特別礼拝 「人生の旅路の同伴者」
2015/05/31(Sun)

ルカによる福音書24章13~35節

竹澤知代志牧師(玉川教会牧師)


 エルサレムからエマオまでイエスさまと一緒に旅した二人は、イエスさまが寄り添い聖書を解き明かす言葉・説教を聞いていましたが言葉を理解できず、イエスさまだとさえ分かりませんでした。『二人は「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った』(32節)と、彼らは心が燃えていても分からなかったのです。

 その後、イエスさまが旧約聖書を論拠として十字架と復活について論じられ、イエスさまご自身の口から説教が語られ、イエスさまが食卓でパンを取り、祝福して割いて彼らに渡された時、二人の目が開かれました(30節)。聖餐式の起源となった最後の晩餐の出来事を連想します。「パンを割いてお渡しになった」(30節)とは、イエスさまご自身を渡されたことを象徴しており、この時彼らの目が開けたという事が決定的です。真の出会いがここに起こっているのです。全く、イエスさまからの一方的な恩みとしてのみ、この食事は実現しました。そして、私たちはそのような恩寵を求める所は聖餐式であり、礼拝そのものです。彼らの目を遮っておられたのを明けられたのも、神の力、神の御心です。エマオ途上に現れたイエスさまが語りかけて来られたこと、聖書が読まれたこと、お祈り、説教そして聖餐、全て礼拝のプログラムです。聖餐を中心とする礼拝の信仰順序なのです。エマオへと向かった彼らは既にイエスさまと出会っていますが、彼らの救いにはなりませんでした(19~21節)。キリストとしてのイエスさまとの出会いを待たなければならなかったのです。復活の主としのイエスさまとの出会いによって、私たちは初めて救いを見出すことができます。信仰は大勢の仲間と礼拝を守っていても、一人一人が神さまの前に立たなければ礼拝にはなりません。しかし、信仰は孤独ではなく仲間がおり、信仰が受け継がれています。「代々の聖徒と共に使徒信条を告白す」る群れなのです。仲間が大勢いる事は大事ですが、肝心な事は信仰が受け継がれていることです。

 さて「神の沈黙・不在」を覚える時がありますが、それは十字架上の沈黙で、そこで人間の贖いを、人間の救いを語っておられます。イザヤ書53章では、十字架と復活の間に起こるべき出来事、主は黄泉に降っておられます。これをもし「神の不在」と呼ぶとすれば、これこそが救いの印なのです。聖書の御言葉に聞く者には神は言葉をもってそして沈黙をもって語りかけて下さるのです。
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