2009_07
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(Wed)20:41

7月12日 礼拝説教概要 

「いつまでも望みをおく」 詩編40:1~18

⑴ある心理学者が「朝、目を覚ますとき真っ先に思う事があなたの本音です。」と語っておりました。「本音」は、兎角、マイナスイメージのことが多いものですが、信仰に生き、主を信頼していると言いつつも、本音の部分で不信仰な言葉や思いが生じてくることを否む事はできません。何を私達は本音の部分においても真の希望としているかを今朝の箇所は問います。

 「ヤベツの祈り」という世界で800万部発行されたベストセラーがありますが、この本が結論的に勧めていることは、遠慮することなく、「神様、私を祝福してください」ということでした。主は恵みを求める者に恵みを与えてくださるお方です。けれども、この恵みは決してご利益的に与えられるものではありません。祈りと御言を通して主が示してくださることは、恵みに与るのに相応しくない罪ある自分自身の姿です。しかしこのことは非常に大切なことです。神が祝福を与えようとするのは立派な人物ではなく、己が罪に泣く人です。ですから祝福を求めようとするものは、本来ならば自己中心である訳はありません。自分の罪を示され、それを認め、悔い改めるときに神の祝福が与えられるのです。「神様、今日の私を祝福してください」と祈る後に、「このような罪人ですが」と加えるのが、更に正しい在り方であると言えます。

⑵絶体絶命の状況の中でダビデが行ったことは、讃美と祈りを主に献げることでした。使徒言行録16章に出て来るパウロもシラスも同様でした。結果、彼らは牢獄から出る事ができました。それだけでなく、その結果、責任をとって自殺しようとした二人の看守のみならず、彼らの家族も救いの恵みに与ることができたのです。

ダビデは「主にのみ、わたしは望みをおいた」(2)と告白しました。この主はいつもでも私達にとっても望みであり、救い主でもあります。そしてこのお方は、ダビデ同様に、滅びの穴、泥沼から私達をも救ってくださるお方です。
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