2017_02
19
(Sun)10:30

主の御旨のみが

使徒言行録25章1~12節

澤田直子師

 パウロがカイサリアに2年も留置されている間、エルサレムのユダヤ人たちの計画は全く変わりませんでした。何とかしてパウロをエルサレムに送ってもらい、その途上で暗殺しようとしたのです。サタンのやり方はしつこく、絶対に自分が正しい、正しい目的のためには少しくらい悪いことをしてもいいと思い込ませ、このやり方しかないと信じ込ませます。

 このようなサタンの業は、イエス様の十字架の時も、最初の殉教者ステファノの時も同じでした。しかしイエス様は死んで復活され、ステファノはイエス様の元に上っていきます。パウロは生きてローマに連行されます。あらゆる命、あらゆる死に神様のご計画があります。同じようなサタンの業で始まっても、最後には神のご計画に変えられていきます。その示され方、表され方は、その時々、当事者によって違います。神様の御業は、一人一人、完全なオリジナルですから、自分と神様にしかわからないのです。

 わたしたちは信仰者として神様に「忠実な良い僕よ」と喜んでいただきたいと心から思っています。でもそこにはいつもサタンの誘惑があって、一生どころか一日も、一時間でさえも難しいのです。ところがわたしたちの全てをご存じの神様は、どのような道の途中でも、祈りに応えて、道を正してくださいます。思いがけない出来事から、思いがけない人の助けから、理不尽な試練からさえ、正しい道に導いてくださるのです。ヨハネの黙示録3章8節 『わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしを知らないと言わなかった。』 神は人を分け隔てなさいませんから、パウロのような大伝道者でなくとも、必ず、祈る者を用いてくださいます。

箴言19章21節 『人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。』 すべてを主にお委ねし、信頼して平安のうちに歩みましょう。
2017_02
12
(Sun)10:30

パウロに聞け

使徒言行録24章24~27節

澤田 武師

主題聖句 「数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。」 24節

 カイサリアでの裁判が止まってから数日後、ローマ総督フェリクスと妻ドルシラは再びパウロを呼び出します。この尋問はフェリクスの個人的な行動であったと考えられます。

 彼らは、パウロと「出会った」ことによって、今まで胡麻化してきたことや、解決できると思っていたことが、実は自分たちではどうすることも出来ない「心の暗闇」であることに気づかされました。そして、あらためてパウロからキリスト・イエスへの信仰について話を聞きに来ました。彼らは自分たちと全く異なる歩みをされたイエス様と出会いました。

 今パウロは伝道者としてイエス様の御名を宣べ伝えます。パウロの姿は終始一貫変わりません。伝道者となった最初から、伝える事はただ一つ「見聞きしたことを証しする」ことだけなのです。

 パウロの話は、信仰の核心に迫ります。それは彼らの「暗闇」そのものです。彼らは神様の前には「罪人」であり、「自制」に欠け、再臨のときには「裁き」を受ける者である。

 フェリクスは、自らの「暗闇」に真剣に向きあうことが出来ずに、パウロの言葉に「恐れ」を感じました。フェリクスはあと一歩、イエス様に近づくことが出来ませんでした。イエス様に心を開くことが出来ませんでした。自分を捨て去ることが出来ませんでした。

 フェリクスは判決を保留したままにしていますが、パウロの言葉は彼らに「悔い改め」を迫ります。人の思いが勝る時、神様の言葉は受け入られません。フェリクスの自己義認への「執着」は、パウロとの間を、神様との間を裂きました。ここにこの裁判の判決があります。

 神様は悔い改める者には、いつも語りかけてくださいます。ここに帰れと、再び会おうと語りかけてくださっています。イエス様を十字架に架けられても、私たちに救いを与えてくださいました。静まって神様の声を聞いてください。
2017_02
05
(Sun)10:30

喜んで弁明いたします

使徒言行録24章10~23節

澤田 武師

主題聖句 「しかしここで、はっきり申し上げます。私は彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。」    24章14節

 テルティロの「偽り」の告発を、パウロは聞きました。パウロは、「喜び」をもってイエス様の復活、その「事実」を弁明します。生き生きと語るパウロの姿が見えるような気がします。

 パウロは「ナザレ人の分派」と呼ばれたこの名こそが、イエス様の福音に生きる者として、「主の道に従っている者」の名であると、「はっきりと、確信をもって」語ります。

 一方、ローマ総督フェリクスは「この道についてかなり詳しく知っていた」と、既に「福音」は知っていたようです。地位も権威もある。でも、今彼には喜びはありません。彼が判決を延ばしたのも、パウロからイエス様を信じる「真の喜び」とは、何であるかを聞こうと考えていたからではないでしょうか。

 私たちも経験します。信仰の初穂。福音は、家庭内に一時的な「騒動」を起こします。また、信仰生活に「つまづき」を感じる時は、「信仰の喜び」は、「心の騒動」へと変わってしまいます。
 
 キリスト教は、迫害の歴史から一つの事を証詞しています。それは、その時代の信仰者はどのような状況であろうとも「喜びをもってキリスト伝え続けた」、という事実です。

 パウロは“なぜ”ここまで前向きなのか。それはイエス様にこそ、「望み、平安、希望」があると確信していたからです。信仰生活のキーワードは「御言葉を信じ、復活に希望を抱き、再臨を待ち望みつつ、この道を歩む」ことであると、パウロは私たちにも語っています。それは「この道」の内に在ります。

 ローマ1:16「わたしは福音を恥としない。福音は…、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」私たちの話を最も「聞いて」くださっているのはイエス様です。事実の言葉を語る時、それは福音として誰かの心に届きます。福音を告げる言葉を喜んでこの世に響かせましょう。
2017_01
29
(Sun)10:30

騒動を引き起こす者

使徒言行録24章1~10節

澤田 武師

主題聖句 「実はこの男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者『ナザレ人の分派』の主謀者であります。 24章5節

 カイサリアは異邦人の町、ユダヤ人の影響を受けない町です。この町へ、パウロを訴えるために、大祭司アナニアは弁護士テルティロをも同行させて行きます。裁判の勝利に対する執念を感じさせます。

 テルティロの告発は、ローマ総督フェリックスに対して最大級の褒め言葉から始まります。そしてパウロを3つの罪で訴えます。「騒動」を引き越している。「ナザレの分派」の主謀者である。「神殿を汚した。」という罪です。ここに、テルティロの人の心を支配する、巧みな技があると思います。

 事実、歴史はフェリクスがローマ総督であった時、彼が冷酷な態度でユダヤ人の反乱を鎮圧したために、さらなる反乱を招いていたと記しています。反乱は増え、世は不安でした。フェリクスへの称賛の言葉はかえって、彼に不安を与えたのではないでしょうか。それは他人ごととしてではなく、フェリクスは「自分自身への裁きの言葉」とも聞こえたのではないでしょうか。

 パウロの罪状は大祭司アナニアたちの「自分たちの真実」から作られました。それは「偽りと事実を混ぜ合わせて作った真実」です。テルティロはそれを聞きましが、彼にはそれが偽りであることはわかっていたと思います。テルティロの言葉は大祭司アンナスの思いを実現させるために、フェリクスを動かすために訴え続けられた計算された言葉です。彼の言葉からは事実は聞けません。

 マタイによる福音書では、番兵たちは復活の「事実」を祭司長たちに報告しましが、彼らは自分たちの「真実」へと変えてしまいました。

 パウロは「復活の主」の事実を伝え続けて来ました。事実をこの世は受け入れません。信じません。排除しようとします。そこに「騒動」は起きます。

 騒動は私たちの心の中にも起きます。もし騒動が起きなければ、何も感じなければ、それはこの世に従って生きているということです。「騒動を引き起こす者」、その名前はイエス様の福音を聞き、生きる者の栄誉ある名前です。福音はこの世に騒動を起こすために響きます。福音を聞いてゆきましょう。
2017_01
22
(Sun)10:30

動き出す時

使徒言行録23章23~35節

澤田直子師

 パウロを殺そうとするユダヤ人の陰謀を知った千人隊長は迅速に動きます。パウロ一人につく護衛の数は470人。エルサレムに駐屯しているローマ兵の半分近くです。もし、パウロがローマの市民権を持っていなかったら死刑になっていたかもしれません。『主の山に備えあり』パウロはローマ軍に命を守られただけでなく、ローマの公費で、護衛付きでローマへの旅を始めたわけです。

 物事が動く時というのは、わたしたちの想像を超え、人間的な思いを吹き飛ばすようにして動くものです。2016年の小松川教会のクリスマスシーズンは、まさにそういう時ではなかったでしょうか。白百合保育園のページェント礼拝、教会のクリスマス愛餐会、原登名誉牧師のご葬儀、クリスマスイヴ礼拝、クリスマス礼拝、と一週間の間に行なわれました。

 この時の辛さは、物理的な忙しさよりも、ふさわしくない者が事に当たらなければならないところにありました。本当なら、どれをとっても大切な事に、誰もが納得する十分な準備をしたかったのです。しかしそんな余裕はなく、そこに居る者ができる限りを捧げなければならない。そういう時があるものです。

 わたしたちには理解できない速さで物事が動く時、そこには神様のご計画が働いているのです。わたしたちは何もできないのではなく、神様のお創りになる大きな流れの中の、必要な一人です。そこを信じ切れるかどうかで、起こったことに対して感じることが全然違ってきます。試練から逃げることばかりを考えてつぶやき続けるか、試練を受けて立ち、その場でできることに取り組むか。

ローマの信徒への手紙8章28節。『神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。』この手紙は、パウロが第3次伝道旅行を終えてエルサレムに帰ろうとした時に、船が出ずコリントに足止めされた時に書かれたものです。先を予見していたような言葉です。わたしたちも間違いなく「ご計画に従って召された者」です。信じて歩みましょう。