2017 / 04
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ルカによる福音書5章1~11節

ケルンボン日本語キリスト教会 佐々木良子牧師

 新たな召命を受けて、13年間実家のように慣れ親しんだ小松川教会から、皆さまのお祈りに支えられてドイツの地に赴任して、早いもので1年になろうとしています。ドイツへの派遣自体が大きなチャレンジでしたが、赴任してからは更に「沖に漕ぎ出しなさい」と主に背中を押されています。その事により主が御業をなさっている世界を、見せて頂いている毎日です。常識の限界、そして自分の限界が引き上げられ、信仰が新たにされ深められる幸いに感謝しています。

 本日はペトロを通して、沖へ漕ぎ出すことの幸いを共に学びたいと思います。ペトロたちは夜通し網を降ろしていましたが、収穫はありませんでした。そこで主はペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4節)と、呼びかけられました。そうして「・・・しかし、お言葉ですから」と、従った結果「・・・おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」(6節)と、記されています。

 そこには他の漁師たちもいましたが、主が声をかけられたのは先ずペトロです。主は具体的なことは語らず、今の場所から離れて網をおろしなさい、と仰せになっただけです。ペトロは先ず、この方にかけて従ってみようと一歩踏み出した結果、舟が沈みそうになる程の収穫を得ることができました。プロの漁師たちの経験からしてみれば到底あり得ない結果でした。

 しかし、主は人の価値観を破るお方です。そうでなければ、私たちの信仰の歩みは当にどこかで終わっています。主が書き換えてくださった人生設計へ方向転換していく時に、豊かな深みの世界へと広がっていくのが信仰生活の醍醐味と言えます。キリスト教は「この世の非常識が常識」と言われているように、正に主にある非常識を逸脱した世界が信仰の世界ですから、大いなる希望と期待をもつことができるのです。限界を覚えた所がチャレンジャーとしての新たな出発点となり、こうして何度もチャレンジしながら、私たちの信仰は育まれているのです。

 その後主は「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)と宣言されています。私たちが努力してなるのではなく、主がそのようにしてくださるという確固たる約束です。主の為に用いられるということは、自力でできるものではありません。全面的信頼を置いて従って行った時に主がその働きを助けてくださいます。私たちは遣わされている場は違いますが、それぞれの場においてチャレンジャーとして一筋の導きの光を求めていきたいものです。

使徒言行録25章23~27節

澤田 武師

主題聖句 『しかし、この者について確実なことは、何も陛下に書き送ることが出来ません。』
使徒言行録25章26a節

 最近、国宝にも指定されています「曜変天目茶碗」(ようへんてんもくちゃわん)が新たに発見されたとの報道がありました。「器の中に宇宙が見える」と言われる、その深い世界観ゆえに高い価値を持った「器」です。しかし偽物ではないかとの指摘もあります。本物か偽物か、それぞれは「真実」を主張していますが、「事実」としては一つ「器」がここにあるということです。

 聖書には「器」という言葉が結構多く使われています。わたしたちは神様に作られた、間違いなく世界で一つのオリジナルな「器」です。イエス様を一番宣べ伝えた人物パウロは、イエス様に一番用いられた「器」、これは事実です。

 フェストゥスは、パウロがローマでの裁判を望んでいることに「戸惑い」を感じています。上級裁判に送るのには罪状が必要だったからです。フェストゥスはアグリッパ王を利用してパウロの罪状を求めようとしました。

 彼には分りませんが、この出会いこそは、イエス様が「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」(使徒9:15)と語られた御言葉の成就です。さらに「ローマでも証をしなければならない」(使徒23:11)パウロは伝道に用いられた「器」であるとの神の決意が示されたものです。

 神様はイエス様を飼葉桶の中に生まれさせてくださいました。飼葉桶は、子どもを寝かす「器」ではありませんが、神様はあえて用いられました。

 イエス様がかけられた十字架は、人の命を奪う「道具」であって、「罪の赦しと永遠の命」を表すものではありませんでした。しかし、神様はこれらを用いて、福音を表してくださいました。これが事実です。

 私たちは神様が作ってくださった「器」です。「復活」を信じる者として作り変えてくださった。私たち自身には何の価値もありませんが、私たちが神様に用いられた時、私たちは「高価で貴い器」となることが出来ます。これも事実です。

使徒言行録25章13~22節

澤田直子師

 ずっと動きのなかった場面に新しい登場人物です。アグリッパ王とその妹ベルニケは、ユダヤの王家の最後の兄妹でした。王の父は使徒言行録12章で『蛆に食い荒らされて死んだ』ヘロデ・アグリッパ、曽祖父がイエス様降誕の際に幼児虐殺令を出したヘロデ王、曽叔父が十字架の時のヘロデ王です。意識はしていなかったかもしれませんが、キリスト教と深い関りがある王でした。しかし王とは名ばかりで実際の権力はローマの総督の方がずっと大きかったので、新任のフェストゥスに早々に挨拶に訪れたのでした。

 総督フェストゥスは、アグリッパにパウロのことを話します。その言葉の中に 『このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです』 とあります。いつこの話を聞いたのかわかりませんが、ローマの総督をして『イエスが生きている』と言わしめる福音の力に驚かされます。イエス様が生きておられるとは真理そのものです。イエス様ご自身も 『わたしは道であり、真理であり、命である』 と言われました。

 信仰者にとって何より大切な真理『イエスが生きている』これをどんな時でも握りしめていきたいものです。コリントの信徒への手紙第一15章17節 『キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。』 しかしイエス様は生きておられます。私たちの罪は完全に贖われ、神の子、主の栄光の相続者として天に名前が記されている者とされました。

 ですから私たちは、試練の中でも、病の中でも、弱さの中でも、主の愛をいただいて、隣人を愛することができます。赦された者として赦すことができます。それは神の平安、平和を作り出す者の歩みです。ガラテヤの信徒への手紙2章20節 『生きているのはもはや、わたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。』 生ける主と共に生きましょう!

使徒言行録25章1~12節

澤田直子師

 パウロがカイサリアに2年も留置されている間、エルサレムのユダヤ人たちの計画は全く変わりませんでした。何とかしてパウロをエルサレムに送ってもらい、その途上で暗殺しようとしたのです。サタンのやり方はしつこく、絶対に自分が正しい、正しい目的のためには少しくらい悪いことをしてもいいと思い込ませ、このやり方しかないと信じ込ませます。

 このようなサタンの業は、イエス様の十字架の時も、最初の殉教者ステファノの時も同じでした。しかしイエス様は死んで復活され、ステファノはイエス様の元に上っていきます。パウロは生きてローマに連行されます。あらゆる命、あらゆる死に神様のご計画があります。同じようなサタンの業で始まっても、最後には神のご計画に変えられていきます。その示され方、表され方は、その時々、当事者によって違います。神様の御業は、一人一人、完全なオリジナルですから、自分と神様にしかわからないのです。

 わたしたちは信仰者として神様に「忠実な良い僕よ」と喜んでいただきたいと心から思っています。でもそこにはいつもサタンの誘惑があって、一生どころか一日も、一時間でさえも難しいのです。ところがわたしたちの全てをご存じの神様は、どのような道の途中でも、祈りに応えて、道を正してくださいます。思いがけない出来事から、思いがけない人の助けから、理不尽な試練からさえ、正しい道に導いてくださるのです。ヨハネの黙示録3章8節 『わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしを知らないと言わなかった。』 神は人を分け隔てなさいませんから、パウロのような大伝道者でなくとも、必ず、祈る者を用いてくださいます。

箴言19章21節 『人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。』 すべてを主にお委ねし、信頼して平安のうちに歩みましょう。

使徒言行録24章24~27節

澤田 武師

主題聖句 「数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。」 24節

 カイサリアでの裁判が止まってから数日後、ローマ総督フェリクスと妻ドルシラは再びパウロを呼び出します。この尋問はフェリクスの個人的な行動であったと考えられます。

 彼らは、パウロと「出会った」ことによって、今まで胡麻化してきたことや、解決できると思っていたことが、実は自分たちではどうすることも出来ない「心の暗闇」であることに気づかされました。そして、あらためてパウロからキリスト・イエスへの信仰について話を聞きに来ました。彼らは自分たちと全く異なる歩みをされたイエス様と出会いました。

 今パウロは伝道者としてイエス様の御名を宣べ伝えます。パウロの姿は終始一貫変わりません。伝道者となった最初から、伝える事はただ一つ「見聞きしたことを証しする」ことだけなのです。

 パウロの話は、信仰の核心に迫ります。それは彼らの「暗闇」そのものです。彼らは神様の前には「罪人」であり、「自制」に欠け、再臨のときには「裁き」を受ける者である。

 フェリクスは、自らの「暗闇」に真剣に向きあうことが出来ずに、パウロの言葉に「恐れ」を感じました。フェリクスはあと一歩、イエス様に近づくことが出来ませんでした。イエス様に心を開くことが出来ませんでした。自分を捨て去ることが出来ませんでした。

 フェリクスは判決を保留したままにしていますが、パウロの言葉は彼らに「悔い改め」を迫ります。人の思いが勝る時、神様の言葉は受け入られません。フェリクスの自己義認への「執着」は、パウロとの間を、神様との間を裂きました。ここにこの裁判の判決があります。

 神様は悔い改める者には、いつも語りかけてくださいます。ここに帰れと、再び会おうと語りかけてくださっています。イエス様を十字架に架けられても、私たちに救いを与えてくださいました。静まって神様の声を聞いてください。

小松川教会HP委員会

Author:小松川教会HP委員会

小松川教会は、「聖書は神の言葉、全人類にとっての救いの言葉」と信じる健全な聖書信仰に立つプロテスタント教会であり、全国に約1700余教会ある日本基督教団に属しています。
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澤田武主任牧師

澤田武主任牧師


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澤田直子牧師