2017 / 05
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マルコによる福音書9章2~9節



 「・・・イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」(2~4節)  主イエスの地上での人としてのお姿は仮のお姿で、この眩いばかりの主イエスの御姿こそ本来のお姿なのです。

 主イエスが十字架にお架かりになる、と予告された一週間後、御自身の御姿が変わったという記事が記されています。エリヤとモーセは旧約聖書の代表的な人物で、主イエスと共にいるという事は旧約の預言がいよいよ成就するという事を意味します。十字架は無惨な敗北で終わるのではなく、神の栄光に続いており必ず栄光に至るという、神の御心がはっきりと示されています。

 この出来事は十字架の予告に対して不安になっているペトロ達に、この地上の歩みは必ず天の栄光つながっていると、復活の希望をご自身のお姿によって示してくださいました。その「栄光と誉れ」は、やがての時に私達もそのように輝かせてくださると約束しております(フィリピ3:20~21)。

 栄光の輝きについては「…この都には、それを照らす太陽も月も、必要ではない。神の栄光が都を照らしており、子羊が都の明かりだからである。」(ヨハネの黙示録21:23~26)と、具体的に記されています。そのお姿を先取りして見せて頂いたペトロは感極まり、小屋を建てて恵みを留めておこうとしました(5節)。しかし、私達が信じている神は山の上に留めて崇め奉るようなお方ではなく、人間の手中に納まる神でもありません(使徒17:24)。神の御心は高い所から裁かれ、罪人を見捨てられる事はなさらず、主イエスをこの世の罪の暗闇に送られ、十字架につけ復活させて救いを完成させられる事です。私達と共に嘆き、心を痛め、地上を共に歩んでくださる為です。故に山から彼らと共に降り、いよいよ十字架にお架かりになる道を一筋に歩まれました(9節)。

 「これはわたしの愛する子、これに聞け」(7節)、とありますが、私達にも語られているお言葉です。主イエスは「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と、常におっしゃっております。しかしながら、自分を捨てるという事は困難で、一生の課題ですが、できる、できないではなく「そうしよう」という決意はできます。決意して歩んでいくうちに、主イエスが十字架と復活という神のご栄光に至ったように、私達も主イエスによって、神の栄光に与れるように、導かれていくのです。
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小松川教会HP委員会

Author:小松川教会HP委員会

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澤田武主任牧師

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