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2月8日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
2009/03/01(Sun)
「再臨その時」 マタイによる福音書24章29節~35節

(1)主イエスは十字架を目前とされた時、再臨について語られました。
この後の例え話しのいずれも再臨の主とどう向き合うかが語られております。すなわち、私達にとっての最終ゴールは、主イエス・キリストの再臨のその時です。終末の徴(しるし)ではないかと思えるような現実的な出来事が見えます。まだまだ先のことかもしれません。けれどもいつ来ようとも、誰もがその時を迎えなければなりません。果たして私達にとって、喜びの時となるでしようか、あるいは恥ずかしさを覚える時となるでしょうか。

(2)再臨の時に、明確な徴が現れることを主イエスは語られます。それは「人の子の徴が天に現れる」(30)ということです。古来からの考えとして、天に十字架の徴が現れ、主イエスが十字架に掛けられた意味を全ての人々がはっきりと悟らさせられるのではないだろうかという考えです。無論飽くまで推定的な考え方ではありますが、いずれの形にしても神の独り子を十字架に掛けてしまったことが示され、全ての民族が悲しむ時が来る、と主イエスは語れらました。
 もう一つの注目点は「人の子は大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」(30)ということです。すなわち、「もしかしたらメシアかもしれない」というような暖味な形ではなく、誰もが「この方はメシアである」と確信せざるを得ない形で、主イエスは再臨されるというのです。その時、人々は自らの罪を悲しみつつ再臨の主イエスを仰ぎます。

(3)神の言葉は必ず成就します。けれども主イエスは「これらのことがみな起こるまでは、この時代は滅びない」(34)とも語られました。マルチン・ルターは「信仰とは待つことだ」と語りましたが、キリスト者は再臨の主イエスを待つ者です。そして大切なことは36節以降にあるように「目を覚ましている」ということです。ウィリアム・バークレーは「およそものを考える人間ならば、次の三つのことを間わざるを得ないであろう」と語り、①「私は一体誰なのか」②「私の住むこの世界は、どういう世界なのか」③「この変化する世界の背後にあるカは何なのか、また何者なのか」という間いを掲げ、「これらの根本的な問題を携えて聖書に赴くなら、我々はそれが全部答えられているのを、とりわけイエス・キリストにおいて答えられているのを見出すであろう」と。主イエスは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(35)と語られました。
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1月25日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
2009/03/01(Sun)
「内面を見る主」 マタイによる福音書23章25節~39節

(1)本日の箇所は山上の説教と対になっております。山上の説教は8つの幸いが語られているのに対して、本日の箇所は7つの不幸が語られております。23章14節の御言の後に、太自の十字架のようなマークがありますが、以前ここにもう一節あったが、外されたことを意味しております。有力な写本にこのことがなかったために、定本から外されたのですが、以前の翻訳では8つの不幸が記されていた時代もあった訳です。
 しかし明らかなことは、幸いと不幸は対となり、表と裏の関係にあることが意識されていたようです。山上の説教の最初が「心の貧しい人々は幸いです」で、始まっておりますが、「心の貧しい人」とは、自分には何もなく、神以外に頼るもののない人を意味します。一方の不幸な人々のタイプとして最初に語られる人々は、「先生」、「父」、「教師」と呼ばれることを好む高ぶる者、偽善者であると主イエスは、13節以降に語っております。主イエスが問われているのは内面です。

(2)偽善者の特徴は、罪の現実を暖味にする点に現れてきます。「墓」や「記念碑」とはどのようなものでしょうか。過去の偉業を讃えるものです。「預言者の墓を建てる」ということは、どのようなことでしょうか。預言者と彼を通して告げられた神の御言を過去のものとして葬り去り、自分とは関係ないものとしてしまうことです。律法学者、ファリサイ人たちは、表向きは敬っているようであって、自分たちに向けられている神の言葉を過去のものとし、拒もうとする頑なさを彼らの姿の中に見出します。

(3)エルサレムの町をご覧になられ嘆かれた主イエスの嘆きは、今の私達に向けられた嘆きでもあります。この度イスラエルに研修旅行に行かせていただき「主泣きたもう教会」に行くことができました。そこにはめん鳥の親が雛を羽の下に集めて守ろうとしているレリーフがありました。そのめん鳥は言うまでもなく神の姿であり主イエスはその救いへと招こうとしておられるのです。
 「主の名によってこられる方に、祝福があるように」(39)は21章9節において子ろばに乗って主イエスがエルサレムの町に入場された際に、迎え入れた大勢の群衆が叫んだ喜びの声ですが「主の名によってこられる方」とは、主イエスを指しております。主イエスは「今から後、決してわたしを見ることがない」と語られましたが、この世から離れようとしておられる主イエスは、再臨されるお方です。この後十字架に追いやろうとする人々も主イエスを歓迎し讃美するその時が来るのです。
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2月22日 礼拝説教概要 東海林主任牧師
2009/03/01(Sun)
「原石は静寂なり」 ヨハネによる福音書15章1節~17節 

(1)実を結ぶ事は主よりの命令ではなく約束です。ですから歯を食いしばって、一生懸命努力して実を結べ、とは主イエスは言われませんでした。この約束を信仰をもって受け入れるならば、あなたは実を結ぶことができる、と言われるのです。その場合の問題点は、主イエスと結び付いているかどうかとの点にあります。
 主イエスに繋がるならば三つの根本的な問題が解決します。第一は過去の問題に対する救いが与えられる、ということです。「御子イエスの血によってあらゆる悪から清められる」(ヨハネ-1:7)とあるように、罪は赦され、きよめていただく恵みが与えられます。故に過去の問題を引 きずり苦しむことはありません。
 第二は将来にある最大の問題である「死」に関して救いが与えられているということです。なぜならば主イエスは復活の御業をもって、救いを与えてくださったからです。
 第三は過去の問題と将来の問題が解決されているとい うことは、現在の問題をも解決されていることをも意味します。なぜならば、現在はキリストに在る未来の希望に問題は問題でなくなってしまうからです。
 主イエス・キリストの「十字架」、「復活」こそ、過去、現在、未来に至る全ての問題の解決、救いです。

(2)実を結ぶ秘訣が7節にありますが、三つのポイントがあります。①「わたしにつながっていれば」、②「わたしの言葉があなたがたの内にいつもある」、③「望むものはなんでも願いなさい」ということです。「そうすればかなえられる」と主イエスは約束されました。信仰生活の中で祈りが応えられた体験や神に取り扱っていただいた体験をすると信仰生活が実に楽しいものになります。どんなに困難な問題が起ころうとも、信仰に生きる者は必ず乗り越える道が主より備えられていることを体験的に知っていますから、ハードルが低く見えて来るものです。

(3)16節において、神の選びが語られていますが、愛なる主イエスにつながることが実を結ぶことの秘訣です。問題は原石に戻ることです。キリストの愛に応えてゆける者は、無色透明な原石のような存在です。その中には「主を信頼する思い」以外のよけいなものが入っていませんから、そこから生まれてくるのは豊かな実です。原石から生じる静寂な心、すなわち主を待望する心をもって、主がなしてくださるみ業を期待しつつ、信仰をもって歩みを続けてまいりましょう。
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2月15日 礼拝説教概要 佐々木副牧師
2009/02/21(Sat)
「行き着く場所」 ローマ信徒への手紙12章1節~8節

 イエス・キリストは私達の罪から救い出す為に苦痛の中、十字架にお架かりになり、その命を献げてくださいました。その犠牲に応える為に自分の身体を献げ(1節)、神から託された使命を全うするように、と記されています(6~8節)。キリストに結ばれている私達は神に対して特別の働きがあり、その為に全ての人に賜物が与えられています(4~6節)。ですから賜物を自分の楽しみや名誉の為に用いるのは目的が違います。

 奉仕等の働きは神に向かって成されるものですから、人の様子を見てするものではなく、他人がどうであれ、神の恵みに対して感謝と喜びを持ってお献げする事が、神の御心です。隠れた事を見ておられる神が報いてくださり、答えてくださいますから、右の手にする事を左の手に知らせる必要はありません。旧約聖書のネヘミヤ記に神殿建築の際に携わった人々とその働きが忠実に残っています。私達の奉仕もこのように天国に記されていますから、何という感謝な事でしょう。

 信仰の喜びは十字架に結び付く献身を通してのみです。私は信徒の方々から多くの事を日々教えて頂いておりますが、我が振りを教えられのは、無言の内に陰で一生懸命、神にお仕えしておられる信徒の方々の後ろ姿です。その背中を見せて頂く度に、いつも神から「あなたは本当に神に教会に仕えているか?」と強烈に問われます。そうして、今一度新たな思いで神と人の前に立たせて頂いております。そのような後姿に牧師は支えられ、教えられて成長させて頂くのです。このようにして関係を結びながら、信徒の方も牧師も共に自分の限界を超える働きをさせて頂いて、教会は祝福され前進していくのだと思います。共に献身の中で喜び、感動を頂きながら成熟させて頂き、行きつく場所は更なる神の恵みの元に置かれます。

 このように賜物を持って、犠牲をもいとわず積極的に信仰生活を目指すには、慎み深さが必要であると記されています(3~5節)。どのように大きな働きに見えようが、他の人と共に自分も用いられているに過ぎず、キリストの体の一部としての働きでしかない、という事を弁えていないとならないとあります。多くの肢体の一つの働きに担わせて頂いている、という認識が慎むという事です。お互いが他の支えとなって、この身を献げながら人をも生かしていくのが教会です。共にその使命を全うしていきましょう。
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2月1日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
2009/02/07(Sat)
「惑わされることなく」 マタイによる福音書24:1~14 

⑴主イエスは「この世の終わりがある」ことを明言されました。そしてそのことに伴い様々な徴が現れることを語られました。しかし大切な心掛けは、「惑わされないこと」いうことです。また主イエスは殊更に不安を与えようとして語られたのではなく、「世の終わり」は、「救いの完成の時」であることを語っておられます。この神が定められた最後の到達点を見ずに、社会的環境を通して現れる世の終わりの徴だけを見るならば、人は絶望せざるを得ません。

⑵人は不安を抱くどの時代においても確固たる寄り所を求めているものです。ガリラヤという田舎から出て来た主イエスの弟子達の目には、エルサレムの神殿は実に荘厳で、頼りがいのある存在でした。ところが主イエスは、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と語られました。弟子達には不動な存在に見える神殿が崩壊するなどということは、想像すらすることのできないことでした。そのような彼らに対して主イエスは「これらすべての物を見ないのか」(2)と語られました。
すなわち「あなた方は本当のものが見えていない、本当に寄り頼むものは何か」と問われたのです。

⑶主イエスは終末に伴う6つの徴について触れられました。①「わたしがメシアだ」と、惑わす偽者の出現。②戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くこと。③民同士の敵対や飢饉、地震。④信仰故に殉教者が起こること。⑤つまずき、裏切り、憎しみ合いが起こること。⑥不法がはびこり、愛が冷えること。いずれも私達の置かれている現実です。真面目に生きようとする者が馬鹿を見るような現実、人を愛そうと思っても、必ずしも愛をもって応えられるわけでもありません。むしろ善をもってした業が、悪意をもって応えられることすらあります。結局これらの徴が現れる先には何があるかと言うと、刹那的な生き方と破滅でしかありません。この先世の中はどうなってしまうのか、誰もが不安を抱いております。

⑷結論は全世界に福音が宣べ伝えられてから、終わりが来る、ということです。預言者エゼキエルは神殿と神の都エルサレムから主の栄光が去っていくことを霊の眼をもって見ていた人物でした。しかしその彼は‶この都の名は、その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。″と最後のエゼキエル書48:35に記しています。すなわち失望するような中にあっても、信仰の眼が開かれている人は、臨在の主を見、その回復を夢見、真に寄り頼むべきお方はどなたであるかを悟らされ、そして魂の救いのために、御国の福音を宣べ伝える使命に生きることができるのです。
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