2016_11
06
(Sun)10:30

友なるイエスは

ヨハネによる福音書20章1~10節

澤田 武師

主題聖句 『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか
        わたしたちには分かりません。』     20章2節


 「聖徒の日の礼拝」は既に天に帰られた兄弟姉妹を偲び、今日礼拝を共に奉げます。あるクリスチャンの精神科医の方が人の死について、「人間は過去・現在・未来と継続的に続くことを健康的な生き方として考えている。それが親しい人の死を契機に関係が切れてしまう。その人との関係に幕が降ろされてしまう。しかし残る者は尚も生き続ける。それが残る者に“悲しみと混乱”をあたえる。この“悲しみ、混乱”から解放される方法として、クリスチャンにはイエス様の復活を信じるという事が重要な意味を持ってくる」と、語られていました。

 イエス様の十字架の死は、突然の事であり弟子たちに“混乱”を与えました。更に、“復活”は混迷を深めました。ヨハネはこの朝の出来事を、イエス様のお体が“墓の中になかった”そして“わたしたちにはわかりません”と記します。弟子たちの言葉が“混乱”をよく表しています。

 イエス様を包んでいた亜麻布は、丸められて置いてあります。弟子たちは現実を“見て、復活を信じました。”しかし、9節「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、2人はまだ理解していなかったのである。」すべてを理解できたわけではありませんでした。

 聖徒らの信仰の歩みは様々です。しかし、全ての信仰者に共通の条件があります。聖書の言葉を全て理解できたので、イエス様を救い主と信じたのではありません。全てを理解するどころか、生涯をかけても聖書は理解出来ないでしよう。それでも信じ生きて来られたのです。

 それは、どのような時にも、イエス様は“友なるイエス”として、私たちの涙をぬぐい、重荷を負ってくださるからです。私たちの弱さを知り、共に寄り添ってくださる。愛をもって、支え、導いてくださる。“友なるイエス”がいつも一緒にいてくださる。この最愛の友と地上を歩み、天へと帰る。私たちに与えられた神の豊かな慰めであり、永遠の命の源です。
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