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生涯、満ち足りて
2017/09/17(Sun)

詩編91編

澤田直子師

 詩編91編はタイトルがない「みなしご詩編」と呼ばれるものですが、ある研究者は自分なら「神はわがふるさと」というタイトルにしたいと言います。自分には帰るところがあるという感覚を「帰属意識」と言います。具体的な場所にも使う言葉ですが、仲間同士の心の絆に対してよく使われます。信仰者が帰属するのは、天国ではなくそこにおられる神様です。

 91編の背後には物語を感じます。長い間、忠実な信仰者として歩んできた人に、何か試練があった。今まで何度もそうしてきたように、彼は神殿に詣でて、心を注ぎ出して祈ったでしょう。その姿を見かけた誰かが声をかけてくれ、話を聞いて慰め励まし、一緒に祈ってくれたのではないか。祈りのうちに、神様のお応えが示されたのではないか。

 1~13節は、信仰者は神を隠れ場として平安を得、神はあらゆる手段をもって、信じ依り頼む者を守ることが証されています。ここまでは、人が人を力づける言葉ですが、14節からは、祈る者の姿を見ていた神様ご自身がかけてくださるお言葉ですから、ここからは、神様がわたしにこう話しかけてくださっている、と思って読んでいただきたいところです。

 「彼」となっていますが、もちろん男性限定ではありません。女性も神様の目に映っています。14節 「わたしの名を知る者だから」 聖書では「名を知る」ことは、その人の全体像を知ることを意味しています。また「名」は「足跡」とも訳せる言葉を使っています。神様の存在と自分の存在には深い関係性があり、共に歩んできたと信じていることを示します。15節は未来のことではなく、今までも 「彼と共にいて助け」 て来たことをこれからもずっと続けようというのです。

 その行きつくところは16節 「生涯、彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう」 わたしに満ち足りるものは何か、これを間違えてはいけません。聖歌473番の歌詞をご味読ください。敬老感謝の対象となった兄姉が、神様と共に歩み満ち足りている姿を証明してくださっています。
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後から来られる方
2017/09/10(Sun)

ヨハネによる福音書1章19~28節

澤田 武師

主題聖句 『その人はわたしの後から来られる方で、わたしにはその履物のひもを解く資格もない。』
        1章27節


 ヨハネによる福音書では、イエス様の公生涯を「洗礼者ヨハネ」の証しの言葉から始めています。

 「洗礼者ヨハネ」は自分の存在を 「荒れ野で叫ぶ声」 であると答えます。荒れ野は現実に彼が生活していた所でもあり、同時に「この世の荒れ野」をも意味しています。そこには命がありません。平安も希望もない所。多くの民が貧困や、ローマの支配にあえいで生きている場所、そこには救いはありません。

 しかし、その荒れ野にも救い主がお生まれになった。救いが訪れた。この喜びを彼は叫び伝えます。荒れ野は彼の声を消そうとしますが、「主の道をまっすぐにせよ。」 彼は、今その時が来た。準備を怠るなと叫び続けます。

 「わたしはメシアではない」と彼はとても強い言葉で、否定します。自分の存在が、イエス様を証しするための「声」であるにすぎないことをも受け入れています。それはイエス様が来られた時、その後は消え去る者であることを自覚しているということです。現代では音源を残すことが出来ます。説教や時代を変えた演説、美しい歌声などを録音して再現することが出来ますが、当時の「声」ヨハネは消え去ります。しかし、語られた言葉は聖書に記されて永遠に残ります。彼は、本当のメシア、救い主が誰であるかを知っていました。真実を知った者には、その真実から遠い、自分の存在が示されます。「洗礼者ヨハネ」は、自分とは誰なのかを知らされた人物でありました。

 「後から来られる方」 彼は、イエス様をそう表します。今はまだ誰にも知られていない方である。わたしはその方を証しするために生かされて来た。聖書の中で最も低きに徹した人物であることは間違いありません。だからこそ、いと高き方を指し示すことが、聖なる方を証しすることが出来るのです。

 今、あなた方は知ろうともしない。しかし、既に父なる神様の権威を受けられた方が来られている。後から来られる方に全てを委ねた者の姿がここにあります。一切の権威を明け渡した者だからこそ示すことができた、イエス様のお姿がここにあります。
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独り子である神
2017/09/03(Sun)

ヨハネによる福音書1章14~18節

澤田 武師

主題聖句 『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
        それは父の独り子としての栄光であって恵みと真理とに満ちていた。』  1章14節


 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」 ヨハネによる福音書が伝えるクリスマスには、人間の関与は一切記されていません。

 11節「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と、神様が人間となられた、この事実を世の中は受け入れませんでした。しかし、そこにイエス様を証しする者として「洗礼者ヨハネ」が備えられていたことをヨハネ福音書は記しています。

 ヨハネ福音書は突然 「言は肉となった」 と記します。何の説明もなく、突然に真理が語られます。この短い言葉には、神様がこの世の全てを創造され、人間も創造されたこと。最も聖なるものが、被造物である人間となり、イエス様となられました。イエス様はこの世にお生まれになっただけではなく、そのご生涯を全き人間として歩まれたことが、この言葉の中に含まれています。

 「わたしたちの間に宿られた」 ここでの私たちは、まさに「この世」のことです。この世に、神様がイエス様として共に住まわれる。共に生活をされる。共に苦しまれる。神様が私たちと同じ苦しみを経験される。このような事はあり得ません。

 イエス様は群衆の中に一人居られるのではなく、私とあなたとの間に宿られました。それは、人の目でだけではなく、神様の目をもって私とあなたとの関係を見ることを示されるためです。心にイエス様の御言葉の語りかけがあり、それまでは気がつかなかった人の弱さに気付き思いやり、自分の弱さも共に考えて、共に生きようとする心が、わたしたちに与えられました。「わたしたちはその栄光を見た」 とは、私たちの内にも御言葉が「肉」となるということです。神様に従う者の心が、愛の形をとって現実となったことです。

 それは、私も神様の愛が分かる者となり、相手を思いやる心、仕える心、謙虚な心が、愛の行動として形になるということです。
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神の子となる資格
2017/08/27(Sun)

ヨハネによる福音書1章6~13節

澤田直子師

 6節に登場するバプテスマのヨハネは、「光」イエス様を証しするために世に送られた人です。本論は9節から始まりますが、福音書を書いたヨハネが、イエス様が救い主であることは、自分が言っているだけでなく、あのバプテスマのヨハネも同じことを言いました、と念を押したわけです。

 9節には大事なことが3つ並べられます。①「光」はまことの光、唯一にして絶対、永遠であること。②それは自分から世に来ること。③その目的はすべての人を照らすこと。

 まことの光は、私たちを照らしながら、内にも外にも見るべきものを見せようとします。私たちは見たいものが見たいが、神様にはどうしても見せたいものがあります。光が世に来ることに関してはイザヤ書53:12に預言されています。『それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。』 まことの光、イエス様は、私たちを勝ち取ったのです。それは楽な戦いではなく、御自身も苦しんで傷ついて、勝利されたのです。「すべての人を照らす」神様にとって「すべて」と「ひとり」は同じ意味です。「すべての人」のところにご自分のお名前を入れて読んでみてください。

 12節 『しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた』 この御言葉が主題です。「その名を信じる」とはどういうことでしょうか?神に愛されるとは、たいへんな事です。家族でも子どもでさえも、その愛に応えられるか、重く感じる時があるものです。ましてや全知全能の神が 『わたしの目にあなたは価高く、貴く・・』 どこかの立派な人が言われているのではありません。この私が言われるのです。神の子になる資格とは、神に愛される覚悟を持つことです。モーセは「主は焼き尽くす火、熱情の神」と言いました。私たちがこの世のものによそ見をし、心を奪われる時、神様は悲しみ、世を妬まれるのです。それを知って、何と重い愛だろう、しかし最善であることはわかりますから、とにかく従います、というのが「その名を信じる」ということではないでしょうか。
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私を照らす光
2017/08/20(Sun)

ヨハネによる福音書1章1~5節

澤田直子師

 ヨハネによる福音書は、イエス様の弟子のヨハネが紀元100年ごろに書いたと言われています。それ以前にマタイ・マルコ・ルカの福音書によってイエス様のご生涯について書き記されていましたが、教会が成長するにつれて、事実を証言するだけでは不十分という状況になりました。

 なぜ神の独り子が、なぜ十字架が、なぜ復活が、イエス様のご生涯は、誰の、何のために、どのように、なぜなら、という問いに丁寧に答えるために書かれたのがヨハネによる福音書ではないかと思います。「初めに言があった。」 言をギリシャ語でロゴスと言います。「ロゴス」は日本語には訳しにくい言葉です。明治時代のギュツラフ訳では「かしこいもの」、リビングバイブルでは「キリスト」と訳されています。難しいロゴス論は専門家にお任せして、私たちは言葉通りに読みましょう。

 4節 「命は人間を照らす光であった。」 私たちは、まだ神を知らない時でも命について考えます。私たちを取り巻くあらゆるものに命を見ることができます。自分自身、かけがえのないたった一つの命を生きています。ヨハネの福音書の冒頭は、私と神様との関係性を言っているのです。

 私が生まれるずっと前から、世界の初めからキリストはおられた。私の周りのあらゆるものは神に造られ愛されている。神とキリストと被造物に無関係のものは一つもない。神様が「光あれ」と造られた光は、「私」を照らす光だったのです。イエス様は、在り様、御性質として命であり光です。

 その全てを与えるため、全てに仕えるために存在されるお方です。そして神様にとっての「全て」は「一人」と同じ意味を持ちます。ヨハネ冒頭の7行が言っているのは、神様とこの私とは世の始まりから深い関係を持っている、という極めて単純なことです。ゆえに、神様の喜びは私を喜ばせ、私の痛み悲しみは神様を痛ませ悲しませます。

 ヨハネによる福音書は、ただひたすら、光はある、最初から今に至るまでずっとあなたと共にある、と証し続けます。ですから聖書では信仰者を「ひかりの子」と呼びます。ひかりの子として歩みましょう。
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