2017_07
16
(Sun)10:30

彼らは聞き従う

使徒言行録28章23~31節

澤田直子師

 使徒言行録は、天に帰られるイエス様が弟子たちに「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言い置かれたところから始まって、最後はパウロがローマで丸二年間も「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」と終わります。イエス様のお言葉は実現し始めたのです。

 ローマでパウロを訪ねて来たユダヤ人は、それまでパウロを迫害してきたユダヤ人とは少し違って、礼儀正しく、イエス・キリストについて知りたい気持ちを持っていました。ですからパウロは、もと律法学者として聖書についての知識を最大限に生かして証します。パウロが最も理解してほしかったことは、ユダヤ人の待ち望むメシアはもう来ている、十字架で死に、三日目に復活したナザレのイエスがそれである、ということでした。

 しかしそれは、ユダヤ人が持ち続けてきた理想のメシア像とは全く違います。彼らの理想とするメシアは、圧倒的な力でローマの支配を打ち破り、ユダヤ人の王国を立て上げるはずでした。彼らにとっては、もうメシアが来ているのならば、なぜ我々は未だにローマの支配下で苦しまなければならないのか、ということになるのです。

 パウロがユダヤ人に対して引用したのはイザヤ書6章9~10節です。ユダヤ人は預言の通り、耳が鈍く目は暗く、聞いても理解しない、見ても悟らない者となり果てました。パウロにとっては、ユダヤ人はパウロの証を信じなかったというだけでなく、聖書そのものを否定したことになります。ここで、パウロは、はっきりと自分の使命は異邦人への伝道であると宣言します。それは、「彼らこそ、これに聞き従う」からです。聞き従うとは、「聞く」と「従う」の二つの言葉から成り立ちます。ローマにパウロがいる、と聞いて訪ねてくる人々は、パウロの言葉に聞きいり、従いました。それは彼らの喜びであると同時に、パウロをも大いに喜ばせたでしょう。喜びは福音伝道の原動力になったに違いありません。その喜びの延長線上に、今日のわたしたちがあります。御言葉に「聞き従う」ことから始めましょう。
スポンサーサイト
2017_07
09
(Sun)10:30

福音の鎖につながれて

使徒言行録28章17~22節

澤田 武師

主題聖句 「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」 28章20b節

 何度も訪問を願いながら実現できなかったローマに、パウロはついに立ちました。それは不思議な導き、備えでした。ローマへの最後の航海は、ローマ帝国の権力と威信によって実現されました。また、未決囚としては自分で家を借りて一人住み、訪問客も許されるという異例の待遇が与えられていました。この背後には裁判のために送られたユダヤ総督フェストゥスの手紙や、百人隊長ユリウスの報告を、聖霊が用いてローマの制度を変えてしまうほどに働かれたともいえます。

 パウロは早速「おもだったユダヤ人」を自宅に招き、「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖につながれているのです。」と自分の存在を証詞します。

 パウロの生涯はイエス様の奴隷として、イエス様につながった歩みでした。そして、今は誰の目にもわかる、ローマによって「鎖」につながれています。

 パウロはユダヤ人に、神が旧約聖書の預言者たちに約束された希望の内容は、ナザレの人イエスにおいて実現した。あなたたちも、イエス様を信じてつながりなさいと勧めます。

 パウロは「鎖」につながれている姿で、彼らに会いました。それは決して喜ばしい、誰もがなりたいと願う姿ではありません。

 しかし、それが聖霊の働きであれば、その姿こそが、福音を伝える者としての証です。信仰の戦いから一歩も引かないで、留まり続けた者の証です。福音の鎖につながれている者、その先にはイエス様が居られます。どこへ行く時でもイエス様は伴ってくださるという、何よりの証です。

「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」パウロは御言葉に従っています。

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」不思議な導きの中に神の計画は進みます。
2017_07
02
(Sun)10:30

ここに神がおられる

使徒言行録28章11~16節

澤田 武師

主題聖句 「パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた。」   28章15b節

 ローマへの最後の航海はとても順調でした。マルタ島から乗った船は船乗りの守護神の像「ディオスクロイ」が掲げられる船であると、あえてルカは記しています。この船印から、異教の世界の中心へと、偶像礼拝の只中へとパウロが進んでいることを強調したのでないでしょうか。

 プテオリ港から上陸、陸路を進む百人隊長に与えられた使命は、一刻も早く確実にパウロをローマに護送することですから、パウロに兄弟と共に過ごすことを許したのは異例中の異例です。

 パウロが命の危機の中にあっても神に信頼して与えられた「使命」に従った姿に、百人隊長は変えられたのではないでしょうか。百人隊長は自分のできる最善をもって、パウロの希望に応答したように思えます。ここには彼の勇気があります。彼にこの行動を取らせた背景にも、聖霊の働きが見えます。

 ローマの兄弟たちは、聖霊に促されて自分たちの精一杯の思いを表わすため、パウロを途中の町まで迎えに来てくれました。この出会いはパウロに大きな喜びを与え、再び勇気づけられました。

 迎えに来た兄弟たちとパウロは一緒にローマの町に入場します。それは彼らにとって戦いの勝利を告げる凱旋のようであったことでしょう。パウロの宣教旅行は終わりましたが、神から与えられた勇気は、ここから始まる裁判、異教社会と対峙する備えの心にと変わりました。

 この場面には温かさを感じます。神に託された者同士の交わりに、たとえそれが無力な者同士でも、人が作るのではない、神によって備えられた真の温かさ、心の交流が見えます。この歩みの真ん中にも神は確かに居られました。

 ここから読み取れるのは、クリスチャンはどのような状況にあっても信仰がぶれてはいけない。こんな時代にも、こんなところにもクリスチャンは居るのだと証しする使命があるということです。ここに神が居られる、と証しするために、勝利者としてこの世に散らされ、生かされて行きます。私たちの交わりの中に神が居られます。
2017_06
25
(Sun)10:30

この人は何者か

使徒言行録28章1~10節

澤田直子師

 パウロたちは、とにかく全員無事に陸に上がることができました。上陸したのはマルタ島でした。島の人々も親切で、安心したところで、今度はパウロがたき火に枯れ枝をくべたらマムシに噛まれるという事件が起こります。素朴で呪術的な信仰を持つマルタ島の人々は、パウロに罰が当たって倒れるのを待ちましたが、何事もなく火に当たっているパウロを見て、今度はこの人は神様ではないかと思います。さらに、土地の名士プブリウスの父親の病を、手を置いて祈り癒した姿を見て、その信頼は固くなり、冬を越して再び出航する時には、必要なものを全て揃えてくれました。

 キリスト教会では、聖書や教理を学ぶことを大切にして、洗礼を受けてからもずっと学び続けます。真の神は人格的に私たちと交流を持ちたいと望んでおられますが、人間は時々神様を見失ってしまうからです。私たちは神様について学ぶにつれ、神を知り尽くすことはできないと悟ります。しかし人間が作る偶像はわかりやすく、崇拝するのに学びは要りません。ここが真の神と偶像との大きな違いです。

 マルタ島では、パウロたちの姿を通して、真の神様が知られることになりました。私たちの住むこの世界でも、遣わされて行く先で、私たちは、誰かが初めて出会うクリスチャンになるかもしれません。私たちの姿を通して、神様に出会う人がいるかもしれません。ドラマや映画の登場人物をしばらく見ていると、話し方や服装や立ち居振る舞いで、良い役か悪役か判断がつくものです。イエス様は 『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』(ヨハネ13:34)、パウロは 『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。』(テサロニケⅠ5:16~18)と教えました。ヤコブは 『御言葉を行う人になりなさい』(ヤコブ1:22)と勧めます。御言葉の一つでも行うことができたなら、世の「あなたは何者ですか」との問いに、クリスチャンです、と答えて神様に栄光をお返しできるのではないでしょうか。
2017_06
18
(Sun)10:30

苦難の果てに

使徒言行録27章39~44節

澤田直子師

 陸地に近づき、ほっとしたのもつかの間、パウロたちに再び命の危険が迫ります。船には何人かの囚人が乗せられていました。中には処刑されるためにローマまで連行される者もいたでしょう。一か八か、海に飛び込んで逃げきれれば、と考える囚人がいても不思議ではありません。一方、ローマの兵士にとっては、囚人を逃がせば重い罰が待っています。ならばいっそのこと、船の上で殺してしまえばいい、ということになります。しかしここで、パウロの存在が彼らの命を救います。百人隊長がパウロを助けたいと思った、これは、神様が彼にそういう思いを持たせた、ということでしょう。

 これこそがクリスチャンのあるべき姿です。創世記18章には、ソドムを滅ぼそうとする神の使いに対して、アブラハムが、「その町に正しい人が50人いたら、30人なら、」と食い下がり最後には10人いれば滅ぼさない、という約束を取り付けます。クリスチャンとは、この10人のようなものです。

 船にはパウロとアリスタルコとルカの3人のクリスチャンがいました。日常的に、一緒に祈り、賛美をしていたでしょう。百人隊長は、パウロたちの姿に、キリストの真理を垣間見たのでしょう。これは、イエス様の十字架の死を見届けた百人隊長が 『本当に、この人は神の子だった』 と信仰を告白したことを思い起こさせます。

 一人のクリスチャンがいるということは、そこで完結するのではなく、その一人が世に発信する何かによって、誰かの心が目覚める可能性をはらんでいるということです。世界中のクリスチャンが、キリストに倣う者、キリストに似た者として、それぞれの日常の一部を捧げています。その姿が、まだキリストを知らない人々にも届いているのです。

 神様を信じる人生には、苦難や悲しみはない、ということはありません。神様は、その信仰に合わせて問題を出されます。試験の性質上、上級者になるほど問題は難しくなります。神様からいただく問題を四苦八苦して解く信仰者の姿を、世が見ています。どんな試験でも、まず名前を書き、問題文をよく読むことが大切です。名乗りをあげて、神様の問題にチャレンジしましょう。