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十字架の命
2016/02/28(Sun)

ルカによる福音書9章18~27節

佐々木良子師

 「あなたはメシア、生ける神の子です」(20節)とのペテロの信仰告白を期に、主イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」〈23節〉と仰せになって自ら十字架に向かわれました。

 確かに主イエスは十字架の死の道を歩まれましたが、聖書では十字架の先にある命の道、復活の道へと続いていることを語っています。主イエスが成し遂げられた十字架と復活の道に従う人は、死では終わらない復活の命の道を歩ませて頂けるのです。十字架と復活の大いなる御業のゆえに、主イエスの後に従うすべての人に、罪の赦しと死に勝利された復活の命が約束されています。ここに確かな希望があります。このようにして主イエスは十字架と共に輝く復活の命を示されました。

 そのためにも私たちはそれぞれ皆、負わなくてはならない十字架があります。時には何故このような十字架をと、つぶやきたくなる時がありますが、それぞれに自分サイズの十字架が与えられています。しかし、決して一人ではなく主イエスが共に背負ってくださっていますから何とか歩むことができるのです。

 ここで注目したいのは、「自分の十字架」です。自分サイズの十字架だけを背負えば良いのです。しかし、しばしば背負わなくてもよい余計な十字架を自らしょい込んではないでしょうか? 主イエスの思い、主イエスの御足の跡に従うのではなく、自分の思いが最優先され全面的に出ている時、本来負わなくてもよいものを背負い込み自分で自分を苦しめることとなります。

 主イエスを復活させた神の力に頼り、十字架と復活の道を切り開いてくださったイエス・キリストの後に従うのが、信仰者の歩む道です。ですから「自分の思いを捨て」アタフタすることなく、「自分の十字架を背負って」その御足の跡をついてきなさいと主イエスは仰せになります。

 神なき世界の苦難は苦難で終わりますが、主イエスの苦難の十字架は復活の道へと続く栄光です。マラソン走者が脇目もせずにひたすらゴールを目指して走り続けるように、主から与えられた自分の十字架を背負い、ゴールである栄光の御国を目指し本物の命、十字架の命に与っている私たちは何と幸いなことでしょうか。
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鶏が鳴いた
2016/02/21(Sun)

マルコによる福音書14章66~72節

澤田 武師(宇都宮上町教会主任牧師)

 ペトロは危険を承知のうえで、主に従って大祭司の館の庭にまで行きました。それは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」と宣言をした「自分の言葉に従う」ことでした。この決断は無謀とも思えますが、ここにペトロの勇気・信仰から起こされた行動があります。大祭司の庭にいた女中はペトロに「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」と言います。この後の出来事は、結果としてペトロの勇気、信仰を徹低的に打ちのめすことになりました。

 ペトロは「あなたが何のことを言っているのか、わたしにはわからない。見当もつかない。」と追及を打ち消します。その場をごまかすために、つい口から出た言葉であったと思います。ペトロは身の危険を感じ取り、出口に向かいました。女中はなおも「あの人たちの仲間です。」と周囲の人々に言いだします。ペトロは再度打ち消します。その時最初の鶏の声は、ペトロに自分の言葉を思い出させ、再び「奮い立って留まる」決断を起こさせたのでしょう。ペトロはその場に留まり続けました。

 ペトロは3回目の問いを聞きます。そこに居合わせた人々はペトロの言葉の訛りから、「お前はあの連中の仲間だ。」と追及します。反論をすればするほど、返って相手の確信は深まります。ペトロは誓いを立ててまでも「知らない」と応えます。その時2回目の鶏が鳴きました。その鳴き声は、主の言葉を思い出させました。そこには、全てを打ち砕かれたペトロがいました。ただ泣いて去って行くしか出来ない、ペトロがいました。

 この出来事は誰にでも起こるわけではありません。なけなしの勇気をもって、主に従い、恐ろしさに打ち勝つように留まる。この信仰がなければ、この挫折は起こりません。主に従い、「留まろうとする信仰」がない者には決して起こらないことです。ペトロは自分の信仰に挫折しました。罪の重さを示されました。

 しかし、罪を悔い改めて信仰に「戻った」ときから、新たなスタートになります。マルコは、ペトロのその後を記していませんが、主が復活された時「弟子たちとペトロに告げなさい」と、主イエスはガリラヤで再び会えることを伝えます。ペトロの歩みは、信仰に立ち帰る勇気を教えています。
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大切なことは
2016/02/14(Sun)

使徒言行録15章22~35節

佐々木良子師

 先週は教会における最初で重要な会議であるエルサレム会議について共に学ばせて頂きました。結論は律法の行いではなくイエス・キリストの恵みを心から信じることによって救われることが確認されました。本日はその時の議長であったヤコブの言葉に耳を傾けたいと思います。

 「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。」(28節)大切な会議の決定は人の思いを遥かに超えた聖霊の導きに従ったものでした。教会において信仰の事柄を決めていくにあたって、ヤコブは何よりも自分たちの考えや思いを主張するのではなく、聖霊の導きと神御自身による伝道のご計画を祈りをもって探し求めました。

 教会は聖霊降臨によって生まれ、そして聖霊に満たされることで心が通じ合う世界が開かれたことが2章に記されています。神の祝福の原動力、そして教会の力は、私たちの内に聖霊が宿り支配することです。ヤコブはこのことを再度確信しならが大切な会議の結論を見出したと思われます。

 このことはエルサレム会議だけではなく、私たちの教会総会、並びに様々な決断をする時にも引き継がれています。十分な議論を重ね、様々な予算を立てて計画をすることも必要ですが、キリスト者は何よりも先ず聖霊の導きを共に祈り、神のご計画を確信して進むことが最優先です。

 教会は様々な選択をしなければならない出来事が多くありますが、導いてくださる聖霊のご臨在を信じ、その導きをその都度主を仰ぎみつつ決定していきます。常に「聖霊と私たち」の決断を求めていくことを主は望んでおられます。

 そうしてヤコブは異邦人クリスチャンと、とりわけ律法的な土台として持ちつつ信仰生活をしているユダヤ人キリスト者が交わるための際の互いに対する配慮を述べました。キリスト者は色々な決まり事に制約されず、全く自由であるというものですが、同時に異邦人キリスト者は、他の行動基準を持ったユダヤ人キリスト者に対する配慮を持つことが求められるということです。

 いつでも大切なことは相手が置かれている状況に対しての配慮を忘れてはなりません。様々な問題を対処するにあたり、「神の恵みによる救いの喜び」を忘れ去り、問題解決のために愚かな議論をし、果ては裁き合う悲しい思いをすることがあります。恵みを忘れない者でありたいです。
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本当に大切なこと
2016/02/07(Sun)

使徒言行録15章1~21節

佐々木良子師

 紀元49年頃、教会の歴史の中で最初で、また最も大切なエルサレム会議というものが開かれました。そこで審議されたことは福音の本質に拘わる重要なものでしたが、そのきっかけとなった出来事は「割礼」の問題でした(1~2節)。

 割礼とは旧約時代、神から選ばれたイスラエル選民の特別なしるしのことを指します。既に割礼を受けているユダヤ人クリスチャンが、パウロたちの伝道によって罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じた異邦人キリスト者に対して、自分たちと同じように割礼を受けさせモーセの律法を守らせるべきだという主張をした事が発端です。

 それは福音の根幹を揺るがせるものでした。人が救われるのは人間の行いや立派さ等によってではなく、又、信仰に何かをプラスするものでもなく、ただキリストの十字架によって神は全ての人の裁きと滅びから救ってくださるという神の憐みと恵みの約束を反故にするものです。

 そこでペトロが立ち上がり、10章からコルネリウスが救われた時のことを述べました(7~10節)。彼は割礼を受け律法を守ったからではなく、ペトロが語った福音の言葉を聞いて信じたのです。御言葉を信じ、御言葉に従って生活していく時、聖霊が働き私たちを現実に生かし、強め導いてくださいます(8節)。

 更に自分たちが負いきれなかった軛のことにも触れました(10節)。軛とは律法のことですが、完全に守ることができる人は一人もいません。にも拘わらず何故ユダヤ人クリスチャンは、救われた異邦人に首に軛をかけるようなことをするのかという怒りです(10節)。

 このようにペトロの言葉とパウロたちの働きを通して異邦人も「信じるだけで救われる」という福音を理解できるようになりました(12節)。この会議で確認された事は、救いはただ神の恵みによるもので、恵みとは、救われるのに値しない者を救って頂けることを指します。唯、救い主であるイエス・キリストを信じることによってのみ救われるのです。

 律法は「わたしたちをキリストのもとへ導く養育係」(ガラテヤ3:24)と、律法を全うできない人間の不完全の悲しさを知るゆえに、それを成してくださったキリストの十字架の有難さが身に染みるのです。「ねばならない」から「ありがたい」へと変えられるのが信仰の原点です。
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全ての土台はイエスさま
2016/01/31(Sun)

使徒言行録14章21~28節

佐々木良子師

 パウロの第一次伝道旅行の締めくくりの箇所です。今までは新しき地に、前へ前へと進んできましたが、今回は今まで伝道し迫害に遭遇したリストラ、イコニオン、アンティオキアの町を引き返すという行程となります(21節)。

 瀕死の重傷を負わされたようなリストラの町を戻るのですから、再度危険な目に遭遇する可能性が大です。しかし、そのような地においてもイエス・キリストを信じる弟子たちが多く生まれていたので、その人々を力づけるために危険を冒してまで引き返したのです。

 パウロは「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」(23節)と語っています。人間の歩みを聖書から見ると平穏無事な日々よりも試練や苦難、迫害の歴史がつきものです。多くの信仰者たちは言語に絶するような壮絶な目に遭っていますが、信仰を捨てるどころか、益々熱く燃えたのです(へブライ11:32~38)。パウロもその一人です。

 その根拠は「あなたがには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)主イエスのご生涯が「苦難」の極みである十字架を通して死を征服し、救いに至る道、「復活の勝利」を成し遂げられたから、この世のどのような苦難も打ち勝つことができます。苦難から栄光へと結びついているのが主イエスと共に歩む世界です。パウロもその身をもって体験してきたからこそ弟子たちに伝えたいと願ったのです。

 更に「勇気を出しなさい」と主イエスが仰せになる時には必ず「わたしだ」と、ご自身を示してくださっています。嵐の中、試練の中、主イエスを信じる者と共にいてくださいます。主イエスを救い主と信じる全ての人に与えられる恵みです。

 そうしてパウロはアンティオキアの教会に戻り、神がこれまで成してくださった恵みを報告しました。彼らは「こんなにひどい目にあった」と、言う事もできたでしょう。しかし彼らは自分たちの身に降りかかった災いや、自分たちの頑張りを報告する為に戻ったのではありません。神が異邦人に信仰の門を開いてくださったことなど、救い主イエス・キリストに対する生きた信仰を証明するためです(27節)。信仰者は、私が何をしたかではなく「神がこの私にしてくださった恵み」を語り、栄光を主に帰すことの幸いを知っています。
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