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小松川教会 礼拝メッセージ

東京都江戸川区北葛西にある日本基督教団小松川教会の礼拝で語られたメッセージです。  ホームページ委員会が更新していきます。

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小松川教会HP委員会
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先頭に立って行く

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小松川教会HP委員会

ヨハネによる福音書10章1~6節

澤田 武師

主題聖句 『自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。
        羊はその声を知っているので、ついて行く。』  ヨハネによる福音書10章4節


 旧約聖書では、「羊飼いと羊」の姿を、「神様と人間の関係」に何度も譬えています。羊飼いは、羊を守るためには絶えず見守り、羊に名前を付けて慈しむ愛の資質が要求されます。そこに「羊飼い」が、神様のご性質の譬えに用いられている理由があります。

 羊は「私たち」の姿です。羊は近視なので遠くを見ることはできません。そのため迷ってしまうことがあります。羊は、荒野では、羊飼いの声を聞き逃しては生きてはいけません。だからこそ「羊飼いと羊」の姿が、神様と人間との関係の譬えとなると言えます。

 門が開かれて、聞きなれた羊飼いの声に外に出てくる羊の姿は、ユダヤではありふれた光景です。それはまた、「神様と人間との理想の関係」でもあります。目の見えなかった人が癒しの奇跡によって変えられ、イエス様との新しい関係となったことにも表されています。

 イエス様は、羊飼いは「門から入る者」であり、「羊の名を知っている者」であると言われます。目の見えなかった人は、この世の偏見という「囲」に閉じ込められていました。彼を閉じ込めていた苦しみや悲しみにイエス様は近づかれ、癒しの奇跡を行われました。「あなたは人の子を信じるか」との声を彼は聞きます。聞き覚えのある声に、「主よ、信じます」と、彼は信仰告白をもって応答します。

 この譬えは、私たちの信仰生活の戦いをも表しています。イエス様は私たちの名前を呼び、恵みへと導いてくださいます。しかし、そのお声が分からなくなる時があります。周りの声に消されてしまう時があります。心の声が勝る時があります。ここに信仰の戦いがあります。羊である私たちがどんな状況にあっても「イエス様は止むことなく見守っていてくださる」ということを大切にしてゆきましょう。この事実に私たちも「主よ、信じます」と応答してゆきましょう。イエス様はいつでも、全ての者を導くために「先頭に立って行く」準備をして待っておられます。

📢音声

あなたは見ている

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ヨハネによる福音書9章35~41節 

澤田 武師

主題聖句 「イエスは言われた。『あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。』
         ヨハネによる福音書9章37節


 癒された事実を証詞し続けた結果、目が見えなかった人へのファリサイ派の判決は、会堂から追放するということでした。イエス様の癒しの奇跡により、生まれて初めて光を見ることができた彼の喜びは、すぐ元の闇の中に閉じ込められることになりました。当時のユダヤ社会では宗教と生活は一体です。会堂から追放されることは、彼が社会との交わりから断たれた生活に戻ることをも意味しています。しかしこの出来事によって「神の業がこの人に現われるためである」とのイエス様の約束は、成就する時を迎えます。

 「あなたは人の子を信じるか」、聞き覚えのある声に彼は驚いたと思います。しかし、その声の主(ぬし)の姿は、彼には分かりません。イエス様の呼びかけは、信仰の迫りです。それは彼にとっては突然であったとしても、イエス様のご計画では、彼の救いは既に備えられた事でした。

 「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」イエス様のお言葉は、彼の信仰の目をしっかりと開かせ、「主よ、信じます」と、彼を信仰告白へと導きました。彼はイエス様をハッキリと見つけました。 

 彼はユダヤで生きるすべを失う覚悟で、自分に起こった癒しを証し続けました。これまでの彼の生活は、与えてもらうことが全てでしたが、イエス様との出会いは、全てを捨てる覚悟を彼に与えました。彼は、何が一番大切なのかを見極めることができたのでした。

 ファリサイ派の「我々も見えないということか」との言葉に、イエス様は応答されます。彼らは知識を学び、確かに信仰熱心でした。しかし、目の前のイエス様の本質を見ることはできませんでした。自分たちの信仰の知識が、イエス様を遠ざけてしまいます。イエス様は、信じる者と信じない者とを分けます。「見ようとしない者」イエス様に裁かれた罪人の姿があります。

 私たちは聖書の中で、いつもイエス様と出会い、イエス様のお言葉を聞いています。聖書には一人一人が必要な時に、ふさわしい御言葉が備えられています。聖書の中に、イエス様のお姿をしっかりと見つめて行きましょう。

📢音声

ただ一つ知っているのは

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小松川教会HP委員会

ヨハネによる福音書9章24~34節

澤田直子師

主題聖句 『ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。』
        ヨハネによる福音書9章25節


 「お前の目をどうやって開けたのか」ファリサイ派のように、「どうやって」にこだわると、聖書のメッセージを受け取る事ができなくなります。聖書を読む時は「どうやって」ではなく「なぜ」で読むと良いのです。なぜ、イエス様はこの人の目を開けたのか。それは、彼を憐れみ、癒してやりたいと思ったからです。彼の目はなぜ開いたのか。それは、イエス様のお言葉を信じて命じられた通りに行動したからです。

 ファリサイ派は「我々はモーセの弟子だ」と言いますが、本当の意味でモーセに従っているのならば、同時にイエス様の弟子ともなれるはずです。出エジプト記を読むと、ヘブライ人がどれほど頑なで愚かで、神に逆らってきたか、モーセがどんな思いでそのヘブライ人を率いとりなしたか、よくわかります。ファリサイ派は「どうやって」モーセの弟子のように見えるか、にこだわっているのです。

 目が開かれた人は、たとえ目が見えるようになったとしても、ユダヤ人社会の中では貧しく数に入らないような自分の姿をよく知っていました。おそらく平均的な教育も受けられなかったでしょう。それでも、30節からの信仰告白は見事なものです。彼は、自分に起こった事実だけ、自分を憐れんでくださったイエス様の愛だけを頼りに、「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と言い切ります。もう見えるようになったのですから、うまく言い逃れて逃げてしまっても良かったのです。しかし、この人は勇敢にファリサイ派の前に立ちます。自分の身をもって経験し、握りしめたことは誰にも奪えません。

 わたしたちは、この現代に生きて、たくさんの情報を得ています。さて、その中で「ただ一つ知っているのは」と顔を上げて言うべきことは何でしょうか。それを、いつ、誰に言うのでしょうか。本当に知らなければならない真理を知り、証しすることができるよう祈りましょう。

📢音声

目が開く時

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小松川教会HP委員会

ヨハネによる福音書9章13~23節

澤田直子師

主題聖句 『目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。』 ヨハネによる福音書9章17節b

 生まれつき目の見えない人が見えるようになったのだから、良かったね、おめでとう、となぜ終わらないのか。見えるようになった人はちょっと気の毒です。いつまでも留め置かれてあれこれと意地悪な質問をされます。

 この人は、つい先ほどシロアムの池で目を洗って見えるようになった時には、イエス様のことを聞かれて「知りません」としか答えられませんでした。しかしファリサイ派とのやり取りの中で、短い時間のうちに、心の中でイエス様のお姿がだんだんと見えるようになってきています。物理的に目が開かれた後で、霊的にも開かれていくのです。

 この人はなかなか勇気のある人で、ファリサイ派に取り囲まれても、気が弱くなっておもねるようなことはせず、あくまで自分に起こった事実だけを述べています。イエス様は弟子たちを派遣する時、「それは狼の群に羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイ10:16)と教えておられます。わたしたちが神様の御業に触れ、目も心も開かれ、それを証詞しようとする時にはサタンの業も働きます。この世に合わせろ、強い者に合わせろという圧力がかかります。わたしたちはどちらを取るかを迫られます。

 クリスチャンは、かつては閉ざされていた目が今は開かれた者です。前は何が見えなかったのか、今は何が見えているのか。この、癒された人も、ファリサイ派に詰問されなければ、「嬉しいなあ、良かったなあ」と家に帰って終わりだったでしょう。試練が信仰を建て上げていくのです。この人にとっては、生まれつき見えなかった自分が今は見える、これは動かしようのない事実でありました。しかし徐々に、その奇跡を起こしてくださった方が自分の救い主であるという事の方が、この人にとっての重大な事実に、真理になっていくのです。わたしたちの信仰も、そのように強められていきたいものです。真理を見る目を求めましょう。

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神の業が現れる

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小松川教会HP委員会

ヨハネによる福音書9章1~12節

澤田直子師

主題聖句 「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。」
        ヨハネによる福音書9章11節B


 イエス様は、毎日道端に座わって行き交う人々に施しを求めている“生まれつき目の見えない人”に視線を注がれました。弟子の一人は、イエス様の視線の先にあるものに気付き「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」と、問います。この世は“この人”の存在を罪の結果として見ています。その原因を捜します。

 “この人”の体に障害があるのは、誰かが罪を犯したからである、因果応報的な弟子の問には、目の前にいる“この人”の心の苦しみは見えません、悲しみも分かりません。弟子の視線も“この人”の過去に罪を捜します。

 イエス様は弟子の問いに、「神の業が“この人”に現れるためである」、と応答されました。イエス様は“この人”を指名します。神様が御業を現す者として、今からは人々の中で生き続ける者となると言われます。

 創世記の天地創造の時、神様は人間だけを、土の塵で形づくり、命の息を吹き込んで創られたと記しています。イエス様は彼の目に、土をこねて塗って、そして、シロアムに行って洗いなさいと命じられます。光りを感じない目に光を創造され、信仰の光を見ることのできる目として開かれたのです。

 誰でも、霊的な目を開かれるためには、キリストの十字架から流れ出る清めの水によって、洗われなければなりません。キリストの贖いの死によって、信じる者の目が開かれます。

 この世は彼に起こった事実を受け入れません。人々の目には、信仰の事実が見えませんでした。この出来事を疑う人々は、どうして目が開いたのかを彼に問います。彼は自分に起こった事実について、全てのことはイエスという方が行ったとしか、応答する言葉はありません。彼は事実の証人となったのです。

 私たちの目もすぐに曇ります。私たちも霊的な目を開かせてくださいと祈り続けて行きましょう。霊的な目を塞いでしまう、罪や自我を取り去ってください、もっと神様が見えるように、もっと神様の御業がよく分かるように、この目を開いてくださいと祈り続けて行きましょう。

📢音声
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