2017 / 04
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「待ち望む心」 マタイによる福音書 25章1~13節

 ⑴「教会成長はクリスチャンが妨げている」の著者、車順潤女史に言わせると、福音は人間の力で伝えられるものではなく、聖霊によらずして出来ないことですが、聖霊が臨在されている人は、「聖別意識」を持っているとの特徴があると言うのです。
 み言に忠実に従う人ならば、人は万物の中で聖別された者、神の御霊に生かされている尊い存在であることは知っていますが、み言に従おうとしない自己本位な人の特徴は、聖別意識がなく、そのような人は確信も喜びもなく、それ故に信仰生活には葛藤が多く、情緒不安定であり、現実に起こる問題にいつも振り回されてしまう、このような人によって教会の権威は地に落とされ、聖霊によって清められ、高められなければならない教会を物質と人間の学識の下に置いてしまう、聖別なき信仰者は自分の罪に悩むことはあっても、聖霊を汚す罪、すなわち、この世でもあの世でも赦されることのできない罪を恐れない、聖別された者の身分を意識して生きる者の中だけで働かれる聖霊によって教会は正しく成長する、と言うのです。

 しかし、サタンは世の光である神の子を恐れ、どんな暗黒でも小さな光にかなうことが出来ないように、クリスチャンは聖別意識に生きる光の子となってこそ世に勝ち、従って教会の権威は世に輝くのです、と結んでおられました。私たちは聖霊に満たされ、はっきりとした聖別意識を持っているか否かが問われているのです。

 ⑵愚かなおとめたちだけでなく、賢いおとめたちすらも眠り込んでしまいました。実は私たち皆がそのような弱さを持っていることを前提にして、主イエスはこのたとえを語っておられるのです。
 愚かであるか、賢いかの違いは、予備の油を備えていたかどうかという点にありました。この油を賢いおとめたちは、愚かなおとめたちに分けてあげたくとも、分けてあげる事の出来ないものでした。
 「罪の赦しの恵み」は、本人が主イエスを信じ受け入れなければ、他の人から分けてもらうことは出来ないものです。「聖霊」もしかりです。当人が自らを主イエスに明け渡すことなくして、聖霊に満たされることは出来ません。
 信仰は理屈ではなく、体験出来ることです。御霊のことは御霊によってしか知ることは出来ません。主イエスの恵みによって罪赦されているとの信仰に立つならば、再臨の主の前に平安なる思いをもって立つことが出来ます。キリストの御霊である聖霊に満たされているならば、思い煩うことなく常に平安です。

私たちの今の状態は、果たして再臨の主イエスの前に平安なる思いをもって立ち得るでしょうか。
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小松川教会HP委員会

Author:小松川教会HP委員会

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澤田武主任牧師

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