2017_06
11
(Sun)10:30

命へ導く言葉

使徒言行録27章27~38節

澤田 武師

主題聖句 「だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。
        あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなること はありません。」    27章34節


 パウロのローマへの船旅は、最初から“風に翻弄される”船旅になりました。今、船は“エウラキロン”と呼ばれる暴風雨の中で、ただ漂流するのに任 せるだけです。風は時として「追い風」にも、また「向かい風」にもなります。物事を加速させることも、また絶望の中に留まらせる力にもなります。今 にも座礁、難破する不安と死への恐怖だけが、この船には満ちています。

 パウロはこの命の危機の中で、神様の声を聞きます。神様から託されたローマへの船旅であるからには、絶望にある者の命を守り、神様が全てを供えてく ださっている旅であることを語ります。

 そして船員たちは、夜の闇の中で、経験から陸地が近いと感じました。実際 に測ると水深は37メートルしかありません。確実に陸地は近くにあります。それは、命が助かるという希望が与えられたということです。

 しかし、新たな不安も生まれます。浅瀬に座礁する恐れもあるということです。パウロは陸地が近いことを知り、神様の約束が成ると確信しました。そして、今まで食事をすることも忘れていた者たちへ、上陸までの体力を保つために、食事を取ることを勧めます。この食事は、神様がパウロに託された一人一人の命を養うことになります。皆が一つになって食事をする。パウロが命へと導いた言葉は、今ここで、だれ一人残さず命を与える食卓に招かれた者たちに成就しました。

 パウロが準備したこの食卓は、これまでパウロが語ってきた神様の約束が確かであり、間もなく成し遂げられることを具体的に表した出来事です。暴風雨の中、何も希望がない中、先に喜びと感謝の食事をいただける。この食事は、皆を元気づけ、今まで一番望んできた希望となりました。

 私たちは神様が行われる御業を、到底全て理解するとはできません。しかし、神様の御言葉を土台として「何か食べてください」と言えるのです。確かな神様の約束として「元気を出しなさい」と励まし、救いを宣言できるのです。
2017_06
04
(Sun)10:30

あなたがたに告げる

ヨハネによる福音書16節5~15節

澤田 武師

主題聖句 「だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
16章15節

 イエス様は弟子たちに、自分に代わって“弁護者”をあなた方に与えると約束されました。弁護者とはヨハネが書き記している聖霊のことです。「真理をことごとく悟らせる」聖霊は、神の真理とは何かをはっきりと悟らせるためにあなたがたに与えられる、と記されています。

 イエス様は、弟子たちに、別れが差し迫っている事を伝えます。弟子たちにはその意味はよく分かりませんが、「あなたがたの心は悲しみで満たされている」とあるように、弟子たちにとっては言葉を失うほどの現実を受け止めなければなりません。イエス様と一緒の歩みが終わる。「どうしてですか」「なぜですか」言葉にできない弟子たちの心の声です。

 イエス様のお言葉は、わたしが去っていくのは、それはあなた方のためになることであると続きます。別れに続いて新たな出会いが準備されていると話されます。もし、聖霊が降らなければ今もキリスト教は世界の一地方の宗教だったかもしれません。「一人一人に聖霊が降る」そして、世界のすべての者たちに「真理を示す」ために「弁護者」が与えられる。これは神の約束です。

 この世は罪に満ちている。神に逆らう生き方をしている。神の裁きがある。聖霊はこの世の暗闇をはっきりとわからせてくださいます。一人一人に聖霊が満ちた時、私たちの視線は神の真理を見る視線となります。その時、この世の誤りが見え、神の御心が分かります。私たちが神のご計画の中に生かされている者であるとはっきりと知ることになります。弟子たちが使徒として歩む、その準備が始まることを伝えています。

 聖霊は、一人一人に神を証しする言葉を、イエス様を信じる信仰を与えてくださいました。ペンテコステの日、人々は集められ、礼拝をして、共に祈り、持ち物を分け合いました。ここに教会が誕生します。この時から今日まで、教会は地上にあり続けています。教会は神の真理を伝えるところです。神の真理によって集められた者が、共に歩む場です。

教会は、そこに集う者が聖霊によって改めて自分の存在を知る場であります。
2017_05
28
(Sun)10:30

だれ一人滅びない

使徒言行録27章13~26節

澤田直子師

 紀元1世紀の船旅は、原始的かつワイルドなものでした。風任せ波任せで、天候頼みの部分が大きかったのです。冬を越すために移動しようと船出したパウロ一行は、クレタ島名物の山から吹き下ろす強風に吹き流されて、どんどん島から離れて行きます。風はそのまま嵐となりました。地中海の秋から冬によくある、何日も吹き荒れが続く本格的な嵐です。

 船中の人々は、助かる望みも消え失せ、何日も食事もできない有り様でした。そんな中で、パウロは立ち上がります。 『皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。』 一見何の希望もない、嵐にもまれる船の中で、この言葉を口に出すのは勇気のいることだったでしょう。

 パウロ自身、本当に生きてローマに行けるのか、と不安を覚えながら一心に祈ったのだろうと思います。そこに神の天使からの言葉 『パウロ、恐れるな』。天使の決まり文句の『恐れるな』です。恐れのあるところに、いつも神様は働かれるのです。第二コリント1:4 『神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。』 パウロだけでなく、どんな伝道者にも、信仰者にもあてはまる御言葉ではないでしょうか。

 わたしたちがキリストの体の一部であるならば、キリストの苦しみ悲しみの一部を引き受けなければならない時があるのです。イエス様がゲツセマネの園で祈られたように、わたしたちもそこから動けない祈りを祈る日があるのです。そして、そこで神様の慰めを知る時、『恐れるな』という言葉が自分のものなり、慰めを求める者から慰める者へと変えられます。

 わたしたちはキリストの体の一部ですから、キリストの言葉として 『『神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。』(ヨハネ3:16)。』 と宣言できるのです。

 世の荒波の中で希望を失っている隣人のもとに行き、「ただ一人も滅びません」と宣言しましょう。それは神の御心です。
2017_05
21
(Sun)10:30

前途が多難でも

使徒言行録27章1~12節

澤田直子師

 パウロは、いよいよローマに向かって出発します。百人隊長ユリウスはパウロに一目置いて親切に扱い、仲間のルカやアリスタルコも同じ船に乗るという恵まれた船出でした。しかし残念ながら海に出るには、季節が少し遅かったのです。地中海では夏の終わりから春になるまで、強い風が吹き荒れます。パウロはそれを心配しましたが、船長と船主は大丈夫だろうと判断し、百人隊長ユリウスも船長の判断を支持しました。

 パウロは、おそらく危険な目に遭うだろう、船は難破するだろう、と予想しながら、船に乗っていきます。これは不思議なことに思えますが、しかし、信仰生活とは、時に、冒険が待ち構えていることを承知の上で前に進まなければならないことがあるのではないでしょうか。

 パウロと同じように船に乗って嵐に遭った預言者、旧約聖書のヨナは、海に投げ込まれて魚に飲まれ、三日目にニネベの海岸に吐き出されました。神様のご計画は成就するのです。

 イエス様の十字架の死を見届けた律法学者は、自分たちの天下だと喜んだでしょうが、実はそうではなかった。復活のイエス様に会った弟子たちはもうこれで大丈夫と安心したでしょうが、そこからが本当の出番でした。

 わたしたちが世を見て判断することと、神様のご計画の進み方は違います。パウロはそのことをよくよくわかっていました。だからこそ、海が荒れることを、危険な目にあうことをわかっていて、神様のご計画の中に飛び込んで行ったのです。

 キリスト教を言い表す言葉が幾つかあります。「愛の宗教」「体験の宗教」など。その中に「にもかかわらず」の宗教、という言い方があります。パウロはキリスト教の迫害者だった。にもかかわらず、福音を伝道する者に変えられた。皆さんの信仰生活の中にも、たくさんの「にもかかわらず」があるのではないでしょうか。

 前途の多難さに立ちすくむわたしたちと、「神は共にいます」というのがキリスト教です。神共にいますならば、パウロのように前途に何が見えようと、主に信頼して世に漕ぎ出して行きましょう。
2017_05
14
(Sun)10:30

今、福音を聞いた

使徒言行録26章24~32節

澤田 武師

主題聖句 「今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。」  26章29節

 フェストゥスは、パウロの弁明を中断させます。偶像の神で心が満たされているローマ人には、「福音」「良き知らせ」は届きませんでした。

 アグリッパ王は、パウロの話が充分でないと答えをごまかしますが、実は自分の信仰の矛盾に「つまずき」を覚えてようにも思われます。このつまずきが「福音」を「聞く者」となることを退けました。

 信仰生活の中には「つまずき」を覚える時もあります。信仰につまずくのではなく、正確に言うならそこで行われる「人間の現実」につまずくのです。私たちに与えられた「福音」は決して私たちをつまずかせない。「福音」は決して裏切らない。パウロの問いは、今私たちは本当に「福音」を信じているのか「福音」に土台を置いているのかとの迫りに聞こえます。

 29節「今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。」このパウロの言葉は聞き方によってはとても傲慢であると思えます。事実、パウロに対して「頭がおかしい」「説き伏せるつもりか」と決めつけている彼らにとっては、「福音」から離れる決定的な言葉となってしまいました。

 「今日この…神に祈っています。」この言葉はパウロの生涯を貫く信仰者としての姿勢を表した証詞です。復活のイエス様に出会い、神様の愛によって罪赦された者として生まれ変わり、どこでも誰にでもイエス様の福音を述べ伝える者として生かされて来た。自分ほど神様の愛に生かされている者はいない。自分の存在の意義を知っている者はいない。パウロは神様を知ることは、自分自身の存在をはっきりさせることであると確信しています。

 イエス様は、種を蒔く人の例えを話された後、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われました。「聞く耳のある者」とは、復活のイエス様に捕らえらえて、その生涯をかける者のことです。すなわち今証詞をしているパウロの存在を受け入れることができる者です。パウロを受け入れることは、パウロの生き方を受け入れることです。パウロが生きた同じ道を選ぶことです。

 私たちにも福音を伝える者、福音の恵みの中に歩んでいる信仰者として、存在自体が証詞となれるように祈りましょう。