2月14日 礼拝説教概要
2010/02/14(Sun)
「人を癒す御言葉」 詩編107編19~43節

1.主は御言葉をもって癒されるお方です。私達は霊的存在として創造されましたから、霊的な飢え渇きを抱くのは当然のことです。もし霊的な飢え渇きを感じていないとするならば、肉体は生きていても霊的には生ける屍のような状態になっているのかもしれません。「無知であり」(17)とありますが、新改訳聖書では「愚か者」となっております。どうやらこの人物は罪に支配され、その犯した罪故に死の門近くまで来て苦しんでいるようです。しかしそのような彼にとって救いに至る大きな転換点がありました。それは苦難の中から主に救いを求めることでした。そのような彼に対して主がなされたのは、御言葉をもって癒すということでした。故にこの病は単なる肉体上の病ではなく、霊的な病に陥っていることが分かります。そのために、主は御言葉を遣わして彼らを癒し、破滅から彼らを救い出された。」(20)、と作者は賛美を献げます。

2.「彼らは天に上り、深淵に下り、苦難に魂は溶け」(26)とありますので、彼らは苦難を通して人間の本質的な部分、深淵の部分で取り扱いを受けたようです。その結果、「主の御業を、驚くべき御業を見た」(24)と告白します。何故、主は嵐を起こされたのか、それは苦難によって魂が溶けることを願い、このような御業をなされたのです。「どのような知恵も呑み込まれてしまった。」(27)とあるように、苦難を通らされることを通して、この世の知恵には何ら救いはない、主のみが救いであることを悟らせようとされたのです。苦難の中で酔っ払いのようによろめき、揺らいでしまったこの魂は、この世の知恵に救いを求めず、主に助けを求めて叫ぶと、波は静まり、彼は望みの港へと導かれて行きました。信仰に生きるとは知識や理解のレベルではなく、経験できる世界における生き様であると言えます。主は真の救いを与えるために、否救いの源である御自身を求めさせるために、苦難をお与えになられるのです。それは見せかけの救いではなく、真の救いを与えるためです。
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