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神のミステリー 
2011/02/20(Sun)

エフェソの信徒への手紙3章1~13節


 「秘められた計画が啓示によって私に知らされました。」(3節)

 異邦人は神から選らばれていない故に汚れた民だと、ユダヤ人より差別されていましたが、神のご計画はユダヤ人のみならずイエス・キリストにおいて異邦人も同じように神の民とされると、パウロは神の秘められた奥義を示されました。異邦人に福音を伝える事が主から委ねられた使命であると、パウロは自らを「キリスト・イエスの囚人」(1節)と称して異邦人伝道に命を献げ尽くしました。

 「・・・異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」(6節)同じ集団というレベルを超えて、一つの同じ体に属し共に異邦人も神の民とされます。主イエスは自らを医者に譬えて、罪人はそのままでは滅びに至るので、罪という病を治す為にこの世に来られたと仰せられました(マタイ9:9~13節)。キリストの元にあっては何の差別もありません。恵みを受け取るのに同じ体であり、共に永遠の命を受け継ぐ者です。私達もそのようにして神の憐れみによって招かれ、罪から救われた者です。

 パウロはローマ帝国によって捕らわれ、囚人の身でありながらも「キリストの十字架のほかに、誇るものが決してってはならない」と、生涯に亘って全存在をもって福音伝道に命をかけました。私達が誇るものは何でしょうか。どのような功績を残したか、どのような仕事をしてきたか、どのような名誉を頂いたか、ではありません。何者でもない者が、神の憐れみによって罪から救われ、神の民にされた事、それだけが誇りです。あらゆる差別や偏見の心を打ち砕いて頂き謙虚にされ、共に一つの体としての教会を建て上げて行く為に、神の御栄光を現す為に教会に遣わされています。それが神の秘められた奥義です。教会に遣われされている、という事はその一事だけです。
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安息日の主
2011/02/13(Sun)

ルカによる福音書6章1~11節


 ユダヤ教では安息日である土曜日に礼拝するが、キリスト教では主イエスが復活された日曜日を安息日として礼拝を守っている。

●安息日は神が私たちに与えて下さった休息の日である。
「そして、彼らに言われた。『人の子は安息日の主である。』」(ルカ6:5)
安息日は人類に対する神の愛の現れであり、出20:10b、出23:12b、出31:13bなどにその精神が記されている。ファリサイ派はモーセの律法に様々な規定(口伝律法)を加えてイスラエルの民を束縛し滅びへ向かわせたが、主イエスは父なる神から頂いた愛の精神に基づく律法解釈(マタ22:37-40)を説き人々を救いへと導かれた。安息日は神が私たちに与えて下さった休息の日である。休息を与え給うた神に感謝しよう。

●安息日には善を行い、生命を救うべし。
「そこで、イエスは言われた。『あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。』」(ルカ6:9)。
主イエスほど神の目に善なることを追い求めたお方はいない。どんな時にも躊躇なく私たちに善を行い、私たちの生命を救われた。人々に善をせず人々の生命を救わないことは、主イエスの目には即ち悪を行い滅ぼすように映る。私たちにもキリスト者だからこそ出来る善がある。躊躇することなく世の人々を教会にお招きし、生命と魂の救いへ導こう。

●『人の子は安息日の主である。』
私たちが熱き信仰を以てこの御言葉を振り返る時、「人の子」とは私たちの救い主、主イエス・キリストであることを確信する。私たちの罪を全て担い、御自ら十字架に架かって私たちを贖われたお方である。イエス・キリストこそ私たちの主である。そのお方が復活された日はなんと素晴らしい日か。私たちは日曜日を安息日として礼拝を捧げ、主の復活を祝うのである。

ハレルヤ!『人の子は安息日の主である。』
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キリストにある平和
2011/02/06(Sun)

エフェソの信徒への手紙2章11~22節


 キリストの血による和解について記されていますが、初めにイスラエルの民と異邦人との和解が記されています。イスラエルの民は神から選ばれた民という間違った選民意識・プライドから異邦人を蔑視し、敵意という壁を作っていましたが(11~13節)、十字架によって民族の隔てが取り除かれ、外国人も寄留人の差別もなく聖なる神の家族となって教会を建て上げていく姿が描かれています(14~22節)。

 イスラエルの民のみならず人は「汝と我、神と私」の関係を結ばず、人との関係の中で自分の立場を守ろうと、人と比較しながら壁を作って優位な立ち場を得ようとして、敵を作りながら歩みます。主イエスは、神の律法を必死に守って自らを誇るファリサイ人と、罪を悔い改める徴税人の話をされました。ファリサイ人はプライドを守る為に常に背伸びをして傲慢になり、人との比較の内に壁を作り蔑視していました。徴税人は「神さま、こんな罪人の私を憐れんでください。」(ルカ18:13)と、罪の赦しを願う対照的な姿が描かれています。この二通りの姿が教える事は神との関係で罪の赦しを乞う生き方か、人との関係で自分を正当化するかの違いです。アダムが罪を犯した時、罪を認めず「女が」と、言い訳をし、女は「蛇が」と言い訳しましたように、神と直結できない私達人間です。このように神に対して罪を犯し、神の栄光を受けるに相応しくない者となった人間に対して、神自らが敵意を打ち壊し交わりの回復の和解の道を開いてく為に十字架に架かってくださいました(14~18節)。主イエスが望んでおられる事は、互いの敵意と罪を悔い改めて、和解する事です。主イエスは最後迄ご自分の身を守ろうとせず、不義を甘んじ、奪われるままにその身を差し出して息を引き取られました。私達の傲慢と敵意を打ち砕く為です。徴税人の如く「罪びとの私を憐れんでください」と、傲慢と敵意をキリストの恵みによって打ち砕かれるよう祈り、キリストにある平和を作り出し神の家族とさせて頂きましょう。
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死から命に至る道
2011/01/30(Sun)

エフェソの信徒への手紙2章1~10節


 罪からの救いについて記されています。神から救われる以前は神との正しい関係を結ぶ事が出来ずに神に背を向け、自分の肉の欲望に支配され罪を犯し、神の怒りを受けるべき身でした(1~3節)。このような状態は肉体は生きていても心は死んでいる状態です。「しかし」と4節から「憐れみ、恵み、慈しみ」「キリストと共に、キリストによって」という言葉が続きます。人が死と滅びの暗黒の世界の中にいるのは神の御心ではありませんから、憐れみ豊かな神の一方的な恵みにより罪から救い出され、復活の恵みに与りました。それだけではなく、神がおられる天の同じ席にまで着かせて頂けるように、既に予約までされています(4~8節)。救いの業は完結していますから、私達がしなくてはならない事は何一つありません。感謝する事だけです。救いは人間が勝ち取ったのではなく、人が誇る事のないように只、神の一方的な愛、恵みです(9節)。

 「・・わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(10節)「業」は複数形で記されており様々な善い業です。罪ある肉のままでは善い業を行う事は不可能ですが、神の愛と憐れみを受けて罪赦された者は、神によって様々な善い業を行う事ができるように造られています。救われた者として、神に感謝し神の愛に応える生き方が善い業となっていきます。主イエスは「あなたがたは地の塩である・・・世の光である」と、権威を持って宣言しております。神の憐れみを受けて遣わされた地において、神の御栄光を廻りの人々に輝かせて証しする事に繋がっていきます。「こんな自分をも赦してくださった」と、罪から買い取られ、この命を頂いた事を感謝し続け、神の偉大さをこの身で証し続ける為にこの世に存在しています。神が期待されている善い業は、救われた者としての輝きを世に照らし続ける事です。
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絶大な働きをなさる神の力
2011/01/23(Sun)

エフェソの信徒への手紙1章15~23節


 「・・・あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知る事ができるようにし、心の目を開いてくださるように・・神の招きによってどのような希望が与えられているか・・絶大な働きをなさる神の力がどれほど大きなものであるか悟らせてくださるように」(17~19節)心の目が開かれて肉の目では見えない神の恵みの世界・神の御業の世界を、主イエスを通して体験させて頂き、絶大な働きをなさる神の力を知ってほしいと、パウロの切なる祈りが記されています。

 神を知るとは「厳密で正確なしかも体験的」な事を意味しています。イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、救いに与る体験を通して希望が与えられる事を知る事が神を知るという事です。

 かつてパウロはキリスト者を迫害する者でしたが、イエス・キリストによって180度変えられて偉大な伝道者となりました。迫害している最中彼はキリストに打ち倒され目が見えなくなりましたが、その後キリストの赦しを体験し「目からうろこのようなものが落ち」目が開かれ、目の前に神の御業が展開している希望の世界が見えるようになりました(使徒9:1~20)。この体験を通してエフェソの教会の人々にも、目が開かれて神の恵みと配慮の世界をその目で見てほしいと願っています。目が開かれた世界は一度知ったから全てが分かるものではなく、知れば知るほど、絶大な働きをなさる神の世界が深く展開していく世界です。天国に帰る時まで毎回「目からうろこ」の世界を見させて頂き、味わい深い希望の人生を歩ませて頂いている事に感謝を献げる者とさせて頂きます。尚、混沌とした中にいますが主イエスとの交わりを通して、絶大な働きをなさる神の力を益々悟らせて頂けます。「教会はすべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(23節)聖霊の働きにより御言葉を悟り、主イエスを復活させた力と希望が与えられる場が教会です。週毎の礼拝において全ての恵みの招きに与っている私達です。
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