界中の亡び行く人々であった。イエス様は右手の萎えている人に「立って、真ん中に出なさい」と言われた(8)。真ん中に立った彼の右手を見た人々は悟った。彼は仕事を失い、今日の食事にも困っている。それでも彼は神に依り頼み、礼拝を献げているのだ。手は萎えたままだが・・・。

【あなたの萎えた右手を伸ばせ】 詩編16:8-11が示すように、右の手は「神との親しい交わり」を意味する。私たちの主なる神は、絶えず私たちの右におられ(つまり弁護して下さり)、私たちが右手を差し出すならば、主は力ある右の御手から永遠の喜びを溢れるばかりにお与え下さるのである。今朝、イエス様は「手の萎えている人」と同様に世界中の人々に、日本の教会に、小松川教会に、そして私たち一人一人に向かって、傷付くのを恐れて縮こまったあなたの右手を、あなたの萎えた右の手を伸ばしなさいと命じておられる。試練を恐れずイエス様の御言葉に信じ従おう!主は私たちの手を元どおりにして下さる!さぁ!右の御手から永遠の喜びをいただこう!ハレルヤ!

【祈祷】 「あなたの萎えた右手を伸ばせ」と命じて下さる主よ、私たちはあなたを信じます。主よ私たちは試練を恐れません。右に在す主よ、どうぞ私たちの手をどこまでも御心のままに伸ばして下さい。永遠の喜びを下さる主よ、どうぞ福音を伝える御手の指先として、私たちを用いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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