2018_02
18
(Sun)10:30

永遠の命に至る

ヨハネによる福音書4章27~38節

澤田直子師

 弟子たちはサマリアの町から食べものを買って帰ります。入れ替わりにサマリアの女は町の人々を呼びに行きます。弟子たちから食事を勧められたイエス様は 『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』 と言われます。まだ使徒として遣わされていない弟子たちには、この言葉の真意はわかりません。キリスト教には、頭で学んでもわからない、実際に自分の身に起こったこととして受け入れなければ理解できないことが多くあります。それを、わかりませんから信じられません、というのではなく、わかりませんが信じます、というところに信仰の力があります。

 35節 『刈り入れまでまだ4か月ある』 とはユダヤの諺で、何事もすぐに結果は出ない、という意味で使われます。ここでは、遠くの方に、サマリアの町から女に連れられてやってくる人々の姿が見えたのかもしれません。霊的な成長は、時を待たずに起こり得ることを示しています。ついさっき、ひとりの女性が救われました。もうすぐ、何人ものサマリアの町の人が救われ、2~3日後にはほとんどの人が救われるでしょう。

 イエス様は全き人でありながら全き神ですから、天に用意されている刈り入れの報酬が見えているのですが、地に住む人間にはそうはいきません。ヨハネ14:2~3にある、イエス様が天に用意してくださる父の家が、刈り入れ人の報酬です。この報酬のために、旧約聖書の預言者たちも命がけの働きを捧げました。地上の生活で働きが報われた人は多くありませんでしたが、皆、天上の報酬を信じて神に従い通し、その働きは今も手から手へと途切れることなく受け継がれているのです。

 サマリアの女の話を通して、目に見える奇跡はおこりませんでした。イエス様が疲れて座っておられた。サマリアの女と話した。女が町の人に話した。イエス様がそこにおられる、イエス様にお会いするというのは、これほどの力を生むのです。サマリアの女は、たった一度イエス様にお会いして、立派に刈り入れ人として用いられました。わたしたちにも、報酬は既に用意されています。召しに答える弟子となりましょう。

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2018_02
11
(Sun)10:30

渇きを潤す

ヨハネによる福音書4章16~26節

澤田 武師

主題聖句 「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 24節

 ヨハネは10節~26節に、イエス様とサマリアの女性との間に交わされた言葉だけを記しています。それは読者に、話された言葉にのみに集中して、私たちも一緒に立ち会っているような緊張感を与えることを意図して書かれたと思います。イエス様が女性に問いかけた言葉を、私への問いかけとして聞く、それはこの記事を読むたびにサマリアの女性が救われた事実を、私の救いとして追体験することです。イエス様が私に何を求めておられるのかを、繰り返し知ることを、ヨハネは私たちに求めていると思います。

 「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」イエス様の問いは、サマリアの女性に「わたしには夫はいません」との現実を告白させます。「あなたは、ありのままを言っただけだ。」イエス様の応答は女性の過去、現在を否定せず、裁きの言葉でもありません。女性が今連れ添っているのは夫ではない事実を全てご存じであって、そのために渇きを覚える女性にかけられたイエス様の優しさを感じられます。

 女性は赦しを求めてイエス様に迫ります。「婦人よ、わたしを信じなさい」。このお言葉の中に女性が求めていた答えは全てあります。イエス様は神様を礼拝する場所を整えてくだる、その時が来ることを示してくださいました。

 「霊と真理をもって礼拝する」とイエス様は繰り返されます。とても大切な事です。「霊」とは、言い換えれば「こころを込めて」という意味です。形式や儀式、外見だけでなく、そこに神様に真剣に祈る心を、献げる礼拝を現しています。「真理」とは、イエス様の十字架は神様と直接に出会う道を、イエス様を信じる者すべての者に開いてくださいました。そのイエス様を通して献げられる礼拝です。ここに「その水をください」との女性の最初の祈りの答え、赦され者への救いが与えられる約束があることが示されています。

 イエス様は今はっきりとサマリアの女性に話されました。サマリアの女性の渇きは潤されました。彼女は命の水を与えられている喜びに気付かされました。目の前にいるイエス様に気付かされました。

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2018_02
04
(Sun)10:30

その水をください

ヨハネによる福音書4章11~15節

澤田 武師

主題聖句 「女は言った。『主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。』」 15節

 イエス様は御言葉を通してサマリアの女性に「生きた水」を与えられました。「生きた水」は女性の心を変えて行きます。女性は、この見知らぬこの旅人の言葉によって、自分でもよくわからない、何か特別な思いが与えられたことに気付きました。しかし女性はすぐには現実から離れることができません。昔からあったヤコブの井戸は深く、ここに住む者たちを生かし続けて来た、それ以外の水を「どこから手に入れるのですか」と、イエス様に問います。

 13節イエス様の御言葉「この水を飲む」とは「律法」を現していると言えます。律法を守る、その行いによって救いが与えられる。しかし、時間が立てばまた喉が渇くように、律法を守らなければ、救いから外れてしまう。それは、「この水を飲んでも」心の渇きからは完全には解放されないということです。

 「生きた水」とは「福音」です。イエス様を信じて「わたしが与える水」を飲むことにより、自分の内側に豊かに湧き出る泉のごとくに、人に永遠の命を与え、「再び生かされる」。完全に潤されるとういことです。

 女性は答えます。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。彼女が全てを理解し受け入れたのではありません。しかしここには本当に求めているものが示された者の言葉、信仰の告白があります。女性はもうこれ以上、渇きを覚える生活を繰り返したくない、やめてしまいたいと強く願うようになっています。その力となったのが、泉となって心の渇きを潤す「生きた水」です。「その水をください」 サマリアの女性が、初めて祈り求めた言葉です。それはイエス様を隣人として受け入れ、また、救い主と信じた者の祈りの言葉となりました。

 皆さんはイエス様に、最初に何を祈り求めたかを覚えておられますか。その時が、皆さんとイエス様が隣人となった時、救い主であると知った時です。サマリア伝道は、この女性の、生き返る喜び、救いの喜びを求めた祈りが、第一歩となったことを記しています。真っ直ぐにイエス様に切に祈り求める心が、祈り手だけでなく、世をも変えていく力を持つということです。

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2018_01
28
(Sun)10:30

生ける水を求めよ

ヨハネによる福音書4章1~10節

澤田直子師

ユダヤ地方からガリラヤへ行こうとすると、途中にサマリアがあります。当時のユダヤ人は、サマリアを嫌ってわざわざヨルダン川沿いの回り道を通りました。サマリアは北イスラエル王国の首都でしたが、紀元前722年にアッシリアに滅ぼされて後は、混血が進みました。ユダヤ人はそんな所を通ったら汚れると考えたのです。しかしイエス様はあえてサマリアを通ります。

 5節に出てくるシカルの井戸は、創世記にも何度か記される「シケム」です。イエス様はここに、旅に疲れて座っておられました。神の独り子として、疲れや飢え渇きを克服することはできたでしょう。しかし、後で来るサマリアの女の目に、立派すぎて近寄りがたく見えないように、疲れて渇いている必要があったのだと思います。まことに主は、わたしたちのところまで降りて来てくださるお方です。

 水を汲むのは女性の仕事ですが、重労働なので、朝早くまだ暑さが来ない内に、何人かで連れ立って助け合うことが普通でした。ですから、真昼に一人で水を汲みに来るのは異例のことです。そこでイエス様の方から声をかけるのも、異例中の異例です。ユダヤ人の宗教指導者は、家族以外の女性に声をかけることはなかったそうです。イエス様は「水を飲ませてください」と話しかけました。上から目線で、教えてやろう、助けてやろう、というのではなく、女性の親切を求めたのです。

 また8節では、弟子たちが食べ物を買いに行っていたとありますが、これは明らかにイエス様がそうお命じになったのでしょう。もしこの場に弟子たちがいたら、サマリアの女は、怖気づき、心を閉ざしてしまったでしょう。イエス様は、この女性と一対一で話をしたかったのです。

 イエス様は、たった一人の女性を救うためになんと綿密な、思いやりのあるご計画を立てたことでしょうか。同じように、わたしを、あなたを救うために、主はどれほどのことを計画し実行してくださったでしょう。主と出会った時を思い起こし、生きた水を求めて歩みだしましょう。

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2018_01
21
(Sun)10:30

神の言葉を話す

ヨハネによる福音書3章31~36節

澤田直子師


ヨハネによる福音書3章の終わりは、洗礼者ヨハネによる証です。洗礼者ヨハネ自身が祭司の家系に生まれた奇跡の子どもでした。しかしヨハネにとっては、自分のところに留まられては困るのです。何とかしてイエス様の方へ行ってもらわなくてはなりません。

 イエス様の方でも、ご自身には分かり切っていることが、愛する弟子たちには理解できないという難しさを持っておられる。福音書には、イエス様がご自身を証しされている言葉が記されていますし、十字架と復活についても3度も話されていますが、弟子たちは理解しません。結局、洗礼者ヨハネの証しであれイエス様のお言葉であれ、受ける側の問題なのです。

 32節「だれもその証しを受け入れない。」は、ゼロではなく、ほんのわずかな者が該当することを表す言葉です。そのわずかな者だけが33節 「神が真実であることを確認したことになる。」 この「確認」は、普段使いではなく、重要な書類や証文を一字一句確かめてサインをして責任を持つくらいの重い意味を持つ言葉です。

 キリスト教は関係性を作っていく教えですから、自分一人が理解しても救われても、それだけでは不十分です。その福音を、あなたは誰にどのように伝えますか、と問われます。その方法論を知るために、わたしたちは何かというと聖書を読み、御言葉から学ぶのです。

 イエス様が天に属するお方でありながら、この地上に来られたのは、最も高い所から低い所へ来てくださったということです。癒しの奇跡を多く行われたのは、痛みや苦しみを憐れんでくださるお方である証です。 「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話す。」 イエス様の言動は神の御心そのものでした。しかし、もともと地に属する私たちも、主の十字架の贖いによって神の子と呼ばれる以上は、やはり神の霊をいただいて、神の言葉を話すのです。申命記30:14「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」 できる、と主は言われます。「神の言葉を語る」日々を歩みましょう。

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